北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[栗山]

 

泉 鱗太郎
(3)

 
 

 麟太郎、空知米作の開祖となる

兄添田龍吉とともに室蘭を開き、ついで馬追原野東部の開祖となった泉鱗太郎。しかし、その功績はこれで終わるのではありません。現在、日本を代表する水田地帯となっている空知平野の米作を類い希なる行動力で切り拓いたのが実は麟太郎なのです。泉鱗太郎シリーズの後半は、麟太郎による空知平野稲作農業の創造物語をお届けします。

 
 

■夕張開墾起業組合の解散

幾多の苦難を乗り越えて軌道に乗り始めた泉鱗太郎と旧角田藩士たちによる栗山開拓。しかし明治28(1895)年、開拓の中核を担っていた夕張開墾起業組合は明治28(1895)年2月25日に解散してしまいます。それは鱗太郎たちの開拓事業の目指すところが畑作から米作に切り替わったことによります。
 
米作には大規模な水田灌漑設備が必要ですが、それをゼロからつくるには莫大な資金が必要です。畑作開墾を目的とした夕張開墾起業組合は、資金の乏しい者には労働資本を許すなど、組合員による事業の共有が目的で、莫大な資金を集める体制になっていませんでした。水田事業を行おうとすれば組織を抜本的に作り替える必要があったのです。
 
この事情を『栗山町史』は次のように語っています。
 
北海道の農業は、この頃各地で次第に水稲試作に踏み切られていった。畑作物の代価の不安定が勢い水稲へと思いを馳せさせるのが自然のなりゆきであった。そのため角田村でも明治25(1892)年頃から湿地を水田とするものがあって、組合の株主総会でも熱心に水田試作が提案されるようになったが、当時道庁ではまだ水田について奨励していなかった。
 
組合の総会で水稲試作の提案を承認することは、ただちに増資決議をせねばならないことであった。この組合はもともと畑作企業が建前なので、水田造成に当たっては新しい事業となり、資金が必要となるので土地を資本とする換金を考えねばならなかった。このことは泉が委任されていて組合の土地をもってその代償としなければならなかった。その後、水稲試作することに決めて水田造成に踏みきったため、資金造成の都合上、夕張開墾起業組合は解散の止むなきに至った。[1]
 

■寒地稲作の可能性

開拓史の時代に、北海道で米作は不可能と信じられ、開拓史は欧米式農法普及の妨げになるとして米づくりを禁じていていました。そうしたなか、明治6(1873)年に島松(現北広島市)の中山久蔵が、函館地方から取り寄せた品種を改良し、はじめて寒地稲作の可能性を開いたことはよく知られています。
 
しかし、島松から直ちに水田が石狩、空知に広がったのではありません。稲作をするためには大規模な灌漑設備が必要で、官の後ろ盾がなければ個人の力では限界がありました。
 
三県時代から北海道庁時代になっても、道庁は米作について懐疑的でした。それでも米づくりは日本の農民のDNAに刻まれた本能です。北海道開拓が進むと水稲の栽培に挑む者が跡を絶ちませんでした。
 
こうした中で、明治25(1892)年、日本の米作の権威である酒匂常明(さこうつねあき)博士が、当時の北海道長官・北垣国道に招かれ、北海道庁座犬長に就任します。酒匂はすぐに亀田(函館)と上白石、真駒内に稲作試験場を設けました。これが上々の成果を挙げたことから、石狩・空知での米作ががぜん注目されるようになります。
 
明治26(1893)年1月には、札幌のすすきので遊郭を営む高瀬和三郎が、鱗太郎たちが開いた角田地方を米作適地として注目し、米作の試作を道庁に願い出ました。道庁は高橋の願いを聞き入れませんでしたが、酒匂博士はこの地方を調査し、水田耕作について大いに期待できるという見解を示していました。
 

広大な栗山の水田 麟太郎が可能性を開いた(①)

 

■麟太郎、稲作転換を志す

こうした動きに着目していた鱗太郎は、いち早く高瀬和三郎と連絡を取り、米試作を共同で行うことを呼びかけます。
 
大変な苦労をして開いた角田の地ですが、開墾を進めるにつれ、水分の多い湿地帯で畑作に不向きなことが明らかになっていきました。また北海道では希少な米は大変に価値の高い作物でした。
 
