[室蘭] 添田 龍吉 (下)
添田龍吉(出典①)
旧主石川邦光の弟、光親を迎え、意気上がる旧角田藩士。しかし、入植した室蘭は平地が少なく農業には向かない土地で、主従は大変な苦労を強いられます。冷害に伝染病、イナゴの襲来──。そうした数々の困難を乗り越えることができたのは、添田龍吉と泉麟太郎、兄弟2人の兄弟愛と強い指導力でした。しかし、明治21年、明治政府のある決定により2人は別々の道を歩むのです。『室蘭市史』で学ぶ室蘭開拓物語の完結です。
■光親の成長
明治6年2月、若い光親の学業を心配した一同は、協議のうえ学賓は全戸で分担して留学させることにした。光親に緑川禎造が付き添って東京の慶応義塾に遊学させた。
光親は卒業後、一時函館の学校に勤めたが、明治8年9月に帰村し、その後は村人とともに農業に打ち込んだが、諸般の事情がわかり、すでに20歳という壮年になった彼は、だんだん積極策を出してきた。鱗太郎は『長沼90年史』につぎのように述べている。
13年、光親、常に住民寡少競争勉励の乏しきを憂い、旧角田にある同志を促し、移住せしめんことを謀る。大いに之に賛成し、計画するところあらんとす。
明治13年、光税は亡父雅之の7年忌法要に鱗太郎を連れて故郷角田に帰った。そして残留者たちに移住について呼びかけたところ、これに応じたもの77戸、300人、翌年の移住の約束を取りつけることができた。
このとき鱗太郎は、前の経験から移住当初の苫労を考えその足で上京。開拓使東京出張所をたずねて、移住民のために米、金などの扶助を請願して許可をとり、後顧の憂いのないようにはかった。
翌14年2月、光親らは、移住取りまとめの出張へ命令を受けて、角田に出向いたところ、16戸が変心脱落し、結局61戸、211人(男121、女90)が開拓第2陣として同年4月7日、角田を出発。一同は船を待って4日、宮城県の下潜ケ浦から汽船「住之江丸」に乗り込み、16日、残雪の尺余もある室蘭村に上陸した。早速仮小屋をつくって待機した。5月になると開拓使の係員がきて耕地の測量にかかり分画した。6月には住屋ができ、新墾がはじまった。[1]
このようにして伊達支藩角田からの入植者は明治4年の第1回移住と明治14年の第2回移住、そしてその間の移住者を加え、総数97戸331名となりました。これらの人々が室蘭の礎を築いたのです。
『地理写真帖 』第二十二図 室蘭港・1900年(出典②)
■開拓は一進一退
ご承知のように室蘭は天然の良港でありますが、地球岬で代表される険しい山地に囲まれ、決して耕地は豊かではありません。旧角田藩士たちの開拓は苦難を極めました。
移住者たちは、かって鉈を入れない樹林を拓き、ここに郷里から運んだ蔬菜や穀物の種子を播いた。明治3年、この年の収穫はそば14石、粟7石3斗、ひえ1石2斗、大豆6石7斗、小豆3石ほどであり、自家用にも足りなかった。
移住の翌4年にはアイヌから粟、有珠から大豆、砂原から大麦、亀田郡赤川からは馬鈴薯の分譲を受けて播種した。また6年には麻、7年には小麦を植え、10年には鈴木3郎がはじめて水田を作った。しかし、移住者はもともと専業農家ではなく、気候風土も違い、そのうえ耕地は移住後、10年経ても1戸平均8反足らずでは収穫も自家用がやっとであった。
明治10年6月、移住者のなかから猪狩直記を札幌の農場に官費で派遣し、農芸を実習させた。その後、伊達家の田村顕允が、室蘭ほか3郡の郡長になったとき、伊達家で採用し、好成績をあげた西洋式農具、共同農社方式を田村にすすめられ、12年、チマイベツで実施した。さきに札幌で実習してきた直記は開拓使4等樹芸取扱人として農事指導に当たった。
しかし、共同農社や西洋農業は、有珠平野と異なり、山坂の起伏する土地では十分な効果が発揮できず、せいぜい4町歩を開墾するにとどまり、定着するまでには至らなかった。[2]
牧畜は、明治11年5月、輪西村に98町歩の払い下げを受け、翌年5月から共有の牝馬と新たに購入した種馬7頭をもって牧場を開いたのにはじまる。その後、14年9月には輪西牧場へは牧馬15頭、新移住者には耕馬15頭を、それぞれ3カ年年賦で売り渡された。
