北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[栗山]

 

泉 鱗太郎
(2)

 
 

夕張開墾起業組合 開拓の鍬を下ろす

明治21(1888)年5月、泉鱗太郎率いる夕張開墾起業組合による栗山開拓が始まりました。野鳥、蛇、そして蟻……、夕張川に阻まれた未踏の大森林だけにその開墾は苦労の連続でした。入植1年目の冬に先遣隊は離散の寸前まで追い込まれます。

 

■栗山開拓が始まる

明治21(1888)年5月16日、泉鱗太郎率いる夕張開墾起業組合の先遣隊は下夕張鉄五郎の命がけの操船でようやく夕張川の対岸に渡りました。
 
夕張川が無願入植者達の侵入を防いでいたため、対岸には原始以来の大森林が広がっていました。場所は現在の栗山町角田の付近です。開墾の暁には豊かな農作は確かだとしても、手つかずの大原生林だけに、そこにたどり着く苦労は並大抵ではありません。以下『栗山町史』1971からお伝えします。
 
小屋が出来たので、一日も早く荒山を開墾して作物を蒔かなければ秋が気づかわれるので、翌日からすぐ開墾にかかった。なるべく立木のない所で開墾のしやすい所を選び、どんどん枯草に火をつけては雑草や葦の枯跡、笹や立木を片っ端らから焼き払った。春の日の晴れわたった太陽に、乾き切った昔さながらの処女荒山は、白煙をもうもうとなびかせて破竹の勢いで燃え広がった。夜ともなれば真紅の火勢は木々の間を通してはるかに夜空に映えて、その壮観さは実にたとえようもない眺めであった。[1]
 
泉は新開地に3日間留まると、室蘭にいったん戻りました。当時、泉は室蘭郡3村の戸長の職にあり、その才覚は室蘭でもまだまだ必要とされていたのです。
 
泉は一行をここに入地させて、現地の有様を充分踏査し、仕事上のいろいろな指導や方針を授け、懇切な慰撫を与えるなどして、滞留3日で室蘭に戻った。地味の肥沃なことや地積の平坦広大さなど、開墾地の模様をつぶさに伝え聞いた室蘭の旧地の人達の喜びは大きかった。当時、泉はまだ室蘭郡下3村の戸長在任中であり、アノロの開発企画は、戸長としての深い抱負から出たものであった。[2]

 

■蟻山に難儀する

入植地では氏家貞吉がリーダーとなり、先遣隊18名が開墾作業を進めました。前住の室蘭でも開墾作業を行いましたが、噴火湾に面した比較的開けた場所であり、開墾の苦労は栗山のような人跡未踏の場所とは比べものになりません。
 
7月24日に氏家が泉に送った書信が『栗山町史』に掲載されています。
 

畑の荒れること室蘭地方の畑とは大いに違い、草根沢山有之候に付、本日草とり候えば、三、四日には草原と相成候て誠に困り入り申し候。
 
未開墾の地の草の高さ六、七尺、そのうち草によってその丈二、三尺位の草もこれ有るも、鎌も通らぬ程の厚き草なれば、刈方も人夫沢山相かかり申し候。
 
樹林地も沢山有之候へば機械にて開墾する能わず、加うるに笹原なる故、人力にても充分の開墾も相成らず、樹木も極く大木も沢山ある故、木伐りも冬分は二十人も人夫雇い候様致さずばなり難く、さなくば開墾ばかり致し候ても播種いたすことかなわず候 [3]

 
蟻が思わぬ難敵だったようです。
 
蟻塚というものがこの原野にも非常に多かった。高いのは三尺位、低いのは二尺位、草の根や土で盛り上がった塚の中には幾千匹とも数知れぬ蟻が巣くっていた。多いのは一段に三百以上もあり、少なくとも百三、四十もあって、これを掘り起こすことは容易なものでなく、開墾には相当なやませられたものである[3]
 
蟻山を崩すの先遣隊だけでは足りず、応援の人足を求めるように上記書信で求めています。
 

蟻山崩し方も一々機械相かかり候。分崩し候ては人夫二人にて当分間に合せおり候えども、面々蟻山も沢山に相成候えば、人夫にては間に合い兼ね候につき、人夫三人ばかりに都合相成度願上候 [3]

