北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[倶知安・京極] 鈴木重慶のスポンサーはえびす様の総本宮?

 

前回、倶知安で明治40(1907)年代にアメリカ式農業を展開した鈴木重慶を紹介しましたが、そこで取り上げきれなかった話題を断片的にご紹介します。今、新型コロナの影響で道立図書館はじめ軒並み図書館が閉鎖になっています。このようなサイトを運営している身としては本当に困っています。今回はかなり消化不良ですが、さらに突っ込めば面白そうなので、いずれあらためてご報告いたします。
 

■京極の少年が見た鈴木農場

ニセコの地で先進的なアメリカ式農業を展開した鈴木重慶。前回『倶知安町史』の記述を紹介ましたが、町史に掲載されているのは前回紹介した限りで、その後の動向は伝えられていません。
 
一方、隣町の『京極町史』には、鈴木農場の顛末と目撃談が掲載されていました。鈴木重慶は京極のまちにも農場を展開していたのです。
 

倶知安町出雲にあった「開拓五十年記念碑」
(筆者撮影)

面積250町歩のこの農場は最初、萱場条三郎が明治43(1910)年に牧場地として付与を受け、同年岩見沢の河原吉太郎が買い受け、大正4(1915)年真狩村の藤川役治に売却、大正13(1924)年に鈴木重慶が買った。
 
そして、当時の村には全然見ることもなかったトラクター、デスクプラウ、10連以上の大型デスクハロー、ヘーモーア、ヘーレーキなどの大型機具を使って鈴木自身で農場経営を始め、鈴木農場として一躍有名になった。
 
鈴木農場の経営が京極でも評判になったのは言うまでもない。当時の村人が全然見たことのないトラククーが地響きを立て、エンジンの音を羊蹄にこだまさせて目名の原野を馳駆する姿は壮観だった。村民は経営そのものに関心は少く、ただもの珍しかったのだと思う。
 
大正12(1923)年、編者が小学5年生の時、秋の遠足に鈴木農場を見学した。大きなバリカンのように思えたモーアが燕麦畑にあった。牛乳を大きなナベで接待してくれたが、60人ほどの男子児童にとってはほとんど初めて飲む牛乳であった。まるで外国の農場へ来たように思ったものだ。
 
また、トラククーが時おり道路を走ることがあった。その音がはるか遠くから響いてくると、「鈴木農場のトラクターだ」と言って戸外に走り出た。運転手は立派な風格の鈴木さんであった。[1]
 
ここで言う「編者」とは京極町史の編者です。京極町史は開拓者であった編者の経験に基づく記述が多く大変面白く読めます。
 

■火山灰地の農園は失敗

さて鈴木農場のその後ですが──。
 
経営は失敗に終った。この農地は羊蹄山腕の無水地帯で火山礫の多い強酸性のやせ地である。また牛を飼ったが、牛乳の販路に困るので、分離機を備えバターを作ったが、これもまた販路のなかった時代である。
 
水をなんとかしなければと考えた鈴木は井戸掘さくに数年間にわたって挑戦し、莫大な金と時間を費やしたが成功せず、これが彼の農場経営を断念せざるを得なかった主要な原困であろうと言われている。
 

鈴木農場は能登農場のもう一段上手の西側にありました。そこは羊蹄山噴き出しの石礫の非常に多い所で、プラオをかけるにもたいへんな土地でした。もちろん地味も悪く、鈴木さんが京極で初めてのトラククーを使って大農経営をしましたが、成功は至難だったのです。鈴木農場は能登農場よりも、なおひどい無水地帯で、大きな深井戸を何回も掘っていたが十分水が出ず、牛を飼うにも適さなかったのです。それでも鈴木さんのトラククーは昭和5~6 年頃まで聞こえていたように思います(寺田武雄談)。

 
京極町でトラククーが使われるようになったのは鈴木農場の失敗から30年後のことである。鈴木ほどの先覚者に時代がついて行けなかったのだ。[2]
 
鈴木農業が失敗に終わったことが、輪作の普及がデンマークのラーセンらに影響される昭和初期まで進まなかったことの背景と考えられます。「鈴木重慶に時代が付いていけなかった」は名言ですね。
 
もっとも『オホーツクの幻夢』で紹介したように農事試験場の経営試験が最初に火山灰地で行われたことも鈴木農場の失敗に影響を受けているのでははないでしょうか。
 

■鈴木重慶は美保神社の主典の息子

美保神社の壮大な社殿(出典①)

 
さて農場経営は失敗続きであったとしても鈴木重慶は京極に農場を広げ、少なくとも昭和の初期まで機械化農業を続けました。いずれにしても相当な資産家でなければできない芸当です。
 