なおこれに加えて当時の経済事情を見なければならない。地主から見て明治26(1893)年の、畑の小作料は1円内外であったが、水田とすると1俵になり4、5円となる。当時地価が10円内外であったのに比べ米田の25円内外という事情は、造田費に9円以上を要するとしても水田の方が有利な条件にあった。
 
自作農にとっても明治25(1892)年頃の計算で水田1段歩、全道平均地価1,957円、畑661円、米1段歩の収穫1.226石、麦0.93石で玄米1石の値段7.52円、水田1段歩造田費平均8円という数字が出ている。このような計算から見ても経済的には水田が有利とされていた。[2]
 
角田の開拓事業を成功させるは、水田転換しかないと鱗太郎は早くから考えていたのです。
 

■はじめての米試作、予想外の好成績

高瀬和三郎と合意すると、鱗太郎はすぐに自身が社長と務める真成社の総会を札幌豊平館で開き、この問題を討議しました。真成社というのは泉鱗太郎が社長を務めるもう一つの開墾会社です。旧角田藩士の助産を目的とした夕張開墾起業組合と異なり、純粋に開拓による営利を目指すもので、門戸は角田藩士以外に開かれていました。二つの団体は角田開拓の両輪でした。
 
明治26(1893)年5月、総会で同意を得ると、鱗太郎は、水田の試作を条件に角田の土地約30万坪を高瀬和三郎に譲り、真成社は高橋の試作を支援するという協定を結びました。
 
ススキノの遊郭・北海楼の経営者である高瀬和三郎がいくら申し出ても首を縦に振らなかった道庁は、泉鱗太郎という確かな人物が名乗りを上げたことでこの米試作に積極的になりました。
 
これに対して道庁も極を便宜を計り、酒匂財務部長は自ら出張実地指導の任に当り、また技手佐藤勇治郎も出張、諸搬の計画を指導したのである。区画は栗山道路に沿って横10間、縦30間1枚1段に作り、阿野呂川に木枠を取り付けて引水し、高瀬は5町歩、泉は3段歩を各造田して試作したのであった。
 
こうして明治26(1893)年はじめての試作の結果は、実に異常といえるほどの出来栄えで、稲は丈長く収量も多く、高瀬は反収5俵、泉は7俵に及ぶというまったく予想外の成績を見せた。
 
札幌以以北初の試作によるこの見事な成熟ぶりは、各方面の注目を引き、村はにわかに強く水田熱が台頭して水田造成を目論む向きが多くなった。[3]
 

■角田村水利組合の創設

赫々たる成果を得て麟太郎は角田を稲作の村にすることを決意します。麟太郎たちの故郷、宮城県の角田は阿武隈川流域に広がる東北を代表する稲作地帯です。北海道に第二の角田郷を建設しようとした麟太郎たちとって入植地を故郷と同じ稲作地帯にすることに何の異存があるでしょうか? 鱗太郎を中心に衆議はまとまり、一致団結して水田造成に進みます。
 
そして泉鱗太郎は、前述のように夕張開墾起業組合を解散し、水田灌漑事業を立ち上げるために、明治28(1895)年7月、新たに角田村水利組合を立ち上げるのです。
 
そこで有志の会合、また全村的な会合も数回催され、この間(明治24(1891)年)しばしば官庁にも往復を重ね、28年7月18日角田小学校で開いた角田村総会で水利組合を設立し、この実現に邁進することに決定した。
 
各般の議事が熱意の中に可決され、約束された村発展の基礎はこの日をもって力強く発途するに至ったのである。
 
高瀬和三郎と社との契約は解約し、先に割渡した土地全部とほかに500円を贈った。
 
村営をもって用水溝を通じ、村債を起して工費を支払い、29年度より潅慨することを期して下記のように委員10名の選挙を行なった。
 
委員長泉麟太郎、副委員長福井正之、委員今井弥平次、清野庄三郎、伊藤広幾、石原市助、実吉賀之丞、高瀬和三郎、伊藤辰造、斎藤三郎以上10名。
 
泉は発起者代表としてその趣旨を宣明し、万難を排して理想農村を建てんと強調した。
 
創業費は300円とし、用水溝路にかかる各自の所有地はこれを寄付し、貸下げの分は返地のこと。同年11月30日、斎藤三郎宅に委員集会。3万円公借元利据置とし、4年目から7力年賦をもって返済のこと。本年一時金1000円借入のこと。阿野呂川、水門は雪中に作工し、同阿野呂川から古川まで開繋のこと。高瀬和三郎は60町歩の水田を仕付、各自は50町歩を仕付て、相互親睦を旨として出願の手続を為すべきこと
 
