北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道の西本願寺(2)

 

堀川乗経の活躍

 

同じ親鸞聖人の教えをいただく真宗でありながら、松前藩は頑なに西本願寺派を拒み続けました。江戸時代の後半に、ペリーの来航よりも早く北海道周辺に外国船が出没するようになって状況は動きます。北方警備の重要性から幕府は2度に渡り、北海道を直轄地にすると、松前藩の統制が緩んだ隙を見て、西本願寺は蝦夷地進出を果たしました。

 

■蝦夷地の幕府直轄

松前藩の庇護を受け、東本願寺派と専念寺は「エゾ御坊」と呼ばれる権勢を誇りますが、江戸時代の後半に、ペリー来航よりも早く北海道周辺に外国船が出没するようになって状況は動きます。
 
ロシアは17世紀後半にシベリアから極東方面に進出、北海道周辺にも姿を見せるようになりました。しかし、松前藩はこのことを幕府に隠していました。寛政元年、釧路から千島にかけてのアイヌの人々がクナシリ·メナシの戦いを起こしたことを契機に、幕府はロシアの進出と松前藩の隠匿を知ります。怒った幕府は寛政11(1799)年に蝦夷地を取り上げて直轄領としました。
 
陸奥国梁川に移された松前藩の懸命な復藩運動で、松前藩は文政4(1821)年に北海道に復帰しますが、松前藩には幕府の強い監視の目が注がれます。この後、ペリー来航に伴う箱館開港を機に、渡島半島も一部を除いて北海道は再び幕府の支配地になりました。このように蝦夷地に君臨していた松前藩の権勢がゆらぐと、西本願寺派にも北海道布教の余地が広がります。
 

■広如上人の北海道開拓計画

西本願寺派復活の狼煙を上げたのは、第20代広如上人でした。
上人が文政9(1826)年に継職された当時、西本願寺は深刻な財政危機にありました。広如上人は財政建て直しを図るため大坂の町人石田敬起を抜擢し、改革に当たらせたのです。
 
様々な改革を打ち出した敬起は、摂津地方の門徒を箱館周辺に移住させ、土地開墾によって特産物を産出し、それを大阪天満で門徒が販売して本願寺の財政にあてるという開田計画を打ち出しました。そして天保4(1833)年、但馬専福寺大蟲に蝦夷地査察を命じました。
 

広如上人①

 

■蝦夷地の摂津門徒

 この計画は実現にはいたりませんでしたが、背景にはこの当時、相当数の摂津門徒が箱館を拠点に商売を展開していたことがありました。
 
文政4(1821)年、第一次蝦夷地幕領時代に幕府は蝦夷地で商売をする商人の蝦夷地居住を義務づけています。キリシタンを強く弾圧した江戸幕府は、すべての国人に仏教寺院への帰属を義務づけ、寺社が有する宗旨人別張によって、そのことを登録することとなったのです。
 
北海道への定住を義務づけられた門徒は心の拠り所として西派の教堂を強く望みます。天保5(1834)年、蝦夷地在住の西派門徒は連名で教堂の建立を松前藩に求めます。
 
このような訴えを受けて、西本願寺は嘉永5(1852)年、僧祥を蝦夷地に派遣して調査に当たらせました。しかし、このとき蝦夷地は松前藩に戻されており、僧祥は西本願寺派の者であることが判明して津軽へ強制退去を命じられます。
 
しかし、僧祥は身を隠して蝦夷地にわたり、相当数の西派門徒が蝦夷地にいることを確かめました。僧祥の調査を元に西本願寺は松前藩に開教願いを出すが、松前藩は「西派の門徒は蝦夷地にいない」と撥ね付けました。
 
そんなはずはない――と西本願寺は、信徒の多い彦根藩井伊家や岡山県池田家などを通して幕府への取りなしを図る者の松前藩の頑な姿勢は変わりありませんでした。
 
こうした騒動の中、青森の下北半島にあった西本願寺派の願乗寺住職·堀川乗経(下北時代は法恵)は、独自に蝦夷地調査行っていました。
 

■蝦夷地の幕府再直轄を受けて

嘉永7年(安政元年)6月、幕府は再び松前藩に対して蝦夷地の上知を命じ、箱館奉行所を設置します。渡島半島の一部を除き、大半が幕府の支配下となったことから、西本願寺は好機到来として、北海道開教の許しを幕府に求めました。
 
しかし、ながらこの本願寺の請願をどこが扱うべきか、幕府の対応ははっきりせず、1向宗以来の浄土真宗の過激さに警戒感を抱く幕臣や「エゾ御坊」松前専念寺の強力なロビー工作もあり、西本願寺の開教願いはなかなか認められません。
 