鈴木重慶について情報が無いかと探索していると『山陰中央新報』の連載「松江誕生物語」の第49回として「機械化農法と鈴木農場」という記事を見つけました。それによると
 
明治25(1892)年、北海道庁は特典を設けた「団結移住に関する要項」を定め、各府県に移住者の募集を呼び掛ける。3年後、重慶は美保神社(松江市美保関町)の主典を務めた父の命を受けて北海道に渡航。美保神社などの神職らとともに現在の倶知安町に出雲農場を開設する。[3]
 
鈴木重慶は美保神社の主典の息子だというのです。島根県松江市の美保神社とは──
 
全国各地にある事代主神を祠る「えびす社」3,385社の総本宮として、北は北海道から南は沖縄まで特に水産・海運・商業に携わる人々から広く信仰されてきました。[4]
 
島根県と言えば出雲大社ですが、美保神社は出雲大社に勝るとも劣らない大神社だったのです。
 
『倶知安町史』に戻ると、
 
明治二十八年五月、鈴木新、林原常次郎、勝田千之助三人の名儀で、山陰移住会社農場の隣接地五十四万坪の貸付をうけ開墾がすすめられた。米田の敬止録にある「出雲団体」がそれらしい。[5]
 
とあります。すなわち重慶の父、鈴木新は美保神社の主典だったのです。
 
 

■鈴木農場のスポンサーは美保神社?

ここにある「山陰移住会社」とはどういう団体でしょうか。
 

【美保神社に残る資料】
美保神社に残る鈴木農場
の資料(出典②)

山陰移住会社設立の功労者は、のちに会社幾場の管理人となった米田和一(明治大学卒)である。明治二十五年ころ、岩内町三井物産古宇鉱山の癖務員をしていた米罰和一は、倶知安原野の有望なことを聞き、故郷(島堪県)の過剰人口を吸収するのに絶好の場所だと北海道移住策を郷里の人に説いた。米田の「敬止録」から入地までの経過を見よう。[6]
 
として米田が残した「敬止録」という記録からの引用が紹介された後に
 
これを見ると米田が北海道移住計画番をつくってから、第一次入植者がはいるまでに三年もの年月をついやしている。土地貸付の手続きに手間どったこともあるが、北海道移住がいかに冒険で、慎重にやったかがわかろう。[6]
 
と結んでいます。米田和一の山陰移住会社に刺激されて移ってきたのが鈴木たち「出雲団体」だったのです。この「出雲団体」は明治29(1896)年「鈴木農区、教育興基会農区(神官教育機関)守成会幾区(美保神社保存会)横山農区、入江農区の五区にわけ」(『倶知安町史』71p)られたとあります。
 
教育興基会農区(神官教育機関)は美保神社とその系列神社のための神官養成機関、守成会幾区(美保神社保存会)はいわゆる美保神社の氏子組織ではないでしょうか。
 
すなわち、鈴木重慶の移住と大農場の背景には美保神社があり、鈴木重慶を先頭に立てて美保神社がグループを挙げて北海道で事業を起こそうとしたのだと思われます。
 
その証しとして「山陰中央新報」によれば美保神社に鈴木農場の資料が多数残されているようなのです。同紙によると重慶の5男は連載当時81歳で存命であり、鳥取大学名誉教授を務めたいたといいます。鈴木重慶にはまだまだ面白うそうな広がりがありそうです。
 
ニセコの隣、まさに鈴木農場と隣接して京極町があります。明治30(1897)年、旧讃岐丸亀藩主家の京極高徳子爵が京極農場を開場したことが開基になっています。丸亀藩は四国讃岐(香川県)です。ところが「山陰中央新報」は
 
倶知安に隣接する京極町では、堀尾家断絶後に松江藩主となった京極家の子孫が、大農場を開設していた。[7]
 
と書いています。松江藩は出雲(島根県)を領有していました。私は京極町=四国香川の京極家という印象を持っていましたが、実は
 

山陰移住会社(米田和一) → 出雲団体(美保神社・鈴木重慶) → 松江藩(京極高徳子爵) → 京極町

 
という流れなのではないでしょうか。このあたり調べましたら、またご報告いたします。
 

 

 


 
[1]『京極町史』1977・252-253p
[2]『京極町史』1977・253-254p
[3]伊藤英俊(報道部)『オンライン 山陰中央新報』山陰中央新報社トップ>写真
企画>松江誕生物語(49)>機械化農法と鈴木農場https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493240757476/index.html
[4]美保神社公式サイト>ご祭神・ご由緒>えびす様の総本宮 http://mihojinja.or.jp/yuisho/
[5]『倶知安町史』1961・69-70p
[6]『倶知安町史』1961・63-64p
[7]伊藤英俊(報道部)『オンライン 山陰中央新報』山陰中央新報社トップ>写真企画>松江誕生物語(49)>機械化農法と鈴木農場https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493240757476/index.html
 

 
 

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