北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

疫病発生 コタン壊滅
移民団を襲った悲劇

 
対雁と石狩で、恵まれた暮らしを続けていた樺太アイヌ移民ですが、明治19年にコレラ、それが収まると天然痘と続けて疫病が襲い、わずかの間に300名近くもの命が失われました。
 
樺太アイヌ移民が【樺太アイヌ強制移住】として、北海道近代アイヌ殉難史の代表のように語られるのは、この疫病がもたらした悲劇にほかなりません。代表的なアイヌ史の概説本『いま学ぶ アイヌ民族の歴史』(2018・山川出版)は次のように伝えています。
 

江別市郊外の小高い丘に、「対雁」の墓苑がある。その墓苑に、樺太アイヌの墓が3基ある。その一つには、「乗仏本願生彼国」と記されている。「仏の願いにすべてお任せすれば、必ず浄土に往き生まれる」という意味であろう。
 
樺太島から強制移住させらた彼らにとって、対雁での生活は過酷であった。中心的生業である漁業では,数カ所の漁場があったが、実際は収支で赤字が続き、移住してからの6年間で2万円余りの負債となった。奨
励された農業も、投資した費用の半分の収入にとどまった。そんな折、コレラと天然痘が彼らを襲った。
 
1886(明治19)年の7月から流行が始まり、翌年2月までのわずか8カ月間で住民のほとんどが罹患し、実に300人以上が死亡した。
 
1964(昭和39)年、墓苑周辺で土砂崩れが起こり、「樺太移住旧土人先祖之墓」と記された墓の周辺から多量の人骨が現れた。それまでも、周辺地域から骨片や玉、刀剣といった明らかにアイヌ民族を示す副葬品が出土していた。江別市は本格的な遺体掘り起こしと供養を始め、北海道大学医学部は調査に入った。
 
その報告によれば、土葬遺体6体と火葬遺体100余体が確認できたという。記録によると、1886(明治19)年は毎日死者が出ており、多い時には1日に10人を超えたとされる。

 
『いま学ぶ アイヌ民族の歴史』は何を持って「対雁での生活は過酷であった」とするのか、理解できません。「2万円余りの負債」も、実際の「収支で赤字」もアイヌ移民は知ることもなく、まして背負わされることなかったのです。しかし、こう書かれると、あたかも樺太アイヌ移民が重い負債を背負わされたかのように読めてしまいます。

山邊安之助の『あいぬ物語』(35p)でこう証言しています。
「アイヌ一人に一二〇円ほどあたり、二人位ある家は二〇〇円以上の金を得たから、その頃はアイヌたちは皆立派に暮らしていられたのであった」

これまで「あいぬ物語」を読んで理解したように、〝強制連行〟という印象とは裏腹に、対雁での樺太アイヌはいたれり、つくせりの暮らしでした。しかし、この疫病による悲劇は、移民事業全体に悪しき印象を与え、ひいてはアングロサクソンが新大陸で行ったような先住民族大虐殺が北海道でも起こっていたかのような誤解を与える背景となっています。
 
山邊安之助は、この参事を生き残りました。当事者だけが語ることのできる貴重な歴史の証言に向きあいましょう。

なお文中に出てくる上野正については、
[江別] 樺太アイヌの移住(4)
で詳しく紹介しています。ぜひご参照ください。

あいぬ物語 (7)

 
樺太アイヌ 山邊安之助著 
文学士 金田一京助編
 
 

三 石狩に於ける青年時代

 

(三)不慮の災難

 
しかるにこの石狩に漁をしている間に思いも寄らぬことが起こって、三百幾十人というアイヌが木でも倒れるように、我々を残して世を去った。これは即ち明治十九年の年の虎病(コレラ)と疱瘡との流行のためであった。
 
虎病の始まりは、十九年の年の夏からで、秋までに段々強烈になっていって、冬にかけて春近くまでに物の沈んでいくように、親戚の人や親しくしていた友達が後から後からみんな私を置いて世を去った。虎病が済んだと思ったら、また疱瘡という病が流行って、 またまたアイヌがおびただしく、何か倒れるようにバタリバタリと惜しい人たちが世を去っていった。
 
