[旭川・永山] 永山屯田兵 乾咲次郎 日露戦争従軍手記(中)
二〇三高地の攻防戦から奉天決戦に向かうまで
『永山町史』掲載の永山屯田兵・乾咲次郎氏の「日露戦争従軍日誌」です。今回は乾氏に召集令状が下され、「二〇三高地」の戦いに参戦し、天下分け目の決戦となった「奉天会戦」に向かうまでをご紹介します。乾氏が「二〇三高地」に投入されたのは攻防戦最終盤です。面白いのは戦いの後の話。実体験した人間でしか書けないエピソードがあります。
乾咲次郎(出典①)
乾咲次郎氏の「日露戦争従軍日誌」をお届けする前に、乾氏の経歴を簡単にご紹介します。『永山町史』1111pによれば、乾氏は明治7(1874)年明治7年2月17日、大阪出身。家は相当の資産家で父はたびたび村長を務めた家柄だったそうですが、カンテン製造の事業に乗り出して失敗。9歳の頃に死別しました。これより家は困窮します。青年になって屯田兵のことを聞いて、兵庫県に転籍して年齢を一つごまかして明治24(1891)年永山屯田に入植しました。
そして今日ご紹介する日露戦争従軍。戦後はどうしたことか、俳優となって一座を組み、26年間に渡って全国を行脚します。芸名「霧励信道」。全国で結んだ交友関係が広く、昭和13(1938)年に永山村に戻って村会議員当選。その後、数々の村の役職に付き、昭和34(1959)年6月に85歳で亡くなりました。
「霧励信道」という芸名から日露戦争をテーマにした新劇団だったのではないかと思われます。膨大な著作を残したようで、おいおいこのサイトでも彼の人となりを探索してみたいと思います。では乾咲次郎従軍日誌をどうぞ。
■出陣
≪明治37(1904)年≫
明治37年8月5日に召集令状を受け、9日旭川の第27連隊補充大隊に編集され、本隊が出発するまで旭川の民家に宿舎すること1カ月、本隊を見送って兵営生活となる。
11月下旬、乃木軍について「203高地を攻めた我が7師団の本隊は全滅した」とのうわさが飛ぶ。
12月2日、27連隊第1補充400名が某中尉の引率で出発。出発にあたっては窓ごとに死別生別の涙である。
6日7日、広島で2泊。
8日の夜半、宇品港を阿波丸で出帆。
11日の朝、大連に上陸する。白衣の傷病患者を多く見て、やがて自分もかくなる運命と淋しくなる。大連公園にも行ったが、荒廃して見るべきものがない。
12日の夜出発。[1]
■二〇三高地の戦い
13日の夜、敵弾をさけて山陰をたどりたどり、203高地の峰続き北方の赤坂山に着き、頂上より10間ほど下ったところの分隊の幕舎へ入る。
小隊分隊によりそれぞれ違った行動や戦さも繰り返されたが、連隊本部はすべて山麓ナマコ山との間の細い谷道を西に見て東に大穴を掘って穴居する。
それから70メートルほど上に穴を掘って大隊本部が配置される。その上100メートルの所に中隊があり、その上頂上から10メートル下った所に分隊がある。
30日の夕方、食事を大隊本部に取りに行くと、正月のもちが1人に3箇ずつと酒1合ずつが与えられる。食事はすべてにぎり飯で、カマスに入れて馬で大隊本部まで迎んでドシーンと落とすので、灰のような砂土がカマスを通して飯にしみこんでいる。3食分一度に配給される。
31日から元日は敵弾がはげしい。
≪明治38(1905)年1月≫
2日から旅順の山々は沈黙する。元日に旅順降服というが、実際ははげしく敵弾が飛んで来たもので戦死者も出ている。
2日午後4時半、敵を敵と見なさずの命令来り、ロシヤ側は港内に残る軍艦をみな焼く。黒煙蒙々、新市街を包み、前線兵士は敵味方となく壕から現われる。露兵は笑顔でわが兵に近づき、手まね仕草で日本兵にこびるのもあわれであった。
3日は戦友の屍死火葬、砲台の授受、降伏兵の処置等、雑役の中に暮れていく。
二〇三高地の攻防(出典①)
■旅順陥落
4日は休息。昨日まで殺し合った敵と今日は親しく酒をくみ合い、パンを分けあう。個人にうらみはない。個人は戦わない。互いに言葉は通じないが、満面笑顔で数時間、暮れやすい冬の日は落ちて行く。
5日は第1大隊は新市街の警戒にあたる。
6日、第2中隊全員40名は兵営兵舎の掃除にあたる。スコッチのシャツのつまっている倉庫を見つけて、露兵の大きなシャツを2枚3枚とかかえこむものもある。33センチ砲弾のような石のような角砂糖を頬ばるもの、ポケットへつめるもの、堅いけれども火にあぶると割れる。18型の狂った時計を見つけて国で修繕させるのだと得意に胸に下げたもの、7寸ぐらいの皮のサック入りナイフを腰に下げるものなどもある。小豆を持って来て小麦粉で団子をつくる。例の角砂糖で汁粉もつくる。
