北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[栗山]

 

泉 鱗太郎
(1)

 
 

室蘭、栗山の開祖 北海道開拓の原型をつくる

明治の北海道開拓において最も功績のあった人物の一人、栗山町の開祖、泉鱗太郎をご紹介します。鱗太郎は室蘭の開祖となった添田龍吉の実弟であり、戊辰戦争で幕府方に付いた仙台角田支藩が維新後、北海道移住を志すと兄とともに移住の指導者となりました。室蘭に屯田兵村が設けられ人口が増加すると、麟太郎はこの地を兄に譲り、馬追原野に転身したのでした。室蘭と共に二つの地で開拓を成功させた功績は大きく、明治の北海道開拓の原型をつくった人物と言えます。

 

 

■藩主より鱗太郎を賜る

添田龍吉と泉鱗太郎兄弟の室蘭開拓については、以前草分けの人・室蘭・添田龍吉で紹介しました。伊達に移住した亘理伊達氏、当別に移住した岩出山伊達氏など、維新後の仙台支藩の北海道開拓では藩主自ら渡道し開拓の先頭に立った例が知られますが、兄弟が仕えた角田藩主石川邦光は優柔不断で重い腰を上げようとしません。藩主に代わって開拓を指導したのが龍吉、麟太郎の二人でした。ここでおさらいとして泉鱗太郎の経歴を『栗山町史』1971より紹介します。
 
《参考リンク》
【北海道各地 草分けの人】[室蘭市] 添田 龍吉(上)
  仙台支藩筆頭の角田石川氏は室蘭に移住
【北海道各地 草分けの人】[室蘭] 添田 龍吉 (中)
  動こうとしない角田旧藩主、取り上げられる室蘭支配
【北海道各地 草分けの人】[室蘭] 添田 龍吉 (下)
  添田龍吉と泉麟太郎、2人の兄弟愛と強い指導力
 
 
泉麟太郎は宮城県角田市の添田保の次男として天保13(1842)年(1842)に生まれ名を拙之助といった。少年時代は師について勉学、また藩校の成教書院で研学、のちに選抜されて仙台でも文武を修めた。
 
元治元年8月、泉靖七郎の養子となり家督を相続し、11月には兵学の師大立目与四郎と京都勤番に出発したが、そのおり藩主より麟太郎の名を賜わった。慶応元(1865)年11月成教堂目付兼武頭役となり、戊辰役には隊長として白河口へ出兵した。
 
明治治維新の役に敗退した旧主石川邦光は、廟議が蝦夷地開拓の儀にあることを知って出願した。重臣、家臣とともに室蘭郡の開拓を志し、明治3(1870)年(1870)350余戸の同意を得た。
 
まず泉麟太郎は51名を率い、4月6日室蘭に到達し、室蘭・千舞・輪西で開墾に従事した。それ以来、塩汲業・札幌出稼・養蚕・製網・製氷・共同農園・共同牧場などの企業のほか、農事通信員、役場筆生・学務委員・戸長及び室蘭警察署長の職にあったり、あるいは61戸(211人)の移住者の世話などつぶさに辛酸を重ねた。
 
時に室蘭郡長古川浩平が、麟太郎らの奉ずる旧主の石川光親に夕張開墾を勧めた縁によって議が熟し、明治21(1888)年3月、夕張開墾起業組合を組織して同志を得、24名が5月3日、室蘭を出発して阿野呂原野に向かい開拓に着手した。
 
こうして明治22(1889)年には新聞で移民を募集し、岩見沢間の道路を開き、神社を奉祠し、23年5月8日角田村の公称を得、教育施設、請願巡査を置いた。
 
また26年には水稲試作に成功、28年水利組合を組織し、31年日本勧業銀行より4万円の資金を借入れ、全道にその例を見ない一大灌漑溝を完成したのが33年6月。明治35(1902)年から農会長として立村の基礎を打ら樹てた。以来1200haの美田を造成して、角田米の名声を拍すようになった。31年、開発の元勲功労者として藍綬褒章を下賜されている。[1]
 

