北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道の西本願寺(1)

 

禁じられ、弾圧された西派

 

明治大正の北海道開拓と言えば、十勝の開祖·依田勉三、北見を開いた北光社の坂本直寛、酪農学園を創設した黒澤酉蔵などキリスト教徒の活躍が目立ちます。しかし、日本は仏教の国です。北海道開拓でも仏教、なかでも浄土真宗の北海道開拓への貢献は大きなものがありました。
 
ご承知のように浄土真宗は親鸞聖人が開教した教えですが、徳川幕府の開設期に東本願寺派と西本願寺派に分かれました。東本願寺派は松前藩の庇護を受け、江戸時代から北海道で進行されていましたが、西本願寺派は松前藩によって布教が禁止されました。
 
このため、西本願寺の北海道における布教と明治の北海道開拓は重なり合うのです。あまり語られることのない西本願寺派の北海道布教を中心に仏教と北海道開拓の関わりを考えます。

 
 

■蓮如上人の意を受けて

北海道に浄土真宗の教えがもたらされたのは、いつの時代でしょうか? 真宗中興の祖である蓮如上人を讃えた一書である『空善記』は「この御代には奥州蝦夷までも聞こえ、繁昌のある御事、ただ不思議なり」という一節があり、蓮如上人の代に教線が蝦夷地まで及んでいたことを示しています。
 
蓮如上人の命を受けて最初に蝦夷地布教に従事したのは弘賢です。弘賢は九州肥後の名門菊池家に菊池武弘として生まれました。菊池家は後醍醐天皇に忠誠を誓い、南朝に尽くした名門でしたが、 南北の戦乱に虚しさを覚え、18代兼朝の代で2人の息子が仏門に帰して蓮如上人の弟子なりました。兄の武明は名順となり、弟の武弘が弘賢となりました。そして蓮如上人は2人に奥州と蝦夷地の布教を命じたのです。
 
兄の名順は奥州を担当し、奥州荘内に浄福寺(山形県酒田市)を創建すると、蝦夷地を担当することとなった弟の弘賢は明応8(1499)年に上ノ国に渡り、浄願寺を建立します。蓮如上人が石山に本願寺を築いた3年後のことでした。
 

蓮如上人①

 

■蝦夷大乱を逃れて

この頃の蝦夷地は戦乱の時代でした。南北朝の戦乱が奥州に及び、蝦夷地に渡る和人が増えたことで、先住民族であるアイヌの人々との軋轢が高まり、長禄元年、現在の函館市の場所で和人のアイヌの争い「コシャマインの戦い」が起こりました。
 
この戦乱で和人勢力は追い詰められますが、上ノ国の蠣崎信広がアイヌの軍勢に勝利したことから、渡島半島の和人支配が確立されます。蠣崎信広は戦の後に武田信広となり、後の松前藩の開祖となりました。
 
弘賢が浄願寺を建立したのはこうした時代でしたが、アイヌと和人の対立はなお続き、上ノ国もたびたび襲撃を受けました。これに耐えかねて永正12(1515)年頃に浄願寺は蝦夷地を撤退し、津軽鰺ヶ沢へと逃れました。さらに出羽土崎湊から秋田(秋田県秋田市旭北栄町)へと移ります。
 

■本願寺の東西分立

慶長7(1602)年、浄土真宗は東西に分かれます。浄土真宗は、中興の祖である蓮如上人の時代に復興し、山科から大阪の石山(現在の大阪城)に移るのですが、顕如上人の代に織田信長と激しく対立して石山合戦に敗れ、大阪を撤退しました。このとき顕如上人の長男である教如上人は、父と対立して大阪に残りますが、顕如上人から絶縁されます。
 
戦国の混乱が豊臣秀吉によって平定されると、秀吉は本願寺を京都に請じ、顕如上人は六条堀川に阿弥陀堂·御影堂の両堂を設けました。顕如上人が50歳で往生されると、教如上人も絶縁を解かれて本願寺を継ぎますが、すぐに秀吉より隠退を命ぜられ、3男の准如上人が継職されました。教如上人は裏方と呼ばれることになりました。この准如上人から西本願寺の歴史が始まります。
 