ようやく安政4(1857)年、幕府の寺社奉行は、下北の願乗寺の「宿泊所」ならばよい、として西本願寺派の蝦夷地への進出を認めました。
 

浄土真宗本願寺派函館別院②

 

■願乗寺の休泊所として

休泊所は寝泊まりできる拠点ですが、実際には願乗寺の末寺です。「宿泊所」としたのは、西本願寺派の進出に強く抵抗する松前専念寺など東本願寺派の抵抗に配慮したものでした。
 
この時は西本願寺は、単に現地門徒の利便のためではなく、北方から危機の迫る蝦夷地の開拓を進めると言って頑な幕府の心動かしたのです。願乗寺に白羽の矢が立てられたのも、本州から蝦夷地に渡る渡航地点であった下北にあり、この地方に精通していると認められていたからにほかなりません。
 
そして、西本願寺は、頓挫した広如上人の計画を引き継いで函館地方の造田事業をすすめ、北はオタルナイ(小樽)とイシカリ(石狩)にも拠点を設置して、この地方の開拓をすすめると約束しました。
 

■堀川乗経の情熱と行動力

西本願寺を挙げてのこの事業は、中心人物となった願乗寺住職の堀川乗経の情熱と行動力がなければ実現しないものでした。乗経は南部下北郡川内の願乗寺に生れ、はじめ法恵と言い、のち乗経と改めました。
 
天保12(1841)年17歳で蝦夷地に渡り、西本願寺の寺院が1カ寺もないのを憂えて、本山に開教の策を進言し、広如上人の蝦夷地への関心を呼び寄せました。
 
 安政4(1857)年6月、幕府から開教の許可が出ると、乗経は下北から箱館に渡って準備を進め、本山から派遣された丹後専福寺入真とその次男の聞名、近江宣法寺遠照、越後善教寺僧宣の3名を迎えました。さらに本願寺からは橋本伊左衛門、野村藤三郎、そして新田開発技師として米屋金8,巽屋和平、井筒屋右衛門が遣わされました。
 
この計画は、親鸞聖人600回大遠忌事業の1環として行われたもので、西本願寺派門徒から多大な寄付が寄せられました。とくに3人の僧侶を送りだした専福寺、宣法寺、善教寺の檀家は多大な寄進を行ったといいます。
 

堀川乗経③

 

■函館の基盤を開いた開田事業

箱館の宿泊所は、松前専念寺の妨害にも遭い、本尊をいただくことはできず、その名前の通りの建物になりました。それでもこの地方西派門徒が多く参詣に訪れたといいます。
 
一方で亀田川から水を分ける6キロに及ぶ灌漑事業が進められ、文久元年11月に完成して、幕府に引き渡されました。この灌漑用水路は、のちに「願乗寺川」と呼ばれ、函館発展の基となったものです。事業のために西本願寺が費やした事業費は7300両に上るといいます。いかに西本願寺が蝦夷地開拓に力を注いでいたか、伺えます。
 
さらに現在の北斗市清水川近郊の濁川流域でも、天保4(1833)年に蝦夷地調査を行った大蟲が長となり、加賀、越前、越後から門徒を集めて5万0坪の開墾を進め、米の試作を試みました。
 
しかし、大蟲は病に倒れ、堀川乗経が跡を引き継いだが水田はほとんど実を結ばず、幕末維新の混乱もあって事業は空中分解してしまいました。それでも明治2(1869)年になっても70余名の門徒が函館に残ったといいます。
 

願乗寺川(明治時代)④

 

■西本願寺小樽別院の開教

願乗寺オタルナイ(小樽)の休泊所は後に浄土真宗本願寺派小樽別院となりました。イシカリ(石狩)の休泊所は「サッポロ山麓」に設けられたといい、現在の札幌市西区発寒あたりと考えられています。詳しい記録がなく実態は不明ですが、寺院として建てられていれば、札幌で最初の寺院だったに違いありません。
 
ちなみに札幌で最初の寺院は『さっぽろ文庫7.札幌事始』によれば本願寺道路を建設するために大谷現如上人が札幌に到着した明治3(1870)年8月に建てられた堂とされています。
 

浄土真宗本願寺派小樽別院

 
 

 
 


【主要参考文献】
本願寺史料研究所『増補改訂本願寺史』2015·本願寺出版社 
須藤隆仙『日本仏教の北限』1966·教学研究会
北海道開教史編纂委員会編『北海道の西本願寺』2010·北海道開教史編纂委員会
 

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