 

夕張開墾起業組合入植当時(①)

 

 

■馬が倒れる 蛇が出る

さしもの角田藩の侍たちも大自然の擁壁を崩すことができず7月24日の書信によると1年目の夏は、次のような状況だったようです。
 

播種物、麻園は丈三尺余なり。馬鈴薯も充分の景況なり。大麦、オーツ類は今に出穂なく、収穫面倒に御座候。玉蜀黍は鳥害にて二度播種迄も致し候らへども、此一本もこれなく、カラス、鳩の沢山なること無類なり。
 
大小豆は余り地味の宜しきし依り、収穫は如何なるや青々として至ってやわらかに育ちおり申し候。
 
燕麦なども先播種の分は六、七寸位に相成、人夫不足なれば日々播種いたし兼ね、漸く三町歩ばかり播種いたし申候。
 
方今により酷暑なれば日々に馬も倒れ、加うるに蛇沢山相出て十分の開墾できまじく、下国様も開墾は秋冷に相成候まで休業致し候。
 
開墾は十三町歩ばかり出来申し、本年中には五十町歩だけは出来候と浅野氏も申し居り候。
 
処方今の景況にてはとても面倒と話しおり申候間、此段も前以て御報申し述べ置候。[4]

 
ジャガイモは十分に育ったものの、トウモロコシは鳥に食われ、他の作物も人手不足のために思うように進まなかった。夏になると暑さで農耕馬が倒れ、加えて大量のヘビが先遣隊を悩ませました。文中の下国様は、一行が世話になった夕張郡由仁古山の下国皎三です。
 

■実に皆無同様と相成り

こうして入植1面目は収穫の秋を迎えますが、その状況は惨憺たるものでした。10月7日の音信には
 

農況を熟覧いたし候処、蕎麦は最前の暴風雨にて早播き種の分は吹き落され、あと播種の分は花盛りの処へ、かの蛮風なれば実に皆無同様と相成り、誠に困難罷有り。[5]

 
おそらく台風の暴風があったのでしょう。つづく23日の通信には霜に襲われたことが報告されています。
 

十六日の朝大霜にて、小豆は大痛みに相成り候。オーツ(燕麦)、蕎麦なども雨天続きで柄はくさり、実は落ち、誠に困難、大至急莚、叺をお取り寄せ下されず候にては無幸と相見え候。此の段も御報仕候 [6]

 

■夕張地方にいることかなわず

こうして1年目の収穫は惨憺な状況になりました。開拓では1年目の収穫物で冬を乗り越えるかたちですから、先遣隊は大変な苦労を背負います。11月20日の音信では、壊滅しかねない窮状が述べられています。
 

夕張川も日数二十日も過ぎ候わば、氷張り舟(丸木舟)通行成り難き如くに申せり。なお、氷渡り候様(氷橘となる)相成り候わんは、極寒に相成候際なり。
 
左に候えば、また千歳より馬通行成り難く候。歩行にても途中一泊か二泊致さずば成り難しと申せり。
 
本年の収穫物は金に積り候はば至って些少なり。左に候ても冬季の食料は、充分御送付相成らざるに於ては人民の困難、蕎麦ばかり食料と申すわけにも至ず、是非米は必要なり。味噌などは数日食わず誠に困難なり。株金出金は、相成らず候哉。
 
食料御送付相成らざる候ては、夕張地方にいることかなわず。冬分に相成り、いづこへも行くことならざる所におり、食料これなきに於ては到底かなわず候につき、冬凌ぎにいづこえか参ると申す者もありたるを取り押え置き、冬分迷惑致し候、搬卒すことにも相成らず候。
 
左様に候わばとても荷物運搬は成り難きに付、是非二十日以内に米噌は御送付相成候様お取り計らい相成度。この段墾願仕り願い候。
 
米噌は何時も欠乏、金円は何時もなし。私に於ても如何様取計様無之候。
 
万事繰合せ悪しくなり、充分な働き出来ず、何事によらず物は充分なければ充分の事は相成らざるものなり。右を疾くと御推量の程願奉り候。[7]