牧場といっても馬はすべて年中放牧、飼料はとくに与えず、山野の雑草、笹の葉などであった。このため積雪の多かった14年には4頭もへい死させている。
これよりさき、11年には浅野幸七郎を札幌の真駒内へ派遣し、牧畜技術を実習させた。彼は1年でここを終え新冠牧場に勤めたが、14年、開拓使三等牧畜取扱人として輪西牧場に着任、牧畜の振興につとめた。その後、浅野は牧場地21町1段歩で室蘭共同牧場を開いた。
その後も、釧路の牧馬50頭を移入したり、21年には青森県の牧馬53頭を移入し、札幌県より外国産種馬の貸付を受け、馬種改良に努力したが、依然好結果が出ず、まもなく廃業してしまった。[3]
■入植者を助けた養蚕と果樹
一進一退が続きますが、添田龍吉と泉麟太郎兄弟の指導力もあり、少しずつづですが開拓は前進していきます。
当時、開拓使は養蚕を奨励していたので、明治8年、試みにチマイベツで泉忠広の妻など8人、輪西では添田龍吉や麟太郎の妻など8人が、長野県の田嶋武平の蚕種28枚を役所から交付され飼育した。
気候的にも適し、予想をはるかに超え6石ほど収穫した。添田家の文書に「我が地において、農業の副業として最高の利益は蚕業に如くものはない」とある通り、龍吉自身も力を入れ、相当な収量をあげるとともに品も優れ、14年の札幌の連合共進会に出品して3等賞と賞金3円50銭を得た。
しかし、生産した繭(まゆ)の販路先である札幌へは運搬に難があり、そのうえ蚕の飼育繁忙期と農繁期が重なるため、養蚕規模が拡大するにつれ両立は困難となり、次第に縮小し、細々ながらも明治41年までつづいた。
果樹としては、李(すもも)がアイヌ部落に少々あるだけだった。明治3年、移住者ばまず郷里から運んだ呉竹、紫竹を植えたが時期が遅れて失敗。翌4年には郷里の李を植え、根付けに成功。これに力を得て、5年には梨(なし)を植えたら、翌年花が咲き結実。7年には先に植えた李が実を結んだ。
こんな試験栽培にいよいよ自信を得て、8年には梨170本、林檎(りんご)130本、桃(もも)200本、李150本、さくら150本、桑2600本を植え、以後毎年増殖をはかっていった。4~5年するといずれも開花結実となった。そして第二の故郷にふさわしく、春は百花爛漫、秋は結実、収穫を喜び合った。[4]
とはいえ、これしきの試練で入植者たちを喜ばせるほど、北海道の自然は甘くありません。明治13年、故郷では想像をもできない、まさに開拓期の北海道にしか見られない、破天荒の災難が入植者を襲います。
■イナゴの大群が入植地を襲う
間もなく人変な事態が発生した。それはコレラと蝗害である。チマイベツと輪西にコレラが発生、被患するもの多く、一時停滞を余儀なくされた。そのうえ前年来の蝗害がまたもや発生した。
蝗害というのはトノサマバッタによる被害である。明治13年から17年くらいまでの9カ年、十勝・日高・胆振・石狩の4ヵ国が毎年反復して襲われた。北海迫蝗害報告は次のように述べている。
当時人民ソノ何物タルヲ知ラズ、徒然手ヲ束ネ到ル所惨害2罹ル……。ソノ飛下スル所ハ青草ノタメニ色ヲ変ジ、原野モ赤土ニ似タリ。最嗜ノ植物ハ、粟・稗・大小麦・黍・牧草ナリト錐モ、餓ルニ至ツテハ、殆ンド喫食セザルモノナシ
バッタに対する知識の無かった時代、防虫や駆除方法も十分ではなく、8月23日、白老から幌別への飛来の報に、蘭法華坂上とチリベツ、鷲別村の3カ所に防御線を張り、茅草を刈り集めて火を放って煙を起こし、あるいは鉄砲を頼りに行ったが防ぐことができず、とくにトウモロコシ、栗の被害がひどく、夜は点火したが効果なかった。
被害場所は市内全域で83反歩余、とくにチリベツの被害は甚大であり、2年間で延100万人(原文のママ)を動員、捕獲したバッタは40石であった。[5]
翌14年、新たに60余戸の大移住民を迎え入れたが、7月またイナゴの大群に襲われ、耕地は50町歩も増したが、チリベツなどは耕地の被害は大きく、すべて減収を余儀なくされた。
イナゴの駆除には、先きに述べたとおり開拓使も力を入れており、駆除に出動すれば日当が払われた。イナゴの死骸を1升10銭くらいで買い上げたので、生活的には大いに助かった。この年、移住者たちは駆除人夫賃178円88銭、イナゴ買上代285円56銭が手に入った。