■鱗太郎のもつ公益性の凝結

明治の士族開拓で活躍した開拓指導者の中には、事業が軌道に乗ると本道を離れ故郷に戻る者も多かったのですが、鱗太郎は先頭に立って開拓の鍬を下ろした以降、大正2年の大冷害を契機に2度目の村長就任を果たすなど、昭和4(1929)年に亡くなるまで栗山の町の発展に生涯を捧げました。『栗山町史』は次のように麟太郎の功績を讃えています。
 
鱗太郎の公職は、26年間にわたる角田村の土功組合長をはじめ、総代となり村会議員3回、学務委員2回を勤め、明治40(1907)年には一級町村長となって4年、次いで大正4(1915)年には再び村長に就任した。また明治37(1904)年には道会議員に当選するなど、わが村、わが道政のためにも貢献するところ大であった。
 
しかも鱗太郎は私有地の一部を割いて共有地を設け、町有財産の基礎を開いたことは、町の今日の発展の礎となったもので、麟太郎の強い公益観念の発露といえよう。
 
栗山町に生き続けるこの開基精神は、ことごとく鱗太郎のもつ公益性の凝結したもので、町有農地開発経営、町有林の経営などその事績の顕著なばかりでなく、町各般の施設はみなこの伝統に立っており、内においては見るべきものがあり、外においては良き模範となって、町全体の業績を高める結果となり、その功は町民の深く盛銘するところであった。
 
このことが大正12(1923)年9月に銅像建設の契機となった。ところが昭和3年(1928)年、秋冷の頃から健康にすぐれず、翌4年1月8日遂に88歳の高齢をもって逝去、道拓殖に貢献した高潔の生涯を閉じるにいたった。
 
その功績の高さから1月8日特旨をもって従6位に叙され、1月11日開村以来の功労を酬い、村葬の礼をもって報いられたのである。[2]
 
 

■夕張開墾起業組合の組織

さて鱗太郎の経歴を振り返ったところで話を栗山の開基に戻します。『栗山町史』では触れられていませんが、鱗太郎が馬追原野に向かうことになったのは、兄弟で入植した室蘭はもともと土地が広くない上に、明治20(1887)年に輪西屯田兵が置かれ、さらに農耕地が狭くなったからです。
 
鱗太郎はさまざま事業を行いますが、旧角田藩士を食わせるのには十分ではなく、誰かが室蘭を去らなければならなくなったときに、鱗太郎は兄に室蘭を譲ったのです。この時、鱗太郎は「夕張開墾起業組合」という結社をつくり、株式会社方式で馬追原野開拓に臨みました。
 
明治20(1887)年11月のことである。室蘭郡長の古川浩平は、当時郡書記であった石川光親に「この室蘭郡下は地域が狭く、土地はやせて移民地として前途の開拓を期待することは至難である。自分は今、夕張郡下馬追原野で未開地を貸下げてすでに開墾に着手しているが、そこは地味は肥え、地積は広く、将来の農耕地として、その振興を嘱望している。茫々とした一帯の平地で夕張川に沿う処女地であるから旧角田藩の人達と相談しては如何」と話したので、光親はさっそく泉麟太郎に相談した。
 
当時泉はこの地方三村の戸長であり、また古川郡長とも昵懇であったので心動き、夕張郡の土地の状勢などを詳細に郡長に聞き、第二の角田郷を夕張原野に創設せんと、この時以来開発の決意をいだくにいたった。
 
夕張原野の開発案は共同企画によることとし、同志を得たが、翌明治21(1888)年3月、合資による夕張開墾起業組合が組織された。
 
その組織内容は、資本株と労働株に分かれ、資本株は毎月3円ずつ出資して3カ年96円で終わり、企業成功の後に耕地10町歩を配当するものであった。
 
労働株は米・味噌・塩・石油・農具等を支給されて、起業地の開墾や農耕に従事し、5年後に5町歩の給与を受ける事になっていた。また、4年のものは4町歩、3年のものは3町歩を給与される規則であった。出資株主ははじめ20人であったが、のち1名が加わって21名となった。
 
この夕張開墾起業組合は会社組織なので組合員は社と称し、泉麟太郎は社長とよばれていた。社長は土地の貸下出願や、開墾起業などの運営一切の責務に当たった。
 
当時村名のなかった馬追原野西部(長沼)においては、石川光親ほか10名が出願下願して、110万坪を貸下げられたが、のち返地があって32万4475坪を下付されている。のちに真成社の名で開墾されていった。
 
