北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

明治10年代 開拓はアイヌを餓死させたのか? (下)

 
前日に続いて十勝で明治10年代に起こったアイヌの飢餓について見ていきます。この飢餓が山間部の鹿の乱獲により引き起こされたということから十勝管内の北部、本別町と士幌町(村)の町史・村史から該当部分を抜き出しました。この件は資料収集中ですので結論的な論評は避けたいと思います。史料集としておよくみださい。
 
なおこのページに限らずですが、現代人がウェブサイトでも読みやすいように数字は漢数字を英数字に、漢字を一部平仮名にしておりますが、文脈文意は一切変更がありません。「土人」など今日では使用が憚られる単語もそのままとしています。
 


昭和37(196)2年【士幌村史】

 

■十勝漁業組合

こうして、新しい制度がどしどし行なわれていったが、十勝国一円は依然として旧請負人杉浦嘉七の独占支配下にあった。それなりの事情はあったが、それかといって、いつまでも放っておくわけにはいかない。そこで、当時札幌本庁の主任官であった松本十郎は、明治8(1875)年8月、嘉七を説いて漁場を返上させ、これを十勝場所支配人としての経験をもつ若松忠次郎に貸し、全住民による組合の経営に移させた。
 
忠次郎は7郡のアイヌから代表1人ずつ都合7人を選び、これに漁場の幹部である和人を加えて計13人で十勝漁業組合を組織、5年を1期として経営に当った。組合は年々数千円の純益をあげ、予定の期限には、アイヌたちの自活の道もほぼ立つようになっていた。
 

■鹿

古来、北海道の太平洋沿岸は雪が少なく、胆振・日高・十勝などの奥地は絶好の鹿の棲息地となり、平地にも多くの鹿が越冬のため移動してきた。
 
明治2(1869)年、北海道開拓の中心地が札幌に定まり、函館と札幌をつなぐ国道が開通すると、付近の地はにわかに開拓され鹿の楽土をおびやかし、このためにも鹿は、しだいに十勝の原野に集中していった。
 
猟師たちはアイヌの一隊を率いて日高山脈を越えはじめた。ある者は船で広尾にはいって十勝漁業組合に門戸の開放を迫った。やがて毛皮商人たちは現地アイヌに鹿を狩らせ酒その他の物資と交換をはじめた。これらの猟師や商人によって、十勝の鹿は急激に狩られていった。
 

■組合を解散

明治13(1880)年3月、十勝漁業組合が満期解散すると、十勝国はまったくの自由の天地となった。
 
組合解散鹿と鮭とを求める人の群が、十勝国に殺到した。法が不備であったため、下流地帯では無願で漁業を行なう者が続出、上流地帯ではみなごろしに近い鹿狩りが連日展開された。
 
川口の大津港は、鹿皮・鹿角その他の毛皮を集める商人の根拠地となり、付近の鮭漁場が大漁を続け、たちまちにして繁華街を形成した。
 

■鹿の絶滅

だが、こうした繁栄は、ながくは続かなかった。乱獲をかさねてきた鹿は、一挙に絶滅に頻した。明治15(1882)年の早春、十勝地方一帯は大雪に加えてみぞれをもってし、鹿は草を食べることができず、むなしく猟師にとられ、もしくは飢えて死んだ。
 
鹿皮に望みを失った人々は、その落角に目をつけた。それを拾いやすくするため原野に火を放ったので、十勝の原野には四季を通じて炎々たる野火が天を焦がしていたという。
 

■鮭

鮭の運命も似ていた。乱獲によって減少の傾向を見せた十勝川の鮭を繁殖させるため、明治13(1880)年、官命をもって上流および支流の鮭の捕獲を禁止した。天然物をただ取りする時代は、こうして終りを告げた。ついで、いよいよ奥地の開発がはじまる。[1]
 
アイヌと和人の共同漁業事業体「十勝漁業組合」について、産業編により詳しい解説がありました。
 

■十勝漁業組合の果たした役割

十勝国は、明治初期に至っても治政らしきものに浴することがなかった。だが、そこに生活がなかったわけではない。大部分はアイヌではあったが、住民は日々生業にいそし象、そこばくの産物を出していた。
 
窮民があればこれを救済しなければならず、旅行者があれば川を渡したり、宿泊させたりしなければならず、太平洋沿海線の道路を維持するという問題もあった。産物を扱いながら、かたわらそれをやったのが、松前藩以来の「漁場請負人」が名を改めただけの「漁場持」であり、漁場持が廃されてからは「十勝漁業組合」であった。
 
旧請負人福島屋杉浦(第3代)は明治維新になってからも「漁場持」として、十勝1国の産業を独占していたが、明治8(1875)年、大判官松本十郎の処置により返上した。明治新政の体面にかげても、旧態依然たる姿を残すわけにいかなかったものであろう。
 
ところが、漁場持は廃止してみても、開拓使の力が十勝国まで届きかねる状況は変っていない。にわかに十勝国を開放して雑多な和人が急に流れこんでくると、たちまち欺かれたり酷使されたりするのがアイヌたちであることは火を見るより明らかである。
 
