北海道の西本願寺(4)
宗教の本分——北海道宗教植民論
東本願寺に先行されましたが、明治になって西本願寺においても北海道布教が本格化します。東本願寺に送れること15年、西本願寺21世·明如上人が北海道を巡幸します。このことに勇気づけられた道南の2人の僧侶が明治25(1892)年に『北海道宗教植民論』を出版します。この書は開拓行政にも大きな影響を与えるとともに、「開教師」と呼ばれる僧侶が北海道に渡る契機ともなりました。
■開拓使と西本願寺
幕末の堀川乗経の活躍により札幌一番乗りを果たした西本願寺ですが、明治に入ってからは現如上人の目覚ましい活躍により、道都札幌での布教は東本願寺が先んじていました。
明治6(1873)年、明治新政府の方針としてキリスト教の解禁が行われことに強い危機感を抱いた黒田清隆開拓使次官は、キリスト教の拡大を抑さえるため、太政官は函館西本願寺願乗寺に函館中教院を設置し、東京から堀秀成らを派遣して函館宗教界の指導に当たらせました。
札幌では東本願寺の現如上人が本願寺道路の建設に奔走していた頃だから、函館の東本願寺とバランスを取ったかたちでした。堀川乗経の函館における功績を認め、北海道開拓における西本願寺派の存在感を明治政府が公認したとも言えます。
明治10(1877)年には函館掛所と小樽掛所が揃って別院に昇格し、12年には江差掛所が別院となりました。開拓使が置かれた道都札幌には、明治10(1877)年に西原円照が本山から派遣され、11年に仮布教所を設けると、12年に別院の認可を受けました。東本願寺に後れはとったが西本願寺の北海道における布教の態勢がようやく整ったのです。
■明如上人の北海道巡教
明治20(1887)年、浄土真宗本願寺派第21代明如上人が8月6日から25日までのおよそ20日間、函館、江差、函館、札幌の別院を巡教されました。本願寺門主として初めての北海道巡教です。『北海道の西本願寺』(平成22(2010)年·北海道開教史編纂委員会)は次のように紹介しています。
修された法要や帰敬式には、近郊のみならず、根室などの遠隔地からも多くの門信徒が参集し、念仏の教えを聴聞したのです。かくて明治20(1887)年代に7つの講の設立が確認されています。いずれも明如上人が巡教したところであり、法要や帰敬式に参集した門信徒がその影響のもとで講を結成したのです。明治36(1903)年1月に、明如上人の死去するまでに設立された講は、18に上る[1]
明治20(1887)年と言えば、開拓のもっとも厳しかった頃だったに違いません。大自然の力に負けてしまいそうになる門信徒を明如上人の巡教はどれほど励ましたか。明如上人の北海道巡教を契機として本願寺派の布教が本格化します。
明治23(1890)年11月5日の胆振国紋別村善友講をはじめとして、明治24(1891)年1月の豊平村17日講、函館区信浄講、明治27(1894)年9月の小樽別院最勝講と明如上人の北海道巡教を契機に道内各地に講が作られていきます。白石村では、明治24(1891)年、南郷地区に最初の講が組織されます。
明如上人①
■北海道開拓の必要
明治の北海道開拓期、西本願寺の僧侶たちはどのような心構えで北海道に渡ったのか? 西本願寺が開拓期の北海道布教への決意を示した書に『北海道宗教植民論』があります。
同書は乙部村の僧阪本紫門と大野村の片岡正次が北海道開拓の急なることを訴えたものです。これを幕末から明治にかけての宗門改革の指導者である赤松連城が取り上げて書籍として世に出しました。同書の「北海道開拓の必要」はこう始まります。
鋳山煮山の富源全州に充満し、真に天府の金庫とは我が北海道なるか。明治政府つとに見るところあり。拓地植民の策は講じ、移住者の勧誘保護いたらざるはなく、加えて屯田の兵制を布き、平時は拓地に従事し、有事には辺塞の衛成たらしむ。すなわち半兵半農の組織なり。これ北海道はわが北門の鎖輪にして、1日も兵備なかるべからず。クリル海峡の彼岸の地、強鷲翼を収めて我が北寓を伺うや久しくし、その東欧に及びアジアに鋭鋒を磨し、シベリア鉄道の竣工1日も急速ならんべきを務むるは、けだしゆえ無きこと被ざるべし。[2]
明治20(1887)年代の日本人のロシアへの恐怖心は大変なものでした。明治24(1891)年から工事が始まったシベリア鉄道が完成するとヨーロッパからの物資輸送が簡単になり、日本は容易に征服されると強く信じられてしました。シベリア鉄道が完成する前に北海道の防御を固めなければならない――それが北海道開拓を急ぐ第一の理由でした。
そして同書は、北海道の防備を固めるには「土着の民を移住せしめざるべからず」といい、それも「農民たらざるべからず」といいます。というのも「漁業のために来る民は永住する気あらざる」だからです。「農業は常に国家豊穣の源泉」で「北海道拓地植民は農業振興をもって唯一の目的となさざるべからず」と断言します。しかし、農民の移住は進まず「吾人大いに痛嘆せられん」と嘆くのです。
北海道宗教植民論
■北海道開拓不振の一大理由
どうして北海道開拓が振るわないのか。『北海道宗教植民論』はこう言う。北海道開拓の「勧誘に応ずるものの多くは、利に感じ易き救民なり。先覚者もまた移民を誘いて移住の利益を説くも、利に伴う艱難を告げる事なきや、かえってこれ粗略にす」。
北海道への開拓を誘う者は開拓の成功で得られる夢のような暮らしを宣伝するけれども、それを得るための艱難辛苦をあまり語ろうとしません。そのため「山川草木ことごとく黄金にして1挙手1投足の労をもってせば、多年の貧窮瞬時に回復すべしと」と期待してしまうのです。