 
11月末には雪に閉じ込められてしまい、氏家は、ここを捨てて出て行こう言う声を抑え、すぐに食糧を送ることを求めています。
 

先遣隊の窮状を訴える氏家の書信(②)

 

■ウバユリに救われる

開拓初年の状況を『栗山町史』は次のように描写しています。
 
開墾は如何に忍耐を必要としたことか、おそらく想像に絶する困難に耐えながらつぶさに辛酸をなめたことであろう。
 
はじめのうちは米ばかりを食べた。しかしわずかの米俵を札幌から千歳に揚げて、ここからこの現地まで駄馬で迎ばればならない。いつも長雨が降ると夕張川は出水して渡れなくなり、ガタガタ橘付近の大谷地は一面に沼のように水が出て通行はまったく不可能になるのであった。
 
開墾地7戸の人達はすっかり米が欠乏して幾日も食物がないという悲惨な実状となった。
 
まだ収穫が何もない頃であるから、一本の玉蜀黍、一掘りの麦、--つの馬鈴蘇の持ち合いもなく、山野に伸びているウバユリを掘って、この百合根をすりつぶして澱粉をとり、これに蕗やわらびを短かく切ってゆで皮をむいて、すり交ぜにして食べたのであった。
 
このウバユリは苦味があるが、アイヌの食べもので、明治の初期に北海道の探検家が食糊に欠乏した折、これを掘って飢えを凌いだ事柄が記録に残されている。
 
草小屋はやがて夏ともなり、木の皮がむける頃になったので、タモの水の皮を剥いで囲(かこい)や戸や仕切りなどに使った。
 
また葦を数きつめていた床も木を立ち削って、割板を作り、これをを並べてその上にムシロを敷いたが、それからはよほど土の湿りが少なくなった。
 
浅野と岩崎の両家には小さな子供がいるので、別に一棟の木の皮の小屋を建てて、真ん中を仕切って入った。尾根も囲いも入口の戸もみなタモの皮を剥いで作ったものである。[8]
 

■2年目 泉鱗太郎入地する

明治22(1889)年、入植2年目、室蘭での公務を整理して泉鱗太郎が妻子を伴って栗山に入りました。偉大なリーダーを得て開拓は大きく前進します。

 

壮年期の泉鱗太郎(③)

明治21(1888)年、初年度の草分けの農業の収穫成績は予定どおりにはいかなかった。翌22年、指導者である泉麟太郎が妻子を伴い来てから、計画が大幅に実行に移されたので、事業も活発となった。
 
人手不足解消のため、多数の入植者を募集するように企画されて、北海道毎日新聞に広告を出した。それで翌23年から応募が多くなったので、その規則が来上がった。この当時労働株は小作と呼ばれるようになった。
 
麟太郎は室蘭在住当時、村総代、開拓使勧業課勤務のほか役場筆生・戸長な長年月間の豊かな経験をもち、その上にたって詳細綿密な収支予算書を作成した。[9]
 
泉鱗太郎が入って開拓は大きく前進しますが、明治22(1889)年は不幸にも冷害にあたり収穫は不作。23年目には、戸数32戸人員103名、既墾地63町歩に上りましたが、経済面で堪えられず、泉鱗太郎は夕張郡長渡部維精に1000円の緊急融資を願い出ました。この願いに対して、道は札幌で排水工事を請け負うことを条件に300円の先金を許しています。
 
こうして創業の苦労を乗り越え、3年目から開拓は軌道に乗りますが、まさにこれからという明治28(1895)年2月、夕張開墾起業組合は突如解散してしまうのです。何があったのでしょうか?
 

 

【引用参照出典】
[1]『栗山町史』1971・栗山町・194P
[2]同上・194ー195P
[3]同上
[4]同上・196P
[5]同上・
[6]同上・
[7]同上・197P
[8]同上・198P
[9]同上・199P
①栗山町「泉記念館」展示パネル
②『栗山町史』1971・栗山町・197P
③『栗山町史』1971・栗山町・1824P

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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