8日、第1大隊だけは赤坂山に留まり、他隊は方家屯の方に移動する。
9日午前7時。方家屯に幕舎を作るため赤坂山より材料連び3回。すっかり疲れる。時に伝令があって、13日入城式。14日は中央で陥落式があるというので、一同喜ぶ。
10日1一時、命令変更、明朝出発、準備せよと。午後は銃の検査と勅語の奉読。[2]
ロシア軍の降伏(出典②)
■北進
11日夕方、方家屯出発。午後5時に長嶺子着。たくさんの給与品があって11時半、今度は汽車運送で出発。台車で1車38人ずつ「乗っていろ」というだけ。狭い、天幕もない。厳寒の吹きさらし。それでも歩くよりはましだ。北進また北進。
13日午後3時頃、大石橋着。しばらく休んで営口に着き、某家で一夜をあかす。敵が鉄道を破壊するというので警戒をする。
14日、海上の西北2000メートルにある鉄橋警戒。ここは3日前に敵騎が鉄道に爆薬を数回仕掛けたというので、ずい分厳重に警戒する。17日まで続く。海上の町は石煉瓦で高さ丈余の城壁でめぐらされ、なかなか頑丈で立派でであるが、城内は不潔で道路はせまい。多くの店は繁昌している。連隊本部と大隊本部がここに移る。
20日、第27連隊の後備役と交代して出発。夜行軍で12時、牛荘に着き、北万村落に入る。
21日の夜、大隊で牛4頭を買い、清人数名に料理させる。足と頭と腹、腸をやると、たちまち多少を訴えて分配に大争い。[3]
■決戦準備
23日、北方に散兵壕を掘る。土地は堅く凍って十字鍬をはね返す。北風に小雪まで交えて吹く。困難を極める。翌日も引き続く。1中隊42名で1日50メートルと定められる。
25日、やはり塹壕掘り作業中、北方はるかに砲声が絶間なく聞こえる。奉天攻撃の前哨戦だという。
28日夜、パチパチ! それ!敵の夜襲、一斉射撃というので心で応戦準備をしたが、第1小隊の偵察で中国人の花火と分る。旧正月の前祝いであったのだ。
≪明治38(1905)年2月≫
2月1日11時、宿舎前道路で練兵一時間半。「敵将クロバトキンは5000人の支那人を使い、日本の倉庫を焼き払ったものへ2000円を出すといい、さしあたり手当200円を与え、牛荘方面にも50人来ているからから注意せよ」という達しあり。
2日午前9時40分、大隊前に集合。北力1200メートルの村落まで散兵。かけ足で往復解散。疲れ甚だしく、軽患者も出る。これよりあまり強くはないが、毎日のように演習がある。[4]
鉄道を破壊するロシア軍(出典③)
■決戦の地に向かって
12日、午前8時半、中隊本部前整列。直ちに出発北進7里半。夜に入って周正堡着。分隊ごとに宿舎につく。
15日、四里北方に迫った敵はわが前哨線に迫る。25連隊は敵と激突する。わが隊も出立の準備。毛布を納めて軽装となり、命令を待っていると将校斥候の報告で敵の退却を知り、拍子抜けをしながら、また毛布を受け取りに行く。
20日朝7時半、大隊が集合してただちに出発。高力塁で連隊集合。柳朦子着。宿舎が狭くて眠られず。中隊に乞うて小河を越え、広い宿舎を探して親切な宿に着く。「敵は老大房に多くいる」という。いよいよ接近しつつあるのだ。
22日、27連隊は六公台で東方2里、旅団は黄那土壁窪で3里と、直属上級部隊の位置の通知がある。敵の前哨は北方9里という。
23日、昨夜11時頃、営口と牛家屯間で鉄道は破壌され、某村落に放火されたと。敵はコサック騎兵約1000騎という中隊への通知がある。午後は大隊長の細密検査あり、翌日北方で銃声を聞く。
25日、大隊将校の酒宴あり、各中隊より遊芸の心得ある者1名ずつ出席。大隊本部では大隊長をはじめ所属将校や軍医、準士官ら27名が集まり、従卒が料理に懸命。
私(乾)が皮切りに「蜀山人の吉原一夜物語り」。同じ永山屯田の梅井竹太郎がおはこの「義大夫朝顔日記宿屋の段」。後は流行歌の合唱、棄児行の剣舞などで歓を尽くす。
27日、午前4時出発、某村落泊り。
28日、警戒行軍で楊土岳堡着。[5]
【引用出典】
[1][2][3][4][5]『永山町史』1962・旭川市・303−305P
【画像出典】
①『永山町史』1962・旭川市・246P
②巌谷小波編『少年日露戦争史 第11編旅順の巻』1905・博文館・56p
③巌谷小波編『少年日露戦争史 第11編旅順の巻』1905・博文館・66p
④巌谷小波編『少年日露戦争史 第12編奉天の巻(上)』1905・博文館・4p