北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

「日露戦争編」始まる

コタンに響く樺太コルサコフ海戦の砲音

 

明治37(1904)年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告し、8日に陸軍が仁川港に上陸するとともに、海軍は旅順を砲撃し、日露戦争がはじりました。陸軍はこの年の年末で航海に突き出た遼東半島の旅順をめぐる攻防戦に死力を尽くします。海軍は陸軍の旅順攻略を支援するとともに、朝鮮半島の左右の海でウラジオストクを拠点とするロシア艦隊と戦いを繰り広げました。
 
こうしたなかで明治37(1904)年8月、樺太にも日露戦争の戦闘が及ぶのです。「樺太コルサコフ海戦」です。山邊安之助『あいぬ物語』は今回より新章「日露戦争」に入りますが、第1節「遠雷」は、山邊たち樺太アイヌから見たコルサコフ海戦の様子です。
 
明治37(1904)年8月19日から20日にかけて行われた海戦は次のような戦いでした。大成社編集部『日露大戦史・上』(1906)に基づいて紹介します。
 


 

コルサコフ海戦——大泊沖での日露両艦による一騎打ち

 
8月10日の黄海海戦に参加して損害を受けたロシア艦ノーウィック号は、母港に戻ることができず、ドイツの租界地であった膠州湾に寄港。中立のドイツは若干の石炭等の補給を許しましたが、24時間で立ち去るように指示しました。同艦は、そのまま北上して樺太のコルサコフ(大泊)港に入りました。
 
ノーウィック号が膠州湾を出たこと知った上村司令長官は、佐世保港にいた戦艦「千歳」(艦長高木助一大佐)、「對島」(艦長仙頭武男中佐)に追撃を命じました。
 

千歳

 

對島

 

 
2艦は8月19日までに宗谷海峡に到着。2艦はノーウィック号のコルサコフ入港を掴んでいたわけではありません。高木艦長がノーウィック号の状況、膠州湾の24時間で補給できる燃料等を計算し、コルサコフにいると判断したのです。
 
宗谷海峡は濃い夏霧が立ちこめて視界の利かない状況でした。8月20日午前4時、對島は霧に紛れて湾内に突入しようと前進。これを察知したノーウィック号は外海に出ようと港を発進。両艦はコルサコフ港の外で対面しました。
 
4時30分、對島は敵船の進路を遮りつつ船を寄せて右舷から艦砲を放ちます。ノーウィック号も応じて激しい撃ち合いが始まりました。
 
火力では對島が上回るものの、速力ではノーウィック号が上。双方が有利な位置を占めようと移動しつつ、約1時間にわたって艦砲の応酬が続きます。やがてノーウィック号は船尾上甲板に被弾。南下をあきらめて湾内に引き返そうとします。一方、對島も右舷に被弾。仙頭艦長は追撃を止めて、浸水を止める応急措置に移りました。
 
千歳は、宗谷海峡で警戒の任に当たっていましたが、對島より「敵艦はコルサコフ湾内にあり」との無線を受けると、港に向け全速疾走。夜に港の手前に到着しましたが、このまま敵陣地に侵入することは不利であるとして、港の入口を固めて日が昇るのを待ちました。
 
このとき、ノーウィック号は市街陸壁近くに乗り上げ、艦体は右側に傾き、船尾はほとんど海中に没する状態でした。前日に對島に攻撃されてから港に戻り、陸壁に接岸する手前で沈んでしまったのです。
 

海戦後のノーウィック号

 
朝日が昇り、この姿を認めた千歳は港内に侵入。作業に当たっていたノーウィック号の乗員はパニックになり、船を捨てて陸を敗走しました。砲撃を行い、船員が見えなくなったのを確認すると、高木艦長は敵船追撃の任務を完遂したとして、對島と合流して母港に戻りました。
 
この戦いは、ロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦の前哨戦として、日本海軍の優秀さを知らしめるものとなりました。
 

 
 

あいぬ物語 (15)

 
樺太アイヌ 山邊安之助著 
文学士 金田一京助編
 
 

六 日露戦争(上)

 

(一)遠雷

 
その中に三十七年の夏も来た。村の人達は、一度鱒漁のために、例年の通り落帆村の方へ出かけた。ただし部落のアイヌが一人いなくなるようならば、ロシア人らが色々なことをやるだろうから、私はアイヌ半数ほど共に部落を守っていた。
 
