北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

永山屯田兵 乾咲次郎 日露戦争従軍手記(上)

 

日露戦争に従軍し、勝利に対して決定的な働きを行った屯田兵。結果として日本の独立を守りました。屯田兵の産みの親、永山武四郎将軍の名前をいただいた旭川の『永山町史』1962に、日露戦争に従軍した永山屯田兵の手記が掲載されていましたのでお届けします。前編と後編に分かれます。前編は第7師団ができた経緯と日露戦争での行動、そして永山屯田兵の従軍活動の概観を述べたものです。後編で「手記」をお届けします。

 

■第7師団の成り立ち

本町の国防に関する事餓はまず屯田兵の入地に始まるのであるが、これはとくに本町史上特筆すべきことであるので、すでに「屯田編」で詳細を述べた。
 
明治35(1902)年日清戦争当時まではわが国はまだ第6師団までであったので、戦時中本道屯田兵をもって臨時第7師団が編成され、本町屯田兵もまた予備役で応召、これに編入された。
 
ついで戦後、政府に軍備拡張の議起り、明治29(1896)年1月、渡島・後志・胆振・石狩の4カ国に徴兵令が施かれて、第7師団が正式に定められ、仮りに司令部を札幌の屯田兵本部におかれ、屯田兵司令官であった永山武四郎将軍が初代師団長に補せられる。
 
明治31(1898)年1月からは全道11カ国に徴兵令が施かれたが、本町は屯田兵として家族ぐるみ軍事的生活をして警備に開拓に当たったことによって、その子弟は明治32(1899)年までは徴兵を免ぜられる。
 
もともと本道の中央、上川地域に師団司令部を置き、ここに大兵団を設けて北方瞥備の中心地とする計画であったので、明治31(1898)年、鉄道の開通するや、32年、敷地を買収、東京の大倉組の手によって明治32(1899)年6月より兵舎その他の大工事が始められる。
 
毎日職工や人夫が807人より1000人を越え、機械乾燥場や木びき工場を設けての大がかりであるから、旭川はもちろん、近村の直接間接の影響は大きかったと思うが、本町に関しては詳細は不明である。
 
明治33(1900)年11月より札幌から部隊移駐、34年10月司令部が移って、これより今次の終戦まで40余年間、北鎖部隊としてその勇名を内外に馳せたのであるが、本町出身者も内地に本籍があって帰還入営するものの外は皆、この師団に入って活躍の一翼を担ったのである。[1]
 

旭川第七師団衛戍地(出典①)

 

■日露戦争の第7師団の活躍

以下、本町出身者の含む部隊をして、第7師団の活躍の一般を略叙しておく。
 
明治37(1904)年日露の国交断絶急を告げると、2月7日、第7師団は直ちに臨時海岸監視哨を編成して、室蘭・留萠・稚内方面に派遣、沿海の警戒にあたる。
 
2月10日、宣戦の詔勅煥発せられたので、同日歩兵第28連隊の第2大隊を函館要塞守備隊として派遣し、歩兵第26聯隊の1中隊を室蘭に、歩兵第25連隊の1中隊を小樽に守備隊として派週する。
 
8月4日、第7師団に動員下令。
 
8月21日、旭川及び月寒の各部隊は逐次、輸送を開始し、同月27日、野戦第7師団司令部は旭川を出発、青森を経て大阪に向い、同年11月11日、第3軍に編入、司令官乃木希典の麾下に入る。同月13日運送船で戦地に向う。
 

青森にも用意された日露戦争出征戦士を迎える凱旋門(出典②)

11月30日、第3軍第1師団の諸部隊と共に、旅順背面の「二〇三高地」及びその付近を攻撃。連日連夜の悪戦苦闘、おびただしい機牲を払って、同12月6日未明ついに同高地を占領して、旅順の死命を制するに至った。満州軍総司令官は、その功績を称えて感状を授与し、北鎮勇士の面目を施す。
 
ついで同高地に観察所を設け、硬盤溝及び姜家屯の28珊榴弾砲をもって旅順港内の敵艦を砲撃し、レトウィサン号外2艦を破壊する。その後諸隊と共に諸要塞を攻略し、ついに難攻不落と称された旅順口もわが軍の占領するところとなる。
 
明治38(1905)年2月27日、第3軍は奉天付近の大決戦に加するため、急行迂回、敵の右側背を圧迫。第7師団は奉天付近の大黄旗塁・李官塁・程之家子・転湾橋・三台子・北陵・遼陽柵等に転戦して、ついに敵の主力を壊滅させる勝因を作る。第7師団がこの戦役で受けた感状は12通。将校以下、下士卒で感状をうけた者は133人にのぼる。
 
明治38(1905)年10月16日、平和克服講和条約が結ばれたので、明治39(1906)年2月、師団は大連を出発、青森・室蘭を経て、2月9日、師団長大迫尚敏以下、衛戍地に凱旋、同12日各部隊を復員する。[2]
 

第7師団の凱旋を迎える室蘭港(出典③)

 

■永山屯田兵の日露戦争

明治37(1904)年2月10日、征露の宣戦を拝し、すでに後揃役にある屯田兵も40歳前後の老兵も、この国難に士気とみに振い、同年8月応召。旭川に滞陣3カ月、その間猛訓練を続け、10月、第7師団は第3軍に編入、旅順に出動することになり、衛戍地を出発。
 
永山屯田兵は第1回補充兵800名に加わり、輸送指揮官黒田少尉に引率され、室蘭を経て青森に上睦、途中各地の歓送を受けながら広島で3泊、宇品から安芸丸に乗り込んで祖国を後に、一路ダルニー指して進発したが、途中、まだウラジオストックや旅順の露国艦隊が日本海に出没しているので、夜になると島かげに姿をかくしながら、とにかくダルニー港に着く。
 
占領したロシヤの宿舎にアンペラを敷いて麦飯を食べて休み、朝8時、陸路、旅順の第7師団衛戍地まで11里を行軍。
 
わが屯田兵は旅順の包囲軍に加し、多数の戦傷死者を出して武勲をあげる。悪戦苦闘、旅順開城後もさらに北進、各地に転戦して奉天付近の大会戦には多数の戦死傷者を出して武勲を挙げる。
 
海ともに連戦連勝、38年9月、講和条約成立。わが屯田兵はこの年11月より翌明治39(1906)年3月にわたって凱旋。この戦役に加した永山屯田兵勇士は実に298名、うち30余名の戦死者と多くの戦傷者を出す。
 
この戦役の論功行賞は、この年7月、第1軍の行賞を初めとし、次第に第2軍、第3軍に及ぼし、40年に及ぶ。本町より出征の屯田兵も従軍記章に一時金の下賜あり、叙勲せられるもの159名。よく兵農両全の屯田目的を果たしたものといえる。
 
以下、衛生隊員として従軍負傷の屯田兵乾咲次郎手記を抄録する。前記と多少重複するが史実を具体的に知るととができる。[3]
 

 


 

【引用出典】
[1]『永山町史』1962・旭川市・849-845P
[2]『永山町史』1962・旭川市・850-851P
[3]『永山町史』1962・旭川市・302P
【図版出典】
①旭川市図書館 北方資料デジタルライブラリー http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/public-library/public5.html
②③ジャパンアーカイブス https://jaa2100.org/index.html
 

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