北海道の西本願寺(5)
明治の三蔵法師 樺太へ
西本願寺派の北海道開拓を強く押し進めたのが第22世·鏡如上人です。明治時代に西域探検を行った「大谷探検隊」で知られる鏡如上人は、仏法がインドから起こり、東進して日本に伝わったとするならば、北海道·樺太への布教が使命と考えたのです。鏡如上人の代に北海道における浄土真宗本願寺派は躍進しました。
■厚別区・安楽寺
開拓期の北海道に渡り、真宗門徒と共に土地の開拓を進めるとともに浄土真宗の教えを広めた僧侶を「開教師」といいます。その好例が、札幌市厚別区にあります。
安楽寺の開基住職、横湯僧潮法師が北海道教区開教師として厚別に渡ったのは明治18(1885)年です。本山は明治30(1897)年11月に北海道説教所取締条例で「説教所未設立の地にして、其近傍に兼任せしむべき僧侶なき時は、本山より別に開教使を派遣す」と定めましたが、横湯僧潮法師の渡道はその12年も前。本願寺派札幌別院ですら仮堂の時代であった(本堂完成は明治23(1890)年)。
この頃の厚別はどのような状態でだったでしょうか? 大正15(1926)年発行の『白石村誌』によれば、厚別に最初に開拓の鍬が入ったのは明治16(1883)年、信州からの入植者河西由造氏が単独で開墾に入ったのが最初といいます。横湯僧潮法師の入植は河西氏に続くもの。『白石村誌』はこう記しています。
水田開発の目的なりしも常時鬱蒼たる密林にして人馬の通行困難を極め、水田また気候の関係上収穫皆無なる等より、遂に離散者を生ぜしが、漸次好結果を得るに至れり。
安楽寺の前身となる厚別説教所の開設は、横湯僧潮法師の厚別入植から10年後のことですが、この10年間はまさに1個の開拓者として大密林に挑んでいたのであろう。厚別の人口は、記録が残る最初の大正9(1920)年においても東部·西部合わせて411戸·858人と1000人に満たなかってしまいました。
明治28(1895)年ともなれば教堂を維持する門徒は両手で数えるほどだったでしょう。説教所を立ち上げても横湯氏の暮らしは一般の入植者の暮らしと代わらなかったに違いません。まさにゼロから1山を興した横湯僧潮法師は、明治40(1907)年に北海道に組体制が敷かれたとき、第2代北海道組長に任ぜられるなど、北海道の本願寺派僧侶の指導者として活躍しました。
安楽寺本堂(明治40年)①
■西本願寺第22世·鏡如上人
原生林に分け入って開拓に立ち向かう西派真宗門徒たちを勇気づけたのが西本願寺第22世·鏡如上人でした。
鏡如上人の北海道への関心は、明治20(1887)年、11歳の若さで明如上人の北海道巡教に同行したことから始まっています。
鏡如上人は明治20(1887)年8月6日、父である明如上人ともに函館に上陸した後、17日に明如上人と別れ、森町から船で室蘭に入り、伊達紋別へ。そこから札幌に入り、幌内炭鉱、月形の空知集治監を見学して、小樽別院に入り、そこから船で明如上人がおられる函館に向かわれました。その後、8月26日に一行が北海道を離れるまで明如上人と共にされています。
明治35(1902)年、イギリスに滞在中だった鏡如上人は、父明如上人の病状悪化の知らせを受けて帰国を決意されます。ロンドンからの帰路を利用して鏡如上人は、本願寺末寺の若者4名を従えてロシアから西域に入り、カシュガルやインド北部の仏教遺跡を探査。明治36(1903)年1月、カルカッタ滞在中に明如上人の入寂の報を受けて探検を中止、急ぎ日本に戻り22世本願寺派管長を継職されました。この時、28歳の若さでありました。
この後、鏡如上人は数度にわたって西域に探検隊を派遣しています。シルクロード文化に初めて学術的な光を当てたとしてこの探検隊は後に「大谷探検隊」と呼ばれ、高く評価されました。
これら一連の経験で鏡如上人は、インドから西域を通って仏典を中国にもたらした玄奘三蔵と自らを重ね合わせ、仏法がインドから起こり東進して日本に伝わったとするならば、さらに東の地、北海道、樺太への布教が自身の使命と考えられるようになりました。
鏡如上人②
■北海道·樺太巡教
日露戦争が終わった明治39(1906)年、鏡如上人は7月11日から9月10日まで実に2カ月にも及ぶ北海道·樺太巡教を行います。随員には籌子裏方。病弱な裏方を支える侍女や看護婦、裏方の弟一条道良氏も加わり、総勢20名に達しました。
一行は7月17日に函館に到着。そこで鏡如上人はすぐに明如上人3回忌法要を親修されました。19日に函館を発った一行は小樽から樺太のコルサコフに上陸。ここから8月25日まで1ヶ月かけて樺太の海岸線を1周する巡教の旅を続けられました。
8月26日に小樽に戻られた鏡如上人は小樽別院に入った後、岩内、余市に立ち寄られた後、9月1日から3日の間、札幌別院で蓮如上人400回遠忌法要を親修されました。この法要は大々的に報道され、道内の西本願寺派門徒に大いなる希望を与えました。
法要の日、札幌駅から別院までの沿道には、鏡如上人一行を迎える門徒の人垣が続き、多数の参詣人のために別院本堂前に仮設舞台が設けられたといいます。
続いて一行は二手に分かれて道内を巡教しました。鏡如上人と裏方が旭川に向かわれると、雨にもかかわらず旭川駅には道東道北の門徒1万人が詰めかけたといいます。旭川の慶誠寺で行われた帰敬式には1200人あまりが参集しました。
その後、上人は深川、滝川、砂川、岩見沢で末寺に立ち寄られ、8日に札幌で裏方が一足早く帰路に向かわれた後、鏡如上人は栗沢、栗山、長沼、由仁と回られ、10日に室蘭から京都に戻られました。
大谷探検隊③
■籌子裏方の貢献
鏡如上人の2カ月にも渡る精力的な巡教と共に門徒の心をつかんだのは、籌子裏方でありました。籌子裏方は公爵9条道孝候の3女であり、皇太子嘉仁親王妃の姉です。そんな籌子裏方が樺太の辺地でテントで寝泊まりする姿が新聞で知らされると、開拓の苦労をともにしてくれたとして道内門徒は大いに感激したといいます。
本願寺裏方大谷籌子④
この巡教で籌子裏方は函館では真宗函館婦人会の総会に総裁として臨席、札幌では豊平館で開かれた札幌真宗婦人会の総会に臨席。旭川では旭川真宗婦人会の発会式に臨み、岩見沢では岩見沢真宗婦人会で講話されるなど、直接、女性信徒に語りかけられました。
一方、別働隊となった大谷尊重連枝は十勝と釧路地域を回れました。一行の動静は逐次新聞で報道され、立ち寄り先の寺院には近隣から大勢の門徒が参集しました。
鏡如上人の北海道巡教は、西本願寺派北海道布教の始まりを告げた明治20(1887)年の明如上人の北海道布教の規模と内容で大きく上回り、西本願寺派の北海道布教が飛躍的に広がる契機となりました。西本願寺派門徒の意気は大いに上がってしまいました。
【主要参照文献】
本願寺史料研究所『増補改訂本願寺史』2015·本願寺出版社
須藤隆仙『日本仏教の北限』1966·教学研究会
北海道開教史編纂委員会編『北海道の西本願寺』2010·北海道開教史編纂委員会