ある日の事、日もようやく暮れかかってきた時、遠くの方に大砲のような大きな音がした。
 
「雷の音だろうかしら?」と一人のアイヌがこう言った。あるいはまたアイヌの半ばは「東風だから波の音だろう」と言うものもあった。
 
私達はどうかして、早く日本の軍隊が上陸してくれればいいと思っていた訳だから、
 
「大砲の音じゃ無いか?」と言い出したら。
「あぁそうかも知れない!」と応ずるものもあった。
 
一同、外へ出てしばらく聞いていたが、そのうちにその音が絶えてしまった。それからアイヌ一同にこう言っていた。
 
「本当に大砲の音だとすれば、もう少し経ったら何か知らん話があるに違いないなぁ!」
 
そんな事を言っていた。
 
八月であったと思う。ある日、ロシアの義勇兵少尉がドブキーの方から浜を伝わって巡回のために私達の村までやってきた。その人は以前漁場の監督役をしていた人であったから、私たちの知っている人であった。
 
人のいい人であったから、心易く付き合っていたのであった。で、今巡回してきたから、網倉の中を一人いられる程、明けてやって、その所に居らせた。
 
私など東内忠藏と一緒によく遊びに行って見た。その人はロシア人ではあるけど、自分の国の高官連を陰で呪っていた。
 
「今度の戦争だって、日本の方から悪くしたんじゃないんだ。我々の国の大臣だの、総督だのが馬鹿で、こんな戦を起こしたんだ。今に見ているがいい。食料も尽き、砂糖でも、また茶でも、タバコでも無くなったのに、船も来やしない。しまいには食物が無くなって人間みんな死んでしまうだろう」
 
そう言って自国の大臣達を罵倒していた。私たちはその人に問うてみた。
 
「先ほど聞こえた大きな音は、何の音だったろうか?」
 
「大砲の音では無いかしら」と言えば、その人は、
 
「大砲の音では無いだろう。私もここへ来る船の中で聞いたのだからよくは知らないけれど、コルサコフに戦が始まるにはまだ少し早すぎる様だ。雷じゃないかね」などと言う。
 
そうしている中に、今度は大泊の方から七人のロシア兵が村を見回りにやってきた。そして前から来ている人と低い声で話し合っていた。
 
私たちも聞きたいんだが、詳しく聞くわけにはいかないから、ただただ
 
「日本の軍艦」と言う事と「ロシアのノーウィック号という軍艦」
 
などの言うだけが聞こえた。そこでますます聞きたくなるんだが、隠して話さなかった。
 
その時、内藤忠兵衛の家に小熊を飼っていた。ロシア人たちがそれを見に、その所へ行って寄った。その人々の中に韃靼人というまた一種違った国人が一人交じっていた。後まで一人残っているから、私どもがその側へ行って、こう尋ねた。
 
「この間、大砲の音が聞こえたが、コルサコフにどんな事があったのか?」と言うと、その韃靼人のやつは、
 
「さぁ! どうだか、おら知らねぇ!」と言う。
 
「お前、何を言うんだ? 大泊の方から来たんじゃないか? 何も知らないという事があるもんか! 何があったんだ、本当に?」と問い詰めると、韃靼人は、こう言う。
 
「何も無いよ」
 
「何も無いことがあるもんか? 知っているよ。大砲の音だということは知っているんだよ。隠さずにさっぱり言いなってのに!」と言ったら、
 
「じゃあ決して誰にも私が言ったと言うなよ。本当はコルサコフへ日本の大きな軍艦がロシアの軍艦を追いかけてきて、大泊でロシア戦の軍艦が沈没してしまったんだよ。けれども日本の軍艦も中から非常に煙を立てていったから、ひょっとすると日本の艦も沈んだろう。野登呂の方へ行くに従って煙も見えなくなってしまった」
 
ここで初めてロシアの軍艦のノーウィック号という軍艦が日本の軍艦のために砲撃されて轟沈したことをやっと知った。その時、私たちの嬉しさと言ったらなかった。
 
(その後、大泊の方へ出かけた時、見るとなるほど大きなロシア艦が海上に横になって沈んでいるのであった。それを見たとき、私たちは非常に軽快だった)
 
それからは、もう日本の軍隊を遠からず樺太へ上陸するであろうと、そればっかり楽しみにして待っていた。
 
 

 
 

 

なおこの連載は河野本道編『アイヌ史資料集 第6巻 樺太編』(1980・北海道出版企画センター)に収録された『あいぬ物語』(1913・博文館)初版の復刻版を底本にしています。原文は大正時代の忠実な復刻で旧漢字旧仮名遣いであり、当サイトに掲載するにあたって、読者の皆さまの読みやすさを考慮して、旧漢字を新漢字にする、現代では用いられない漢字を平仮名にするなどの調整を行っています。なお『あいぬ物語』は青土社より新装版が出ています。

 

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