この後、教如上人は天下を取った徳川家康に接近、慶長7(1602)年に家康から烏丸7条に寺地を寄進され、ここに御堂を建立します。東本願寺です。本流とはいえ3男が継いだ西本願寺、分流とは言え嫡嗣が興した東本願寺、甲乙つけがたく、本願寺の東西分立が決定的になりました。
 

教如上人②

 

■北海道最古の専念寺

北海道では浄願寺退去の後、真宗の教えはしばらく途切れ、ようやく天文5(1536)年に松前に専念寺が創立されます。言い伝えでは、真徳という僧が知内に一宇を創設し、これを松前5世慶広が天正3(1575)年に松前へ請じたといいます。専念寺は現存し、浄土真宗では北海道最古の寺となっています。
 
本願寺の東西分立により全国の浄土真宗の寺院は東西のどちらに付くかを決めることになりますが、北海道最古の専念寺は東本願寺を選びます。専念寺の本尊は教如上人が下附されたものとされており、東本願寺派に属することは自然な流れでした。
 
なお、この本尊を奉持帰国中に秋田を通過した際、前述の浄願寺が蝦夷地の実権は当寺にあるとして、専念寺に末寺になることを求め、本尊を取り抑えて大問題になりました。専念寺は松前藩主慶広に仲裁を頼み、慶広は本山に訴えて本山から慶広に本尊を賜るかたちをとることにしてもらいました。こうして騒動は解決したのですが、この事件を契機に専念寺は松前宗家との関係を深めていきます。
 

専念寺③

 

■百醜の暗躍

宝暦2(1752)年、松前家第12代資広の代になると、資広は本山に書を送り、専念寺の本山内陣への昇格を推薦します。おそらくこの時、松前藩では浄土真宗は東本願寺派に統一することが藩内で図られたようです。松前藩自体は代々曹洞宗を信仰していました。松前家の菩提寺は曹洞宗の法憧寺です。ここで言う東本願寺派への統一は、松前藩の宗教政策として浄土真宗は東派に統一したということです。
 
この松前藩の決定の背景には専念寺の僧·百醜の暗躍にあったとされます。百醜は専念寺10世快賢が亡くなると、その坊守の後夫になった人物で、快賢の跡を継いだ11世了幻の後見役として寺の実権を握りました。大変な手腕家で政治力を発揮して松前家に接近し、松前家の分家である松前広政の子を養子に迎えました。藩主の親戚の立場から専念寺の権勢を守るため西本願寺の排除を働きかけたものと思われます。
 

■排斥される西派

この後、西本願寺派は松前藩から弾圧に近い苛酷な扱いを受けました。
明和7(1770)年、西本願寺は蝦夷地へ末寺を建立することを松前藩に求めました。専念寺に対抗するためではなく、蝦夷地に渡った者のなかにも西派の者は少なく、これらの者たちの信仰や亡くなったときの弔いために1寺を設けたいということでしたが、松前藩の返答は、西派の弔いも専念寺が行う、説教ひとつまかりならない――という厳しいものでした。
 
天保年間、本州で西派だった信徒が江差に西本願寺派の寺院を創建しようとしたところ、閉門の処分が下されここともあります。かくて幕末まで西本願寺派は1カ寺の寺院も建立できなかったのです。
 

 


【主要参考文献】
本願寺史料研究所『増補改訂本願寺史』2015·本願寺出版社 
須藤隆仙『日本仏教の北限』1966·教学研究会
北海道開教史編纂委員会編『北海道の西本願寺』2010·北海道開教史編纂委員会
①②西本願寺公式サイトhttps://www.hongwanji.kyoto/
③https://4travel.jp/dm_shisetsu/11336533

 

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