北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[旭川・永山] 永山屯田兵 乾咲次郎 日露戦争従軍手記(下)

奉天会戦の激戦 銃弾貫通

 

明治38年2月、二〇三高地の戦いを制し、旅順を落とした日本軍はロシアとの最終決戦の地、奉天へと進軍します。永山屯田の乾咲次郎もその中に。そして第3軍の主力としてもっとも激戦の中でもさらに激しい戦いが行われた左翼軍の中で戦場を戦い抜きます。
 

■奉天の激戦

3月1日、数里で四台子付近の小村で宿営。
 
2日、某村落宿営、夜10時、携行の米を炊こうとすると水がない。道路のくぼ地に凍る氷を多くの兵が十字鍬で割り、氷を飯ごうに入れ、きびがらで炊く。弧家子付近の夜襲の攻撃砲がにぎやかに聞こえる。すでに奉天へ5里という。
 
3日夜明け、前方右側の丘に敵騎若干出現、たちまち中隊の一斉射撃で追い払われる。側衛を出して進み、岔薹(ふんだい)にて天幕で野営。敵の置いて行ったブドウ酒1瓶とウオッカ2瓶ずつ分配。これで最後の宴を張り意気旺んである。
 
4日、まだ暗い道を1里半進んで明け方桃家屯へ着く。敵の猛射を受けて土壁の南側に隠れる。命令はなくとも地物の利用は早い。
 
10時頃、後方よりわが砲車が走って来て、前方50メートルのところに10数台の砲列を布く。大小の敵砲弾が急に雨のように降る。味方の大砲も撃ち出す。隊長は木陰でかん高く叫んで号令している。砲手は早くも10数名負傷する。
 
私(乾)の2間ほど左にいた他隊の若い兵が前へ吹き飛ばされる。敵の砲弾が4~5間後方に落ちて盛り上がる土に飛ばされたのである。5~6間後ろの家の壁に無数に当たる銃丸で、見る見るうちに幅広く崩れ落ちて行く。
 
前進命令、散兵となって砲列の中から前進する。
 
27連隊の第2大隊全部で、右は第1大隊、左は第3大隊。2000メートルほど進んで、畑のくぼ地に伏せて土をかき頭を隠す。
 

奉天会戦(出典①)

 
弾の来ることも少なくなり、日暮れては静寂沈黙。分隊毎に整列。中村上等兵が死ぬ。3000メートルまで退却の命令に2人で銃で左右からその死体をさげて下る。
 
敵の照明とともに一斉射撃をあびる。中村の死体に隠れる。2~3分で止む。東北はるかに奉天の新停車場の電灯が高くものすごく光っている。徹夜で射壕を掘り、夜が明ける。
 
5日、第1大隊は旅団の予備隊となり、砲兵隊の援護射撃をかねる。
 
さて昨日の戦いで、中隊長は軽傷ではあるが野戦病院に退り、下士以下10数名の死傷者が出たという。演習と違い、実践では大隊長のいる位置も、中隊長、小隊長の位置さえ、皆目分らないばかりでなく、号令さえかからない。咋日は日没まで6時間、無声の戦であった。ここは岔台守備線という。
 
6日、午前5時集合。前方の散兵壕につき、敵の攻勢を防ぐ。敵は大部隊で来襲してはさっと退く。これより毎日同じような小ぜり合いがある。
 
9日の朝、岔台出発。敵の側面を迂回して奉天の北陵に向かう。西風強く、灰のような砂煙りを浴びつつ、夜9時ごろ北陵の右翼につく。散兵壕を築いたが、方向を誤って改めているうちに夜が明ける。
 
10日、敵弾猛烈。予定の退却をするために、防衛隊が猛射するのだという。われわれ迂回軍は敵の退路を攻撃するので、奉天よりくずれて来る敵兵は車窓より発射しながら飛び降りては猛射する。本隊は順次退却しているのだ。9時ごろ敵弾少し薄らぐ。[1]
 
この状況をWikipediaより解説します。
 

ロシア軍は奉天前面を攻撃する日本軍の第二軍、第四軍、第一軍に対して反撃して損害を与え続け、自軍も損耗しつつも、3月6日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めた。これはロシア軍正面を中央より第三軍のほうへ移す処置であった。このため、ロシア軍側面を攻撃していたはずの第三軍及び秋山支隊は敵正面に対することになってしまい、苦戦を強いられた。他の前線でもロシア軍が随時反撃を加え、日本軍の被害は徐々に増大していった。
 
もしクロパトキンがこの時期に総反撃を命じたら、満足な予備軍さえ持っていなかった日本軍が崩壊するという危機的状況にあった。しかし日本軍の首脳部はあくまで全線での総力戦を指令し続け、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は文字通り死体の山を築いた。[2]

 
 

奉天会戦(出典②)

