北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第5回】上湧別富美 峯二 夢を叶える

 
 

峯二と渡辺侃北見支場長との出会い

 加藤完治によって救い出されるようなかたちで白滝の密林からできた峯二は、知人に勧められるまま、北海道農事試験場北見支場に向かった。
 
北海道農業試験場北見支場は、明治34(1901)年に開設された北海道農事試験場の支場として明治40(1907)年に設置された。昭和30(1955)年に訓子府に移転して現在の北見農業試験場になるが、開設当時は野付牛屯田の練兵場を譲り受けたものだった。オホーツク農業の確立に中核的な働きを行った。
 

渡辺侃(出典①)

この時の支場長は渡辺侃(つよし)。渡辺は、明治26(1893)年に空知郡滝川で屯田兵渡辺直槌の長男として生まれた。明治32(1899)年に札幌に移り、札幌一中から北大予科、そして大正6年に東北帝国大学農家大学時代の北大農学部に入学、農業経済学を専攻した。卒業後道庁に入り、大正9(1920)年に27歳の若さで北海道農事試験場北見支場の場長となっている。そして大正13(1924)年から1年間、欧州視察を派遣された。将来を嘱望されたエリートだった。
 
昭和2(1927)年、北海道帝国大学に呼び戻され、昭和18(1943)年からは農学部助教授となった。戦後、新生北海道大学として生まれ変わり、経済学部が設けられると農業経済学が移されることになり、渡辺教授は経済学部の教授となった。そして昭和29(1954)年からは経済学部長に就いている。この間、北海道農業研究所長を兼務することもあった。渡辺侃は日本の農業経済学の泰斗で長く日本農業経済学会の会長を務めた。なかでも農業価格変動論で多大な功績を残した。
 
帝国大学卒のスーパーエリートにして北見支場場長の渡辺侃と一介の農場雇い人の関口峯二。身分は天地も違う。とはいえ関口も名門旧制前橋中学の卒業だ。年は1歳違い。帝大の同窓になる未来もあった。この二人の出会いがオホーツクが変える。
 
今から15年も前のことだ、ある朝の寝込みを襲って紹介者I君に伴われてきた痩せて鋭い男が、ここに書いてある関口君である。[1]
 
遠軽の家庭学校農場出身と言えば、何か過去を持つ青年である。渡辺支場長も最初は怪しんだ。しかし、話を聞くと、群馬の名門中学出身、道庁の課長や渡辺が知る大学教授も知人である。元は小学校教師で、養子に来れば医者にもなれたのに北海道に渡ったという。峯二の身の上に興味を抱いた渡辺は峯二に研究の一部を任せた。
 
私は彼に夏は稲の生育調査を、冬は農家の経済調査を宛がった。彼は見事にその任を果たした。一体こんな調査は、野外の調査はできるが、それを室内で纏め上げるのは甚だ困難なものだが、彼は見事に仕上げてくれた。[2]
 
試験場の労務員であるにもかかわず、研究レポートの取りまとめというデスクワークまで任せることができたのは、多忙な渡辺にとってうれしい驚きだっただろう。
 
ある日、試験研究の報告に場長室を訪れた峯二は、渡辺の背にあった本棚に目をやり、「『聖フランシス伝』を貸してくれませんか」と言った。
 
聖フランシスは「アッシジの貧者」と呼ばれる13世紀フランスの宗教家で、徹底した清貧を貫き、托鉢修道会を創設した。この書を貸してほしいと申し入れたのは多数の職員の中で峯二一人だったろう。読後感を交換する中から、二人の公私を超えた交友が始まる。
 

上湧別富美12町步 念願叶う

大正10(1921)年、大学生時代に相当するとした4年の修業期間が終わり、独立した開拓農民として峯二は上湧別富美原野に入植した。
 
上湧別富美、現在の湧別町富美は、中湧別市街と遠軽町社名淵を結ぶ道道336号線の中間にある丘陵地帯だ。『上湧別町史』(1975)で峯二は冨美について次のように紹介している。
 
私は大正七年に一度富美を訪れたことがあります。そしてまず目に留ったのは原野の様相でした。一帯に丘陵地で細流がその間を走っています。丘陵の北側は木が茂って密林を成していますが、南、東、西の三方は無立木地か落葉樹の疎林が多く、かややはぎ、ささの原野になっていました。
 
これはどうしてだろうか、という疑問を抱きました。あとでその疑問は自分なりに解きました。
 
それはこの地帯は先住民が狩猟で生きて来た証拠だということです。開墾のために山を焼くと鹿の角や熊の骨があらわれます。むかしは、それらの獣類を追って彼等はこのような原野を歩いたのでしょう。
 
そのためには春雪解けに原野に火を入れて、かややはぎ、ささなどを焼きはらい、歩きやすいようにしたものと思います。その時、北の斜面は残雪が燃えにくくそのまま残り、他の三方は乾燥で良く燃え、こんなことを何度か繰り返したことでこのような様相になったのであろうと考えました。
 
開墾鍬を打ち込むと矢じり、石斧などが出て来ました。それらも表土に浅く埋っているのを見ると何千、何万年前という古い時代のものでもなさそうだし、穴居群などあまりないところを見ると、住居したというより、湧別川を渡って狩猟に来てキャンプ程度に宿ったものが多かったものと思います。[3]
 