その後、明治16年は6月より9月まで雨がなく干ばつ、17年は長雨と台風、水害もあったがよく耐え、18年には耕地も88町歩に達し、小豆・大豆・麦など作付面積も増え、次第に自活できるようになってきた。[6]
この時のイナゴの来襲は室蘭だけでなく、全道的に大変な脅威を与えました。各地にさまざまな逸話が残っています。あらためて紹介したいと思います。
さて、イナゴの大群が来襲するという未聞の災害をなんとか乗り越えた旧角田藩士たちですが、明治21年、イナゴではなく屯田兵という生きものが大挙来襲することだけはどうしようもなかったようです。
■室蘭屯田兵村建設
明治6年12月30日、東京出張所から本・支庁に通知があり、本道に屯田兵村を設置するにあたり札幌と室蘭が選ばれ、札幌に300戸、室蘭に200戸の兵屋建設計画が告げられたが、翌7年3月建設戸数を各100戸ずつ減らして200戸と100戸にした。
いよいよ現地測量が行われるという段階まですすみながら、なぜか延期、琴似(札幌)だけの工事となり、その後の兵村建設は札幌近郊に限られた。
室蘭には軍港設置の計画があり、海軍が先行して施設をすすめるべきだという議論が当局間で行われた結果ではないか(『旧市史』昭16年)といわれている。また、設計案に対する松本大判官の反対意見、または財政上の理由から本府警備を重点として室蘭の方を中止したのではないかと推測される。
明治20年、永山武四郎屯田本部長は、開拓移民の実情調査のためアメリカ・ロシア・清の3国を巡察した。その結果を大山巌軍大臣に上申し、ロシア南下に対処することが急務であり、屯田兵の増強を速やかに実施するよう要請した。
明治19年に北海道庁が設置され、屯田兵の経費は軍省から道庁の所管に移された。これを機に永山本部長は、屯田兵制度の拡張と改革に取り組み、まず本道の東太平洋岸と千島に対する防備を主眼として和田(根室)、太田(厚岸)、および輪西(室蘭)に屯田兵村を設置することにした。
輪西兵村は、つまり太平洋岸の防衛的な面が重視された兵村であり、農地開拓上の土地選定としては不利であったから苦難の道を歩む結果となったのである。
兵村建設地の選定は、一般入植者と異なり、兵農を兼ねる趣旨から、①防衛上の要地②開拓上の拠点③農耕適地④広大な地籍が必要条件である。当兵村は①②の条件をみたすとはいえ、④も満足し得るものではなく、ことに③の条件については士壌・気候・飲料水など、どれをとっても最悪の条件下にあった。これは選定者が地理、気候などについては確実な資料も持ち合わせず、屯田兵村として自立ができるかどうかの見通しが甘かったせいもあろうが、それよりも国策として防衛上の観点が優先されてその他の条件についてはあえて目をつぶった結果であろう。[7]
ただでさえ平地の狭い室蘭に500戸を超える屯田兵が入植したのです。旧角田藩士たちと共存できなことは明らかでした。角田藩士たちは草分けであり、原生林から耕地を拓いたのは彼らです。しかし、屯田兵は〝国策〟。国を譲ったのは先住していた旧角田藩士でした。
つねに指導的役目を果たした鱗太郎は、新たな土地、夕張郡アノロヘ再び移住することになった。それは第2陣が入り、総数300数10人の大集団をかかえるに至って、農地の狭隘を案じていた。しかも、明治20年、鳥取・愛媛・兵庫県より110戸528人が室蘭屯田兵として輪西一帯に移住してきたのである。[8]
屯田兵兵村開設によってあふれた旧角田藩士を率い泉鱗太郎は新天地を目指します。長男の添田龍吉は室蘭に残る。次男である鱗太郎は室蘭を出る。それがこの時代の習いでもあったでしょう。
■添田龍吉、製氷事業を起こす
室蘭に残ることとなったのは添田龍吉。2人の兄弟は、この狭く険しい土地の開拓を成功させようと、さまざまな事業を試みていました。泉麟太郎が室蘭を離れた後、そうした事業の一つ、製氷事業が成功し、大きな産業に育ちます。実業家として知られるようになった龍吉は室蘭の政治、文化、産業の各方面で活躍。現代もその血筋は室蘭に残り〝室蘭の開祖〟と呼ばれるようになります。一方、室蘭を出た弟の鱗太郎は……