 
本文に「本隊は順次退却しているのだ」とあるのは、有名なロシア軍の後退戦術でした。この時に乾氏たちが懸命に敵を抑え続けていなければ、歴史は大きく変わっていました。そして敵弾は乾氏にも襲いかかるのです。
 

■銃弾貫通

隣兵が口々に話している。車窓から飛び降りる敵兵が見えるというのだ。私も引きつけられてひょいと首を出した瞬間、平板で叩かれたような激しい感じが全身に貫くと同時に、左の乳下へ血がしたたる。三角包帯を当てる。
 
「小隊長殿、やられました」「下がれ」
 
今までの負傷兵はすぐ下がったが、下がる途中、背部からやられたのでは不名誉であり、危険であると考える。かたわらに雑嚢が落ちている。拾って頭上におく。これで頭だけは大丈夫と、仰向けに寝て青空をながめ、手拭を当てて寝る。
 
眠る。7日より寝ることのなかった疲れにもよろうが9時間は夢中であった。
 
夕方目が覚める。敵弾も少なくなっている。起きようとするが、痛くて立ちあがれぬ。負傷は鎖骨の下より乳下に貫通したので軽傷で、血は傷口双方を閉ざして固まっている。
 
動けば痛くて困ったが、バリバリと傷口が破れるような痛さを我慢して立ち上り、後方にチョコ走りで100メートル下がり、墓のかげで休む。
 
重傷で苦しんでいる者が数10名おる。5~400メートル、ここにある大きな墓、土まんじゅうの影にも4~5名の重傷者が倒れている。
 
このときふと自分のポケットの軍隊手帳を見ると、まん中に丸い穴がガクリとくり抜かれ、上向がちぎれ、1寸4方ほどネズミが食ったようにほぐれている。
 
この時、右側に悲鳴を上げて倒れた兵、見ると顔を血みどろにした横田分隊長である。すぐ安全地帯に引きよせたが、ものを言う力も無く、よほどの重症である。いかんともしがたい。[3]
 

奉天会戦(出典③)

 

■野戦病院

見つめていると、当麻屯田の近藤君がビッコを引きながら下がってくる。
 
「分隊長が重症だ。どうしよう」「今、担架卒が来るよ」「君、よろしく頼むよ」
 
横田分隊長の脈を見ると、どうやらないらしい。早く包帯所へでも知らせようと思って100メートルほど来ると、衛生隊の包帯所があったが、無数の患者。顔見知りの担架兵がいるので頼んだが、100人以上の患者で手が回らぬ。遅れるという。
 
第1野戦病院に着いたが、それこそ寄りつけないほどの患者だ。第2野戦病院にたどり着いたが、やはりいっぱいの負傷兵だ。手当はさておいて病傷日誌をもらうために、その夜の一時すぎにようやく順番でもらう。
 
「大寒屯攻撃三百メートルで胸部貫通銃創、三月十日午前九時」
 
と書いてある。
 
空腹で堪らぬので炊事場に行くと、大釜2つにかゆを炊いている。釜の前に青い顔してあぐらであっている者がいる。厚岸屯田の尾村治吉だ。
 
その夜は2人でまきびがらの中で寝た。
 
翌日は1里1半、平羅堡立病院へ来て握り飯を2つをもらう。
 
次の日は支那人の家を探し、ひえのつきあまり臼の中からさらえる。13日から1日米3合ずつもらって自炊することになる。遼陽や大連を経て、大阪の天下茶屋分院で療養、全快。
 
5月11日退院。
 
17日、旭川帰営。[4]
 
奉天会戦の終末は下記となります。
 

3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第三軍によって退路を遮断される事を恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。これは満州軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力のある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。[5]

 
もうすこしロシア軍が踏ん張っていれば日本の敗北もありえたのです。ロシア軍の戦意を削いだのは第三軍の奮闘でした。日露戦争の勝敗を決した奉天会戦で戦勝を決定づけた第三軍の主力は屯田兵──このことに私たち道民は誇りをもちたいものです。
 

奉天会戦(出典④)

 

 


 【引用出典】
[1] 『永山町史』1962・旭川市・306-307P
[2]https://ja.wikipedia.org/wiki/奉天会戦#ロシア軍の後退戦術と日本軍の決戦主義(3月6日~8日)
[3] 『永山町史』1962・旭川市・306-307P
[4] 『永山町史』1962・旭川市・306-307P
[5]https://ja.wikipedia.org/wiki/奉天会戦#奉天会戦の結末(3月9日~10日)
 【図版出典】
 
①巌谷小波編『少年日露戦争史 第12編奉天の巻 上』1905・博文館・20p
②巌谷小波編『少年日露戦争史 第12編奉天の巻 上』1905・博文館・28p
③巌谷小波編『少年日露戦争史 第12編奉天の巻 上』1905・博文館・48p
④巌谷小波編『少年日露戦争史 第13編奉天の巻 下』1905・博文館・56p

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