翌年の二月になって病気も少し衰えかけた頃、私もとうとう罹ってしまった。私が病気になった噂を知古美郎が聞いて、陰で大層心配してくれたそうだが、 そのうちに知古美郎も罹ったということで私も大層心配をしていた。「アイヌ達の世話をよく見てくれる人であるのに、悪くでもなったら事だな」 と案じていた。
 
どうにかして見舞いに行きたいと思っていたけれど、 私自身も病気でいるから見舞う事もできず、空しく床に就いていながら、色々な事を考えていたけれど、何とも仕方がなかった。その間に知古美郎もまたついにあの世へ逝った。
 

(四)アイヌの英雄

 
知古美郎という人は、アイヌの中でも優れて偉い人で、思慮のある、その上弁舌も達者な人であった。明治12年か3年の頃であった――― 総頭領樺村勇登呂麻加(カバムラユートマカ)が亡くなった時、川村勇左衛門というアイヌが亡父の後を継ぐべきものであったが、まだ若年であるので勇左衛門は先代の頭領役になるべきものだが、成人するまで暫時待命して、その代わりに木下知古美郎が官家から、その者ならば八百五十人のアイヌの頭領にしても結構務めていけると見込まれて、ついには総頭領に挙げられた。その下には真岡のアイヌ西崎西郎と白主の土人・東山梅雄氏とこの二人が副頭領にされた。
 
当時、知古美郎は自分の弟もあった。けれども、樺村勇左衛門をいつでも自分の側に置いて総頭領の事務を習い覚えさせていた。そして自分の死んだ後には、この樺村勇左衛門を頭領にさせて、九春古丹の樺村の家を再興するようにとそう言い残して亡くなった。 だから知古美郎の没後、樺村勇左衛門が総頭領となって自分の家のあとを立てることができた。
 
知古美郎という人はそういうふうに情宜の篤い、度量の広い人であったから、どんなものでもこの人を悪く言うものがなかった。村の人達の事などでも知古美郎という人は、いろいろ人々のために万事よい様に 取り計らってくれるのであった。
 
若い者でも年寄りでも、この人からは叱られても腹が立たないと言っていた。私はこれまでいろいろなアイヌをたくさん見たけれど、この人ほど、風采の揚がったアイヌはまだ見たことがない。堂々たる日本のお役人方に比べても、そう見劣りはしない男振りであった。
 
風彩ばかり気高いのではなく、本当に心から気高い人であったから、誰もこの人に及ぶほどのアイヌはいなかったと私は思う。だからこの人の亡くなった時は、 アイヌ達のみでは無しに、高官の人方までも頭でも惜しがって、好い人物を失ってしまったなぁと言って、涙を流して嘆息された。
 
知古美郎の墓石は30余人のと一緒に対雁の江別村にある。上野正という方は開拓使の役人で、我々はアイヌの世話係の役人であったが、ある時、知古美郎の墓へ詣でて涙を流して、 手ぬぐいをもって自分の涙を拭い、もっぱら惜しい人を亡くした。実に残念だと嘆かれるので、私達までもそれを見ていたら非常に泣きたい気持ちになったのであった。
 
そういうことで、この知古美郎でも、こんなアイヌ達一同、私どもに至るまで、この人がこう思うというのも、やはり黒田長官がアイヌを石狩に連れてこられて、 このところでお歴々の大勢の間に立ち交じって、諸事万端、アイヌのために面倒を見ていたから、皆から思われるようになった。
 
これと言うのも北海道へ上命のままに渡来て、それ以来こういう人物になったように私は思う。それというのもお歴々の方々からも好く思われていたからこそ、ああもいろいろなことを知り、役人方からこれだけの偉いものに、仕上げられたろうと思う。

 
 
 
 

 

なおこの連載は河野本道編『アイヌ史資料集 第6巻 樺太編』(1980・北海道出版企画センター)に収録された『あいぬ物語』(1913・博文館)初版の復刻版を底本にしています。原文は大正時代の忠実な復刻で旧漢字旧仮名遣いであり、当サイトに掲載するにあたって、読者の皆さまの読みやすさを考慮して、旧漢字を新漢字にする、現代では用いられない漢字を平仮名にするなどの調整を行っています。なお『あいぬ物語』は青土社より新装版が出ています。

 

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