【別海】 別海の開拓 敗残者たちの屍を乗りこえて(2)
許可移民──別海原野最後の希望
農業をする上で、別海は北海道の中でも最も環境の厳しい地域の一つでしょう。ぬかるんだ湿地と低い気温、開拓は進まず、全道にバブルをもたらした第一次世界大戦の雑穀景気も素通りしました。しかし、昭和2年、突如大量の移民が入植し、まちは一変します。
■停滞する開拓 追い打ちをかける冷害
明治31~2年の西別殖民地の殖民区画解放で、別海の奥地への入植がすすんでいきます。上杉庄太郎らがいち早く農耕に成功したことで西別植民地を耕作適地として「殖民公報」で大きくピーアールしたことから、西別への入植を中心として入植は少しずつ進みました。
しかし、独自に入植した単独移民や沿岸漁業者による開墾が多く、期待していた団体移住者たちの定着はあまり見られませんでした。
別海の人口は、明治19(1886)年に110戸・397人だったものが、約20年経った明治42(1909)年末にはようやく314戸・人口1409人になりました。しかし、その後頼み綱の漁業が衰退し、明治44(1911)年には264戸・1335人とむしろ減少するのです。
大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、欧州の穀倉地帯が戦火に襲われ、北海道は空前の雑穀景気が訪れます。多くの開拓農民はこれにより窮地を脱するのですが、畑作が広がらなかった別海はこの恩恵を受けることができませんでした。しかし、大戦が終わった後の不況は別海にも平等に訪れました。加えて大正9(1920)年、別海は有史以来という凶作が襲い、辛うじていとまれてきた農業に壊滅に近い打撃を与えます。
そののち大正7(1918)年には第1次世界大戦が終結し、そのため不況がわが国全体にひろがっていくが、そのような状況下で、大正9(1920)年に別海地方で農耕をはじめてから初めてといっていい凶作が、村経済と住民の上に圧迫を加えていった。
このときの凶作は暴風雨を伴った水害であり、そのた農作物は多大な被害を受け、畜産も牛馬を斃死せしめ、雑漁もそのころ主要漁獲物であった鰈(かれい)漁も近年稀な薄漁に終る。全産業に及ぼす異状な現象であったと、大正10(1921)年11月の「教育俸給補助申誚書」は述べている
咋年(大正9(1920)年)の凶作はほとんど資力枯渴し、充分の作付出来ざしりため、偶々の農穣も産額を伴はず。漸く食料に供する丈に過きざりしを以て疲弊せる資力は容易に挽回すべくもあらず。其の他畜産も林産も財界不況の打撃により、収支償ず。いずれも長嘆大息のほかなく、今や村民の窮状困憊実、名状すべからざる状態にある(後略)』[1]
昭和元(1926)年には、根室原野で積極的な開拓が行われてから初めて秋霜が発生します。根室原野を突如襲った秋霜冷害は秋の収穫に大損害を与え、当時の主産物であった燕麦は一分作、大豆、玉蜀黍は収穫の収穫は皆無となりました。


ありがとうございます。
翌昭和2(1927)年、壊滅状態に陥った別海に、突如、大量の移民がやってくるのです。「許可移民」という新制度による移民です。
■関東大震災被災者を救済する「許可移民」
「許可移民」とは、大正12(1923)年の関東大震災による被災者救済のために保護を与えて北海道に移住させた制度です。
大震災直後の大正12(1923)年内務省社会局は『関東大地震災を救済し、北海道移住を奨励するは、併せて北海道開発する一挙両得の政策にして』として、430戸(翌年2月450戸に増加)の移住者に対し2戸当り300円の移住補助金を交付することを定めた。
道庁がこの事業を執行し、移住者の資格を審査した上で移住を許可し、特定地を貸し付け補助金を交付した。そのためとくに補助をうけない普通移民と区別して、これを許可移民または補助移民と呼称した。この450戸のうち210戸が根室原野に入地したが、つまりこれが許可移民制度のはじまりであった。[2]
許可移民制度は、関東大震災被災者救済のための臨時的な措置でしたが、昭和2年から始まった「北海道第2期拓殖計画」で新たな移民政策に位置付けられたのです。
北海道開拓は、明治初年の浮浪者の移民失敗を受け、開拓への意思と資力のある者を主体とした政策に切り替えたことを前回紹介しましたが、別海地方のような取り残された場所は、そうした移住者の自主性に頼った政策では開拓がすすまないため、政府が積極的に移住と開墾を支援することにしたのでした。
■許可移民の保護