しかし、現実の北海道は「満目の光景聞くところのものとは大いに異なり、広漠たる草野連担涯なりく、鬱蒼たる森林なお暗く、粛条たる無人の境風土ことごとく異なり。寒長く暖短く、冬期は寒風凛烈、積雪屋を埋め、その惨状たるや殺風景名状すべきに非ず。ときに猛獣横行害を人に加えざるに非ず。未開の地、四時の順番ならず。障病の毒隠伏して人を襲わざるに非ず」というとても厳しい環境です。
現実に北海道の地に立って見ると「かつて万胸の熱心を持って希望したる千金の貨物は容易に得ざるべくもあらず。希望を持って移り来たり、この状態に遭遇せば非常の人にあらざるよりは失望なさざらんとするも能わず」というのも当然のことです。
そして「前途の月日の長きに気倦み、力挫け、ついには成功を断念せしむるに到る」のです。かくして移民の多くは「漁場に傭役せられ、あるいは土工の雇夫となり、貧ますます貧になりし」となっていきます。
すなわち官の「植民の設計周到なるも、これを奨める人得たりとするも、保護ただ有形的に留まりて、ついには失敗に帰せるなり。これ今日拓地植民の不振に致す一大理由なりと信ずる」といいます。
■団結あたわず、土地の荒廃に帰す
また、こうした者たちは「各自の適するところに個々散在して決して団体をなさず。村落をなせる地に入るも気習隣伍と協わず」といいます。個人的な利益を求めて北海道に渡るような人種は、団体をつくらずに個人で移住して、入植地に入っても隣と協力しようとしないというのです。
しかるに互いに信をその間に置くに能わず。従って談笑相熟し、該往を語り、将来を談するの知己を得ず。冷淡不快の境に堕ちる者往々これなり。永住土着の念を起こすものあらざりし故に、彼らは多少の財貨を収得せばたちまち帰国の念を決し、自己の力作したる土地の荒廃に帰するは考慮することない。[2]
北海道開拓を促すために、夢のような話ばかりを語り、移住政策も金銭的な支援に偏った結果、今の流行り言葉で言えば「今だけ、金だけ、自分だけ」という人間ばかりが渡ってくるようになりました。そうした人たちは自分の利益が大切であるからゆえに団体を組んだりはしません。そのために北海道の苛酷な大自然に打ち克つことができないという
■宗教の本分
ではどうあるべきか。『北海道宗教植民論』は「北海道拓殖地移民を振起するの方法」で次のような提起を行っています。
移住を企図する者の多くは衣食に安からざる窮民なれば、辺境極寒未開の地は多少適当の保護を与えざるべからずといえども、いわゆる有形的保護、すなわち金銭あるいは米味噌のごときものいあらんか、有限の資本けっして永遠に継続保護しえべきに非ず[2]
北海道開拓にあたって金銭的支援、物質的支援は多少は必要ですが、それは永続的なものではありません。
その上で「有形的保護と同時に無形的保護として神経衛生法を植民地に施行し、神経衰弱症に陥るもの及び失望と不愉快の感情を誘起するのを未然に予防して業務上の遭遇するところの困難を忍耐し、職業に勤勉せしめざるべからず」といいます。
「神経衛生法」と言っていますが、物理的な対策とあわせて精神的な対策を行うべきだというのです。では「神経衛生法」とはどのような方法でしょうか?『北海道宗教植民論』は次のように続けます。
自ら肉体の欲情を制する能力を移民に与え、もって人間畢生の目的を確定せしむるものは実に宗教その本分なり。しかしして、この力や移民の困難の中に救済し、おもむろにその業をして成功に奏しむるものにして植民振起を謀るに最も欠くべからざるの要素なりとします。米国植民の実例を示すごとく宗教は拓地植民上必要にして、吾人は北海道拓地植民を計画するに宗教植民にあらざればその目的を達するに確実ならんを信ずるものなり[2]
「今だけ、金だけ、自分だけ」という気持ちでは北海道の大自然に打ち克って目的を達成することはできません。そうした気持ちを克服して畢生の目的を達成させることこそが宗教の本分だといいます。
■仏者の使命
宗教にそうした力がある中でどうして仏教なのだろうか。
往昔、仏者が我が国民を先導指導して怠ざりしを証明するに足るべし。我が国民とは親密の関係を有し、先祖伝来仏恩に浴します。また仏者もその先覚者らは粉骨砕身して我が国民を今日の文明に誘導し、国利民福を興起したる。今や教徒は衣食住に窮するに、決してこれが救済の任に当たり、慈悲を施し、持って恒産ある良民たらしむるのは仏者にあらずして誰あらんか。
仏者は自己が信奉する宗旨に従い、国家100年の為に自己が教徒の窮民を移植し、我が富源なる北海道を開拓するは護法護国の精神にかなうものにあらずや[2]
仏教が北海道開拓を主導すべきは、仏教がこの国にもたらしてしてきた歴史だといいます。親鸞上人、蓮如上人のような先覚者がこの国を導いてきた実績こそが北海道開拓を指導する宗教としてふさわしいと言うのです。
このことは、仏者すなわち浄土真宗の僧侶が自ら粉骨砕身して北海道開拓の先頭に立つこと誓った宣言でもありました。こうして「開教師」と呼ばれる僧侶が北海道に旅立つのです。
【主要参考文献】
阪本柴門·片岡政次『北海道宗教殖民論』1892·文求堂[2]
本願寺史料研究所『増補改訂本願寺史』2015·本願寺出版社
須藤隆仙『日本仏教の北限』1966·教学研究会
北海道開教史編纂委員会編『北海道の西本願寺』2010·北海道開教史編纂委員会[1]
①西本願寺公式サイト