北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎


当サイトは8月15日で3年目に入ります。そこで2周年記念特集として北海道開拓史を彩る大物を紹介します。北檜山の開拓功労者・丹羽五郎です。昭和43(1968)年の北海道百年からこの50年、北海道は大きく道を誤ってしまったのですが、もし、道に迷うことながなければ、丹羽五郎の名前は道民であれば、子どもでも知る名前となっていたでしょう。それほどの功労者であり、開道百年までは全国的にも知られていました。
 
 

【第1回】丹羽五郎 
7つの祝福
今回は、会津藩時代の家臣であった鈴木重正が寄贈した序文を紹介することで、丹羽五郎の経歴、人となりを紹介します。
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【第2回】
戊辰戦争勃発する
会津藩の武家に生まれた五郎は11歳で、代々会津藩の家老職を務めた丹羽家の養子となり、家督を継ぎます。そして17歳になった年、戊辰戦争が起こります。二本松少年、白虎隊など、同世代の青少年が多数犠牲になったこの戦争は、五郎の生涯に大きな影響を与えるのです。
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【第3回】丹羽五郎 
会津若松城 落城する
戊辰戦争最大の合戦、会津戦争で丹羽五朗は、籠城戦を決めた藩公松平容保から各地に散らばった将兵に城へ引き揚げるよう伝える伝令の任務を受けます。これが一段落したおり、生家から急報がありました──丹羽五朗の戊辰戦争その後半です
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【第4回】
どん底
明治新政府軍に敗れた会津藩は、もっとも厳しい処分を受けました。藩主は家名断絶、領地は没収、藩士は全員謹慎です。五郎も東京の謹慎所に送られ、漬物小屋で幽閉生活を送りました。幽閉が解け、会津藩が斗南藩として復活する中で、五郎とその家族は人生を決める決断を迫られます。
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【第5回】
西南戦争勃発 五郎出征
門番草鞋取りの身から警察に転じた丹羽五朗に最大の転機が訪れます。明治10(1877)年2月、西南戦争の勃発です。五郎は国内最後の戦争となったこの戦いに巡査隊の一員として出征します。五郎にとっては会津の旧敵である薩摩への敵討ち。出征軍に選ばれた喜びは「一生忘るに能はず」でした。
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【第6回】
五朗の「田原坂の戦い」 その真実
巡査隊の一員として西南戦争に参加した丹羽五朗は、有名な田原坂の戦いで抜群の活躍を見せました。西南戦争はとても複雑な戦争で、今、丹羽五郎の生涯の生涯と記されているものにも間違いや混乱が見受けられます。そこで当事者に取材した明治44年の『西南記伝』によって五郎の戦いを精査しました。
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【第7回】
五郎の見た帝都の自由民権運動
巡査抜刀隊の隊長として、西南戦争の戦局をひっくり返す活躍を見せた丹羽五朗。東京に戻ってからは警察のエースとして出世の階級を駆け上がります。そこには、西南の武勲のほか、激化する自由民権運動を治めて帝都の治安を守った功績がありました。
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【第8回】
五郎 北海道開拓を決意する
明治22(1889)年2月、明治憲法発布の大典で明治天皇から会釈を賜るという身の余る栄を受けた年の夏、丹羽五郎は旭川を訪れます。宿願であった北海道開拓を実行に移すためです。開拓資金を捻出するため五郎はある事業を行います。それが大成功し、五郎は警察を辞めました。開拓のために五郎が行った事業とは──。
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【第9回】
五郎 北海道開拓のモデルとなる
警察官僚を辞めた丹羽五朗は明治24(1891)年、いよいよ開拓事業に乗り出します。北海道に移り住んで陣頭指揮を取り事業は大きく成功。北海道開拓のモデルと言われるようになりました。丹羽村成功の背景には会津の武士道精神がありました。
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