など、圧盛な意気の中に決議されて、銘記されるべき情景が開かれていた。[3]
 

■全道の米輸入量の3分の1を角田で

土功組合創立総会の決議を受け、この年の12月20日、麟太郎たちは、由仁町他2カ村戸長鈴木定道の名前で時の北海道長官板垣国道宛てに水田灌漑設備建設のための工事起債を上申しました。
 

用水路開削起債の儀に付上申
 
部内夕張郡角田村の地たる平坦肥沃、田畑共に適す。しかししてその高燥の地は略々畑に拓成せり。
 
残余地はおおむね湿地なるをもって、これを畑にためさんとせば、縦横排水を設け、少くも三十間毎に小排水を貫通するに非ずんば、いかでか能く成功を奏するを得しや。これ角田村民心痛のーなりき。
 
明治ニ十五、六年の交、阿野呂川の流れを分ち、水田の試作をためすものありて、意外の良結果を得たり。見る者驚かざるなし。
 
そこで水田を作るもの年一年に倍増し、しかしして累年好結果を得。本年にいたり八十余町歩の水田を見るに至る。
 
しかりといえども、阿野呂川の水量たる僅々七十町歩の灌漑にもなお乏しく、昨年すでに作付し能はざる者に十余町歩あり、これ角田村民心痛のになり。
 
本年初め同村重立者数名相会し、切に灌漑の途を講じ、ついに水源を発見す。これすなわち水路開削に起債したる夕張川なり。
 
かくて爾後全村、回数の協議を経て字たらつより分水の事を決定し、本年初秋測量に着手し、這回すでに結了を告げ、その費用を計算するに三万円の巨額を要するをもって村債を起し、本年中起工し、雪中において伐木運搬せば費用を鮮小ならず。これがため非常に急ぎ候次節に有之候。
 
もっとも竣功の上は千町歩の水田を見る難きに非ず。かくのごときになれば全道輸入米の三分のーを支ふるのー大事業に有之候によって、起債の儀、すみやかに御許可あいなり候様致度。
 
明治二十八年十二月
夕張郡由仁村外二箇村戸長 鈴木定道 
北海道庁長官北垣国道殿   [4]

 
全道の米移入量の3分の1をこの灌漑事業で産み出す──大変な意気込みです。12月末の申請ですが、年内に起工し、冬に森林の伐採を行えば費用を費用を抑えられるので早く認可するように求めています。冬は馬そりが仕えるので木材の運搬が容易ということです。
 

■11億の巨費、起債は認められるのか

この申請書に記された事業概要によると事業費は次のようになります。『価格年表』(1988・週刊朝日編・朝日新聞社)によれば明治29(1896)年の「日雇労働者の賃金」は26銭です。今、土木作業の単純労働者の1日賃金を1万円とした換算をあわせて示しました。
 
 夕張川・阿野川開削費      2万1604円29銭  8億3093万4231円
 阿野呂川旧排水間開削費       3292円25銭  1億2662万5000
 阿野呂川雨煙別川間支線開削費      3500円  1億3461万5385円
 監督費・測量費・その他雑費     1603円35銭  6166万7308円
 合計                3万0000円  11億5384万1923円
 
この巨額の事業費の返済は
 
そして償還の方法としては、3カ年据置で利子は月7歩とし、村費として水田設計地所には10分の9を、その10分の1の7を畑地に、その3を全戸数に賦課、毎年2期にわたって徴収し、償還にあたることにした。[5]
 
というものでした。
 
泉たちは村の起債によって賄おうとしたましたが、この時代の角田はまだ戸長役場の時代で、起債を起こす権限はありませんから、かなり無理な注文でした。 案の定
 
しかし、組合事業としてもまだ個人で所有権を得たものが1人もなく、法人団体と認めることに不可能であるとの趣意から,惜しくもこの計画は翌明治29(1896)年4月4日をもって却下の悲運に逢った。[6]
 
夕張開墾起業組合を解散し、水田に懸けた一大決心は、資金調達という事業の入口で前進を阻まれてしまったのです。
 

 


 
【引用参照出典】
[1]『栗山町史』1971・栗山町・206P
[2]同上・233p
[3]同上・235p
[4]同上・236p
[5]同上・238p
[6]同上
The北海道ファーム株式会社(栗山町字旭台)ホームページ『the北海道ファーム』https://thehokkaido-farm.co.jp/company/outline/
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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