馬追原野東部の夕張阿野呂原野の払下げは、1人10万坪ずつを浅野幸七郎ほか2名が5月に出願して12月1日に許可された。この3名の貸下地は泉麟太郎に管理され、さらに貸下地を拡大していった。[3]
 

明治29年の馬追原野、右に麟太郎が入植した角田村、左に長沼村、中央に夕張川、上に栗沢村(出典①)

 

■麟太郎 馬追原野を目指す

室蘭を出立した麟太郎一行は白老を経由して千歳で足を止めます。ここには新保鉄蔵が経営する駅逓がありました。新保鉄蔵は長沼の開祖・吉川鉄之助も世話になっています。明治20年代道央開拓の功労者です。開拓にはアイヌの助けがなくてはなりません。新保が麟太郎に紹介したアイヌこそ有名な夕張鉄五郎でした。
 
明治21(1888)年5月3日、泉麟太郎は土地の選定や小屋掛けのために、氏家貞吉(21歳)田中圭治(18歳)の2人を伴って、少量の米・味噌・寝具・鉈鋸・小屋掛け道具・炊事道具などを駄馬につけて、旧地の人達や間もなく後続する社の人達に見送られて、室蘭郡下を雄々しく出立した。
 
途中、白老に一泊し、さらに千歳に出て、当時の駅逓所の新保鉄蔵の宅に宿泊した。ここは札幌から9里で、室蘭からこの地を経て札幌へ国道が通じ、馬が通る立派な路がついていた。
 
千歳の部落は2~30戸で和人はわずかで、千歳川のふちにアイヌが笹小屋を立て狩猟を行ない、原始的な生活を送っていた。泉はここでアイヌを雇ってもらい、これを案内とて阿野呂の原野へと出発した。[4]
 
参考リンク
【草分けの人】「長沼」 吉川 鉄之助 (下)
 

栗山町「泉記念館」のジオラマ。夕張鉄五郎が麟太郎一行を渡す場面

 

■歴史的な第一夜の夢をここに結んだ

麟太郎は第二の角田郷建設を目指して馬追原野に向かいます。この時、春の雪解け水を湛えて一行の行く手を阻む夕張川を命を賭して渡船したのがアイヌの夕張鉄五郎でした。この鱗太郎と鉄五郎の逸話は、北海道開拓の中でももっとも美しい話としてかつては知られていました。当サイトでもかつて「栗山開拓の橋渡し役となったアイヌ」で紹介していますので、ぜひご一読ください。

参考リンク
【民族の共生】栗山開拓の橋渡し役となったアイヌ
 
一行の上陸第一歩の地点は、旧アノロ川が夕張川に注ぐところで、そこにはずっと今の川の中頃までも突堤が出ていて、大きなタモの木が幾本ものびていた。
 
一行はここからアノロ川の川ぶちをたどって数町奥地へ進んだ。そこはいくらか土地も高いし地質も素晴らしくよかった。枯れたまま川端に倒されている去年の雑草は、雑然と入り混っているが、随分と太くて長い。巨樹も高樹もはるかに続いて見透しをつけることは出来ないほどであった。
 
男の人達は、場所を選んで小屋掛けに着手した。その場所というのは現在の伝庄の地所の倉庫付近で、アノロ川には25~6間、またそばには谷地もあって水に不自由がなく、あまり気の多くないところを選んだのであった。
 
小屋は3間に6間ほどの大きさで、立木を伐って丸太をつくり、みんなで造作なくつくりあげた。屋根も囲いも床もみんな葦で、床には荷物をくるんできたムシロやゴザを敷き、戸口にもゴザをつるして一同の共同小屋は夕方までにすっかりその形が出来た。
 
夕張開墾起業組合の7戸は、組合の社長であり、引卒者であり、責任者であり、旧地の戸長であり、この地の産みの親である泉麟太郎を中心に、本町開墾起業の歴史的な第一夜の夢をここに結んだのである。[5]
 

 


【引用参照出典】
[1]『栗山町史』1971・栗山町・181-182p
[2]同上・182-183p
[3]同上・190-191p(一部省略)
[4]同上・191-192p(一部省略)
[5]同上・1194p
①『町史編さん室ニュース』2017/6・栗山町町史編さん室・11P

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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