許可移民に対する国有未開地の貸下げは10町歩と、明治の5町歩の倍となっていました。しかし、多くの土地はいったん貸下げを受け、民有地になった後に放棄された土地であったのでしょう。民有未墾地については15町歩までの購買が斡旋され、年利3分5厘の低利資金の貸付、返還5年間据置、25カ年以内の均等年賦償還という有利な融資が受けられました。
移住条件は、満20歳以上の男女で、2人以上の労働力を有する家族構成であれば選定区画された国有未開処分地のどこにでも出願できました。ただし、単身者は認められませんでした。
許可移民には数々の保護が与えられました。『別海町史』(1978)から、紹介します。
① 渡道船車賃の割引き
移民が渡道するとき、汽車・汽船賃は半額とし、手荷物・貨物も相当の割引をする。
② 移住奨励金の交付自
自作農を目的とする移住者に対し、移住費・農具・家具・種苗・食費などにあてるため1戸300円を補助し、ほかに住宅建設費として50円の補助をする。
③ 共同居小屋の設置
集団入地者が渡道後、一時居住できる共同小屋を建設。これをあとで集会所その他に利用させる。
④ 開墾費の補助
15町歩以内の土地を所有する自作農にたいし、
1カ年七反歩以上開墾した場合、その開墾費の4割以内を補助する。
⑤ 牛馬購入補助
道庁に委託して購入する4歳以下の牝牛、2~5歳までの耕馬にたいし、移住3年目までのものには2分の1、4年目以降のものには3分の1を補助する。
⑥ 公課の免除
土地に対する地租、登録税はもちろんのこと、民有になったときでも、翌年から2年間は反別税を賦課せず、家屋税を除租、町村税の戸数割も移住の日から3カ年間免除する。
⑦ 種子の無償配布
移住者はそのほとんどが新開地のため、先住者がなく、このため種子を得ることができないので、昭和6年まで無償給与された。
⑧ 新墾地の作物の育成を良くする目的で、道庁は昭和4(1929)年根室地方に25台のデスクハローを貸し付けた。
⑨ 入地後の指導
入地後の小屋掛・開墾・耕種・肥培・収穫調整を移住世話所で行うほか、品評会、共進会開催の指導、試作地の設置、優良種子の配布により
経営を軌道にのせる。[3]
「許可移民」がこれまでの移民政策と大きく異なるのは、入植地に「移民世話所」が設置され、入植者の直接的な保護に当たったことでした。移民世話所の業務は次のようなものです。
・移住者招致の宣伝
・未開地の紹介および未開地処分に関する法規の説明
・新来移住者就職の斡旋
・開墾耕作に関する概要の説明
・渡道旅行中の世話
・移住許可入地に関する世話一切
・事業成功期間における世話
・生産消費に関する共同施設の世話
・事業資金の調達に関する世話
・移住して土地を得ざる者の世話
・教育・衛生・住居に関する斡旋
・官公署願出に関する住者の利益増進 [4]
このほか、移民世話所の業務を補佐する移住者世話嘱託員、指導農家が置かれました。
指導農家は、入植者が手本とする先住農家がいない地区に対して、農業に精通した農家に移転料を支給して転住させて、入植者の指導に当たらせたものです。
さらにこのほか、開拓入植地に対しては間接助成として、刈分道路開削、殖民軌道の敷設。社会的施設として拓殖医の設置、巡回診療、拓殖医住宅建設補助、拓殖産婆の設置、教育施設補助、教員俸給補助、信教施設補助などのインフラ整備、厚生文教環境の整備が行われました。

許可移民の拝み小屋③
■許可移民6600戸の入植
道庁は、ポスターや小冊子を府県を通じて配布、移民申し込みを受け容れました。
昭和2年年9月発行された『北海道自作農移住者募集』は「5町歩ないし15町歩自作農募集戸数1400戸」とし、移住地名として天塩国、北見国、十勝国、釧路国、根室国の22箇所あげているが、このとき別海村には、字ヤウスベツ100戸、字西別平糸20戸、上風連22戸への招玫が公募された。
こうして順次、管内殖民選定区画地の移民募集が行われたが、その結果、昭和2(1927)年~8年度に、許可修民募集戸数8077戸にたいして応募戸数は1万8668戸、その許可戸数1万2789戸にたいし入地戸数はおよそ半数の6603戸だった。[5]
許可移民の入植地は開拓の進まなかった場所が選ばれたため、根室地方に多数が入地しましたが、別海への入植は約75%に達しました。このようにして別海村の人口は昭和2(1927)年の1332人(536戸)から、3年後の昭和5年には11383人(2166戸)へ、爆発的増加を見せたのです。
【引用出典】
[1]『別海町史』1978・345p
[2]同上332p
[3]同上354-358p
[4]同上361p
[5]同上
[6]同上358ー359p
①②Romyn Hitchcock(1851‒1923)・スミソニアン協会博物館所蔵
③『別海町郷土資料館だより』No205・2016年8月号