北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

何もかもみな嬉しかった──
対雁の安之助、アイヌ学校に入る

 
現在は江別になっている対雁に「強制移住」させられた安之助は、明治10(1877)年にこの地に設けられた「対雁教育所」に入校します。これは後に道内各所に設けられた「旧土人学校」の先駆けとなるものです。
 
「旧土人学校」について「いま学ぶアイヌ民族の歴史」(2018・山川出版)は94pで下記のよう説明しています。この本は加藤博文北大アイヌ先住民族研究センター教授と若園雄志郎宇都宮大学地域デザイン科学部准教授を編者に道内の高校教員らによって高校の副読本として使用されることを念頭に編纂されたものです。
 

旧土人児童教育規程(1901年公布)では、修身、国語算術、体操、農業・裁縫を就学教科とし、地理歴史、理科は除外された。教育課程も、「普通の尋常小学校のおおよまで凡そ第三学年迄の程度を四学年間に終了」とした。この方針は、「心性の発達和人の如くならざる旧土人に対し、等しく就学の始期を満6歳とすれば多少早きに過ぐの嫌いあり」という認識に基づくもので、和人の児童との差別化が正当化された。
 
教育方針は、アイヌ語やアイヌの風俗を禁止し、日本語と和風化を強制した。したがって、修身と国語は「国民的性格養成上特殊の地位」とされ、「忠君愛国の諸徳の修養」として機能した。紀元節や天長節は、ことに重要な儀式であった。それらの儀式には、「父兄をして参列せしむくし」とされ、児童のみならずアイヌ民族全体への皇民化教育をはかるものとなっていた。
 
このように、アイヌ小学校とはアイヌ民族からアイヌ語を奪い、日本語が押しつけられ、彼らの文化と伝統を否定する場となったのである。

 
この本は「アイヌ小学校(旧土人学校)」とは、アイヌ民族差別の温床であり、アイヌから言葉と伝統を奪う非人道的な場であったと高校生に教えるように求めています。
 
「対雁教育所」はそうした学校の原型となった場所ですから、山邊安之助ら「強制移住」で連れてこられた樺太アイヌの子どもたちは、ここでさぞ屈辱に満ちた差別と虐待を受けものと想像されます。実態はどうだったのでしょうか。学校に実際に通っていた当人の証言に耳を傾けましょう。
 


なおこの「樺太アイヌ北海道移住」については当サイトで取り上げています。下記リンクを参照ください。







 

なおこの連載は河野本道編『アイヌ史資料集 第6巻 樺太編』(1980・北海道出版企画センター)に収録された『あいぬ物語』(1913・博文館)初版の復刻版を底本にしています。原文は大正時代の忠実な復刻で旧漢字旧仮名遣いであり、当サイトに掲載するにあたって、読者の皆さまの読みやすさを考慮して、旧漢字を新漢字にする、現代では用いられない漢字を平仮名にするなどの調整を行っています。なお『あいぬ物語』は青土社より新装版が出ています。

 
 

あいぬ物語 (4)

 
樺太アイヌ 山邊安之助著 
文学士 金田一京助編
 
 

二 流転──帰化新附の民

 

(三) 最初の土人学校

 
明治11年の年に対雁村へアイヌの小学校が立った。ここで初めて私たちは学校教育を受けた。ここからアイヌの子弟の小学校が立ち始める。私たちはすなわち本当の最初の小学校生徒であった。
 
学校の先生はというと、以前樺太で医者をしていた大河内三郎という人で、長くアイヌの中にいた人であるから、アイヌの言葉もできた。最初の先生はやはりアイヌ語のできる人であったから、よかろうというのでこの人を先生にしたのであった。
 
この頃の学校の科目というのは読書と算盤と手習と地理の本などであった。私どもは樺太からぞろぞろ出てきて、この学校へ上がった時はいろいろの人たちと一緒にいろいろな遊びをするのが何よりも軽快に思った。
 
札幌のお祭りのある時などは先生に連れられて見に行ったものです。その時いろいろな踊りがたくさんあり、良い着物を着たきれいな人たちがたくさんいる。それを見たときには、今なら東京へでも来たように嬉しかった。何もかもみな嬉しかった。それゆえ学校に行くのは一番面白かった。
 
しかし、学校もその頃はまだ始まったばかりの時であったから、可笑しいこともあった。先生が医者であるから病人がでると授業が休みになる。1カ月の中、本当に授業のある日は10日くらいか、あるいは15日くらいしかなかった。
 
少し長い病人があるときは10日くらいの休みの日もあって、前に習ったことがすっかり忘れてしまうので、また元へ還って前に習ったことをまた習う。また新たに教わっていく中にまた休みがある。こういうふうであるから、私たちは4年あまりもいたけれども、正味習ったのは2年くらいしかないように思われる。
 
そのうちに私は仕事に出なければならないような若い者になった。今思えば惜しいことであった。もう少しここで勉強したなら、もう少し読み書きが自由になったらよかったのにと思うけれど、はじめてのことでもあったから、その自分にはそういうことも考えなかった。
 