そこで松本大判官は、5年間を限って十勝国の封鎖を統け、十勝アイヌ代表者と旧福島屋使用人とをもって組織された組合によって漁業その他を経営させようとした。これが「十勝漁業組合」である。組合は十勝7郡のアイヌ代表7人と、漁場幹部であった和人6人の計13人で結成され、旧福島屋支配人として経験のふかい若松忠次郎が取締人となった。
 
この十勝漁業組合は、また「十勝組合」「十勝国旧土人組合」「十勝国土人組合」「十勝国旧土人組合漁業」「十勝国産業組合」など、さまざまに呼ばれている。
 
松本大判官の狙いのひとつは、5年のうちに、アイヌたちに相当の資産を持たせることにあったが、その点は年々好成績をおさめた。
 
結局のところ組合は、福島屋から借りた漁具・建物などの代金2万3000円余を返済したほか、5万3819円5厘の純益金を残し、明治13(1880)年6月、満期解散した。その益金は、280戸のアイヌと42戸の和人とに1戸当り167円13銭7厘ずつ均等に分配された。[2]
 
週刊朝日編『値段史年表』によると明治13(1880)年の日雇労働者の1日の賃金は21銭です。求人サイトを検索すると現在の土木作業員の1日賃金は9000円~1万3000円程度でした。計算しやすく1日1万円とすると 明治13(1880)年の21銭が令和2(2020)年の1万円に相当します。そこから現代の通貨価値に換算すると、明治13(1880)年に十勝漁業組合の解散によってアイヌが受けた益金は1戸あたり798万5714円になります。
 
なお本別町史には餓死の記述はありません。
 

士幌高原ヌプカの里(出典②)

 


昭和33(1958)年 【本別町史】

 

■二、土人の生活

獣魚介を漁って生活していた当時の旧土人は、河川山野に糧を求むろ外、遠く海岸に出稼ぎして魚猟に従事しておった。
 
漁場には従来漁場請負人が指定され、明治初年頃には松浦嘉七なる者が十勝の総漁場請負人であった。旧土人等の出稼者はこの下に働いて幾何かの報酬を受け取るのであるが、請負者の搾取的利益壟断はや往々にして視るに忍びないものがあったので、明治8(1875)年に至り、開拓使庁はこの漁場請負制度を廃し、悉く漁場の返還を命じたのである。
 
ここに於いて同年新たに前記松浦の手代若松忠次郎を中心に和人42戸と十勝7郡の旧土人280戸と共同して、十勝漁業組合が結成され、開拓史庁の許可監督の元に5カ年の期間をもって大津海岸において漁業が営まれた、俗にこれを旧土人組合漁業と称した。
 
かくて期限満了の明治21(1888)年には、総利益金5万3819円5厘の收益があった。この金額は各1戸当167円13銭の割合にて配当されたのであるが、十勝外4郡旧土人224戸の3万7439円13銭6厘は、その後開拓使庁において保管し、現金は郵船株式会社、その他の株を購入利殖を図ろうとした。
 
組合漁業において莫大な利益を占めた旧土人は、これに味を覚え、十勝外4郡の土人相共同し、明治21(1888)年からさらに引き続き大津海岸で漁場の許可を受け、漁業に乗り出した。
 
しかし前のごとく漁業も思わしくないのみならず、明治15(1882)年頃から十勝の山野には鹿の皮、角等の生産箸しく増加し、値段も需要も良いので、彼等は漁場を棄て山野に走り、もっぱら狩猟に力を入れるようになり、久しき間生活の財源であった漁場は顧みられなくなってしまった。
 
ここにおいて漁場は監督吏取締の下に和人に賃貸される事となり、その益金は、前記の共有財産に編入して積み立てていたのである。
 
しかるに明治18(1885)年にいたるや、流石の鹿も余りの乱獲にその跡絶え、近傍に姿を現わさなくなり、一方漁業も不漁続きで、にわかに生活の資源を失った彼等は、その狼狽一方ならず、ついに所々で餓死者を出すにいたった。
 
当時の監督官庁であった札幌県庁では、こうした悲惨事に早速旧土人の救済策として、また更生策として農業の法を授けて、これにより彼等の生活の安定を図らんとし、明治19(1886)年土人を最寄りの農耕適地に集団せしめ、農事授産係を派遣(官農事教師)し、農科稼●の方法を教えたのである。この時における十勝土人の総戸数は132戸と称されている。[3]35-36p
 

本別市街(①)

 
昨日と今日で3町の町史を読みました。まだ3町しか見ていない中での感想ですが、場所商人の搾取を排除して「十勝漁業組合」をつくってアイヌの経済を考えた松本判官はじめ、開拓使や3県の人たちは、アイヌの人たちの現状に心を痛め、限界はあったにしろ、そのときどきでできる最大限のことをしていったと思います。
 
引き続き探索していきます。
 

 

 


【引用参照文献】
[1]『士幌村史』1962・士幌村・24-26p
[2] 同上121-122p
[3]『本別町史』1958・本別町35-36p
【写真出典】
①士幌町観光協会『しほろなび」https://www.shihoro-kankou.jp/gallery/
②https://ja.wikipedia.org/wiki/士幌町

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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