上湧別冨美は 明治41(1908)年に区画設定され、翌年から入植が始まったが、峯二が入植したのは、この時に対象外となった地域。大正7(1918)年に測量され、10年から改め貸し付けられた地区だ。第一次選定から漏れた谷地で条件は良くない。それでも念願の入植地を手に入れたのだ。峯二はその喜びを次のように記している。
 
大望の原始林生活、自分の土地へ鍬を打ち込む碑は何時到来するのだろう。それを運命づけるものは道庁よりの未開貸下げである。北海タイムスの未開地貸下げ公示を見ては幾度か願書を出したが、半年も1年も待たされた挙げ句、いずれも却下されてきた。
 
ある時は美幌の奥のポンキキンを出願して、その現地見聞のため美幌から現地に至り、そけから阿寒を過ぎて大楽毛まで三十里を草鞋ばきで踏破し、その足で札幌へ出て道庁へ請願したが、貸し下げられなかった。
 
幸いにも道庁植民課にそれまで一面識も無かったが、同じ前橋中学の先輩でかつ私の小学校時代の先生の知人がいたので、やっと念願叶って大正十年暮れに富美原野で十二町歩の未開地が貸し下げられた。大正十一年の年賀状に
 
今季4月から北見国上湧別村富美原野に入って開墾に親しみます。
緑の牧場、黒い畑、おおいかにわたしはあこがれたか
雪の荒野、原始の森、おお、そこに私は生きる。
 
と書いて、人々に出したほど勇躍したのである。[4]
 

上湧別チューリップ公園(出典①)

 

開墾予算1000万円

 
開拓地が決まると、峯二は開墾資金を確保するため「開墾着手計画書」をつくり、郷里に開墾費用の借り入を申し入れた。
 
作業予定としては入地最初は住居を整え、開墾地の伐木をなし、5月に入りて小作地に播付したり、開墾地を手墾しもっぱら播付し、8月から炭カマを築き、野乾草を刈り、11月から製炭や造材をして資金を得るなど、夢の予定は一面科学的にできた。こうした計画書によって父も叔父も一応は安心したことであったろう。[5]
 
農事試験場の経験を活かした峯二の計画書はきわめて精緻だった。計画書で開墾予算として6万800円が計上された。
 
北見地方の農家普通1カ年の経費(生活費並びに経営)約1000円であることを過般農家経済調査を命じられて農家を訪ね調査して分かっている。(渡道当初)私としてはたかだか350円をもって開墾地に飛び込もうとしたのである。[6]
 
女満別町史に大正10(1921)年の物価表があり[7]、そこに日雇人夫の1日の労賃が70円と記されている。今、土木建設の「普通作業員」の日給を1万2000円とすると、当時の1円は現在の171円になる。峯二の「開墾着手計画書」の開墾予算を表にしたものが次だ。峯二の予算を、先に紹介した明治33(1900)年
の『北海道移住案内』掲載の開墾予算と比較すると興味深い。
 

 
 
この計画に対して峯二の父は250円、叔父は200円を出資。そして知人から100円の支援があった。
 

峯二、聖クララを得る

 
入植の前に峯二は結婚することになった。端野屯田兵の娘である。
 
私は常々4年間の修行生活の間に自分の将来の農生活のためには三つの「マ」を必要と考えた。3つのマとは、アラヤマ、ツマ、ウマであった。アラヤマは求められた。次は妻と馬であるが、三つのマの第2のマが以外にも開墾地入地前に求められることになった。
 
野付牛近くの端野兵村からであった。野付牛の肥料商S氏の掘り出しによった。嫁の親も良く思いきったものだと思う。未開の原野、そこには未だ人家ひとつ無い。そして婿たる人物には豊富な資金も持ち合わせていないばかりではなく、手腕力量も未知数なのである。
 
結婚式や披露宴は、渡辺北見支場長御夫妻がわが子の事のように尽力してくださったので、どうやら世間体にも婿としての面目は保てたような次第であった。[9]
 
仲人を務めた渡辺侃支場長は峯二の結婚をこう振り返っている。
 
彼は、試験場にいる内に、宿望たる未開地開墾、農業経営を準備した。第1に土地を紋別郡上湧別富美原野に得た。第2に共働者たる細君を得た。これについてはかって彼の抱負をもらした挿話がある。
 
私の書斎から聖フランシス伝を借りて読んだ彼が、フランシスにも感心したろうが、フランシスを扶けるため門地を捨て出家して尼となった聖クララもなくてはならぬものだということである。
 
彼はそのクララを野付牛の隣村のT家から得た。そのクララははなはだ無口な人であり、自分の境遇が極端な荒野に進められる度に、悲しみの慰めのみではないだろうが、涙にくれたという人だが、いざ働くとなれば農家生まれで主人公以上に北海道農業に慣れており、立派に働き、おまけにたくさんの子どもを産み、甚だ失礼なことだが子供たちも小ザッパリさせねばいかぬと小生が注意したため、気の毒なほど御自分もも小ザッパリされたりする、典型的な農村女性であった。彼は確かにクララを得たのである。[10]
 
こうして関口峰二は夫人と二人で、上湧別富美原野に開拓の鍬を下ろすのである。
 

 

 


【引用出典】
[1][2][3][5][6][8][9][10]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部
[3]『上湧別町史』1979・上湧別町役場・432P
 
【写真出典】
①『渡辺侃還暦記念』1954・渡辺侃還暦記念出版会・口絵
②北海道無料写真素材集 DO PHOTO http://photo.hokkaido-blog.com/
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。