設計者・井口健 北海道百年記念塔を語る ①
設計競技への応募
■北海道百年記念塔のコンペ(設計競技)に応募した動機を教えてください?
当時、私の務めていた久米設計事務所が今の道庁本庁舎の設計を担当していたんです。私も現場に携わっていました。そうしたときに現場事務所に北海道百年記念塔コンペのポスターが掲示されたんですね。
コンペの応募は単純に自分の力試しという感じです。この前の年(1966年)の年末に1級建築士の免許を取ったばかりだったんですよ。
■先生にとってモニュメントの設計はどのようなものでしたか?
モニュメントはというのは一つの歴史ですよね。歴史に対する実証、何らかの歴史を原点にして求められるテーマとその課題の精神をいかに追求するか──ということにおいてはとても魅力がある。建築家としてとても惹かれるものです。
モニュメントですから意図的に壊されることはないだろう。まして、北海道百年記念塔の場合は「風雪百年・輝く未来」ですから。まさかこういうトラブルが起こるとは思ってもいません。道庁が種を撒いて騒動を起こしたのが原点ですが……。
■その時、先生はまだ29歳の若手です
コンペの受付開始は6月からで〆切は10月末ということだったんですが、コンペを知った当時は現場が忙しく、コンペどころではなかったんです。道庁の他に江別市役所新庁舎の工事監理までやっていたのです。江別の方の仕事は辞めるよう、道庁側から注意されました。それで8月末になって少し時間が取れそうになったものだから、挑戦してみようかなと思ったんです。
まず計画書をつくって「(久米設計)事務所でやりませんか」と申し込んだんです。だけど事務所は
「忙しく手が回らない。どうしてもやりたいなら君が個人でやりなさい。君ならまとめられるだろう」
という返答でした。それなら
「あーそうですか。わかりました」
■久米設計としてではなく、先生お一人で臨まれたんですね?
札幌の事務所は係わらない──それは徹底していました。当選して建築が始まっても現場に札幌事務所から誰も姿を見せない。それぐらい一貫していました。札幌事務所としては責任を持てない……ということでした。
私が登録した時点で〆切まで残り1カ月半でした。事務所は手伝えないということだから、時間外に所員の仲間に協力してもらい、すすめていったんです。
そうしたところ、本社の重役が誰かから聞いたんでしょう。久米設計は東京が本社で、北海道事務所担当の重役がいるわけです。本橋さんという方で、東京と札幌を行ったり来たりしている。その本橋さんに呼び出され
「君は百年記念塔のコンペをやっているそうじゃないか。道庁の現場は関島君(久米設計の現場監理の所長)にまかせて、コンペを命懸けでやれ」
と命じれました。応募期限の10日くらい前です。久米本社は本社で総掛かりで記念塔のコンペに対処していたのです。
これで事務所の時間、事務所の職員を使ってやれるようになりました。助けられました。感謝です。なんとか間に合い、深夜に郵便局本局で郵送手続きを終えました。
【解説】北海道百年記念塔50年の歴史 ①
道民の総意をこめた記念塔
昭和37(1962)年1月、5年後に迫った北海道百年の準備のため町村金五知事を長とした準備委員会が道の内部に設けられた。内部から事業案、事業企画を募ったところ70もの案が寄せられたが、記念塔もしくは記念碑の建設はもっとも多い事業案だった。
昭和40(1965)年9月、各界の代表者・有識者による「開道百年記念事業協議会」が知事を長として組織され、昭和41(1966)年3月に「北海道百年記念事業実施方針」ならびに「北海道百年記念事業準備計画」が策定された。
このなかで記念塔は、野幌自然公園、北海道開拓記念館とともに、開道百年事業のメイン事業に位置付けられた。
当初、事務局の原案は開拓功労者の像を乗せるものだったが、その後の協議会の議論によって、塔は特定の人物に限定するものではなく、「開拓のすべての先人に感謝と慰霊の誠を捧げるとともに将来に向かって道民の新たな決意をこめた記念塔」とすることとなった。さらに「建設にあたっては広く道民の賛成を求めることが望ましい」との意見が出された。[1]
なかでも戦後すぐに道の拓植計画課長を務めた橋本東三氏は「博物館のような過去を振り返る資料館よりも、今後、いよいよ飛躍して止むことを知らぬ北海道の前途を象徴するような、中空に高く聳える塔を高く建てるべきだ」と熱心に主張したという。[2]
なお、記念塔から外されることになった開拓功労者の像は、この年の8月に民間による「北海道開拓功労者顕彰像建立期成会設立準備会」がつくられ、黒田清隆・ホーレス・ケプロン像が札幌市大通公園に、岩村通俊像が円山公園に、永山武四郎像が旭川市につくられることになった。
さて「北海道百年記念事業実施方針」のなかで「記念塔」は次のように位置付けられている。
北海道開発の先人に対して感謝と慰霊の誠を捧げるとともに、将来に向かっての逞しい北海道の建設を近く道民の総意をこめた記念塔を建設する。[3]
ここには、当時北海道知事として記念事業を協力に進めた町村金五の想いが強く反映されている。下記は「北海道開拓記念館」の10周記念誌に寄せた町村金五知事(当時は参議院議員)の寄稿の一節である。
町村金吾知事
さらにこの両施設の場所については、私は特に心を砕いた。この事業が決定すると、道内の各地から適地を提供したいとの申し出があったが、結局、私は、東南は野幌の原生林に隣接し、西北に広い石狩平野を一望の中に臨むことができる現在地が最適の場所だと考え、野幌森林公園に決定した。
北海道は、開拓の鍬が入れられる以前は、全体が千古斧鉞を知らぬ原生林に覆われていたことを思い起こし、後方の天然林は過去を偲び、前方の平野は将来の発展に思いを馳せるという念願をこめての選定であった。[4]
すなわち、北海道開拓記念館と北海道百年記念塔、一つは過去を回顧し、開拓の苦労を偲ぶ施設として、一つは北海道の未来を象徴するモニュメントとして、野幌森林公園とあわせて一体不可分のものとして構想されたのである。
【引用参照出典】
[1]『北海道百年記念事業記録』1969・北海道百年記念施設建設事務所・50p
[2]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・177p
[3]『北海道百年記念事業記録 資料編』1969・北海道百年記念施設建設事務所・2p
[4]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・178p