『北海道十六景・室蘭』年代不詳(出典④)
鉄の町室酬の前身ともいうべき鋳物場も添田龍吉が明治15年4月に現本輪西駅前付近に建てた。龍吉は、噴火湾一帯の海岸に放置してあるニシン釜や鋳物の破片を集め、廃物利用をかね内地からの輸入をも防止しようと、南部(盛岡)から職人を招いて日用品器具を製造した。しかし、当時は需要も少なく、そのうえ価格も内地品と競合するには割高となるため、これも17年には廃業するに至った。
龍吉、麟太郎兄弟は、冬季の間、徒食している移住者のための仕事として当時「五稜郭氷」が東京方面に売り出されていることにヒントを得て製氷事業に乗り出した。
本輪西1丁目春雨橋バス停前付近、485坪の第2氷場をコイカクシ川から引水してつくった。水深は9尺とし、ここに夏は鯉・ヤマベ・ウナギなどを飼育し、12月初めから2回ほど凍結させ、その間、降雪があったとき毎回掃き上げ、氷に雪のまじらない等の氷をつくり、さらに大寒中に数回凍らせて一定の厚さの製品をつくったのである。
龍吉自身も早朝より1日2、3回現場の見回り、夜は記帳精算するまでは夕飯をとらなかつた。また、龍吉の長男欽允の妻恵喜子も、何人もの子供を育てながら、昼は農園に出て働き、夕方集ってくる数10人の製氷夫の家族に対し、毎日、別棟の倉庫に往復し、自ら米塩味噌を分け与え、いちいち龍吉に報告して早朝より夜おそくまで働いた。
明治34年12月、龍吉は室蘭の商人山崎常吉、作佐部蔚と提携して共分組合をつくった。それぞれ資本金331円ずつを出しあい、龍吉はもっぱら製氷にあたり、山崎と作休部は室蘭の海岸町1番地で氷の卸売りをはじめた。屯吉の製氷場は「輪西製氷場」といい、販売店の方は「室剛氷室」と名づけ、郡内に販売した。暑い関西方面では大へん亜宝がられ「輪西氷」として好評を博した。
共分組合契約の終わる明治36年、製氷地を含めたこの付近一帯34町歩を、米国の石油会社インターナショナル・オイル・カンパニーが石油タンク設置場として買いしめた。契約の条件として、会社が着工するまでは、この土地使用は認めており、また、会社が必要が生じたときは補償として1000円を相手側に支払うということもあったが、龍吉はついに利用しなかった。
こうして25年以上継統した製氷業も36年をもって廃業することになった。しかし、この製氷については、当初の冬季授産の目的は見事に達せられ、多くの移住者をはじめ、白老、長万部あたりの季節労務者とその家族までうるおした。この点、当初の計画通り成功したものであり、かつ彼の取り組んだ事業のなかでも最も成功したものといえよう。[9]
一方、室蘭を兄に譲った泉鱗太郎は、
明治二十年屯州兵ノ移住アリ、輪西モ土地狭キ故、他ニ良キ移住地ヲ得タシト考ヘシニ、室蘭郡長古川浩平モ心配シテ呉レタ。石川光親ハ郡書記卜ナッテイタノデ、道庁ノ殖民撰定報文ナトヲ見テ調査シタ。其ノ結果、二十一年五月三日、自分ハ夕張二出張シタ。[10]
と、夕張原野を目指して北に向かいます。この続きは下記リンクよりお楽しみください。
【引用出典】
[1]室蘭市史 第1巻』1981・620p
[2]室蘭市史 第1巻』1981・626p
[3]室蘭市史 第1巻』1981・629p
[4]室蘭市史 第1巻』1981・628p
[5]室蘭市史 第1巻』1981・627p
[6]室蘭市史 第1巻』1981・622p
[7]室蘭市史 第1巻』1981・627p
[8]室蘭市史 第4巻』1986・233p
[9]室蘭市史 第1巻』1981・625p
[10]室蘭市史 第1巻』1981・634p
【写真出典】
①『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・601p
②国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/
③④北海道立図書館デジタルライブラリー
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/