(四)道守先生

 
大河内先生は久しからずして外へ転任された。その後に来られた先生は仙台の方で氏家興三郎という先生でした。氏家先生も2年くらいいてまた他所へ行かれ、その後には工藤勘之助という方と、宮永計太という方と2人の先生が来られた。そのうち宮永先生がまもなく去られて、その後に来られたのが鹿児島の人で道守榮一という先生でした。
 
その先生は鹿児島戦争のときには賊軍となって戦った人で、なんでも賊軍の25人の頭であられたそうだ。だから元気のよい怖い先生だった。私たちが少し話でもすると鹿児島弁で
「こら、何しちょるか」
と大喝されるので縮み上がったものだ。
 
けれどもこの先生がこられてから学校がはじめて学校らしくなり、私たちもはじめて勉強らしい勉強した。それまでは遊び半分で、勉強にはあまり身が入らなかった。そして以前には工藤先生から撃剣などを教わって、毎日毎日打ったり打たれたりして遊んでいた。
 
道守先生は撃剣には大反対で、いつでもこう言われた。
「撃剣などは大きくなってからでもできる。勉強のほうは小さい時からやっておかないといけない」
そう言って一生懸命に教わったものでした。私たちが今日少しでも文字を知っているのは、その先生のおかげで、今でも感謝しております。
 
先生はよく私たちに大西郷のことを説かれた。先生が大西郷の話を聞かされる時には涙を揮って話された。私たちの大西郷の話を聞くのが好きだった。その話を聞かされるたびに血を沸かして聞いたものだ。
 
その頃、世間には大西郷は実はまだ死なずにどこかに隠れている、という噂があった。私たちはそうでありたいと思って、よくそのことを先生に尋ねた。しかしその時に先生は声を曇らせて
 
そうありたいものだが、しかし決してそんなことはないはずじゃ。西郷翁に現にその時に身に40余りの丸傷を被って、池邊吉十郎という人がその首を介錯したんだから、正しく死なれたはずじゃ。
 
こう話されるのだった。私たちは子供心にもそれが非常に悲しかった。
 
しかるにこの先生も半端で他所へ転任された。私たち一同は一方ならぬ力を落とした。生徒の中にはあまりに力を落としてこの時に学校を辞めたものがたくさんあった。また年の多い方の子供らはこの時に漁場へ働きに出るものもあった。
 
私もまたそして、そのとき学校を引いて終わり、そして自分でいろいろな苦労をなめた。
 

(五)天才の夭逝

 
私たちより後に入学したアイヌたちの中には、なかなかよくできた人もあった。それというのも学校も良くなってきたし、生徒らもみんな学問をしようという心になって、字を書くことでも、本を読むことを熱心にやったから、よくできる者も出てきたと思う。
 
その中にたいそう出来が良くて、師範学校まで行ったアイヌもいる。そのアイヌは皆淵宇之助というアイヌであった。この人は皆淵という村から出た人で、皆淵氏を名乗っていた。この人は算術の達者な人で、先生よりも上手であった。
 
ある時、先生と競争してやったことがあったが、答えが先生のとは違った。そんなら今一度計算してみるがよろしいと先生が言って、またやり直すと、皆淵の勘定の方が正しかった。先生は私の方が違ったのだなと言われた。惜しい男であったが学校にまでいる中に夭逝した。
 
師範学校まで入ったのが今一人いる。安藤久吉というものであった。この人も何でもよくできた人で字を書くことに至っては日本人にも負けなかった。惜しい人であったがこれも石狩川で溺れて死んだ。
 
この人と私とは大の親友でよく話も合い、心も合って同じ思想を抱いていた人でもあった。樺太へ一緒に行こうではないかと言えば、君が先に行ってみたまえ、よかったら僕も後から行こうな、と言っていたら、川で亡くなったという話を聞いて、実に残念であったけれど致し方がなかった。
 
その他に今一人のアイヌ、富之助という人があった。この人もやはり在学中非常にできた人で、学校の助教見習いを仰せつけられたほどの人でしたが、日露戦争後樺太の久春別に行って住んでいたが、そこで死んだと聞いています。この人も惜しい人でしたがなんとも仕方がない。
 
また遠藤周蔵というアイヌがおりました。私たちと一緒に学校へ入った人で、そこから私たちが退校した後までも長く勉強していた人ですから、前に言った富之助と一緒にアイヌの学校の助教見習となった。日露戦争後、樺太へ帰って今は久春内にいる。この人の妹は内淵の千億太郎治というアイヌの妻君になっている。
 
千億太郎治は私たちよりも小さかったが、後に入学した人たちで字を書くことも書物を読むことでもよくできて、ことに手紙を書くことなどはいたって上手である。樺太へ帰ってはロシアの字も覚え、ロシア語もよくできる。非常によく何かと知っている人であるが、村の総代役等はうるさいから自分で別にやっている。
 
私なども総代役等は面倒で好まないけれど、うっちゃっておいてはいつまでたってもアイヌたちが得をしないと思うから、何とかして今の子供らが成長する時代には立派なものになるようにしたいので、日本人並みにはできなくなっても、その半分だけでも何かよくわかるようになったらいいと思うから、私の力にできないまでも、村の人たちのためにいろいろ心配をしているのです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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