第2章 アイヌ民族によるアイヌ観光の創出
■明治天皇に続き皇族が続々と白老に
明治天皇の行幸によって白老アイヌは広く知られるところになり、白老コタンには皇族方も視察に訪れるようになった。『白老町史』から戦前分だけを拾っても次のようになる(下巻21p)。
- 明治44年8月 大正天皇陛下が皇太子殿下の時、本道ご旅行の際、特にアイヌ人の教育状況のご視察をお考えになって田内侍従を第二小学校へお遣わしになった。
- 大正7年8月 閑院宮載仁親王殿下ならびに同妃殿下、白老村、白老駅ご通過の際、アイヌ民族が古来から使用している器具類を陳列をご覧になった。
- 昭和7年8月22日 澄宮王殿下がご視察
- 昭和9年4月12日 北白川永久王殿下がご視察
- 昭和11年4月8日 李糾公殿下がご視察
- 昭和11年9月19日 朝香宮鳩彦王殿下がご視察
- 昭和11年10月 東久邇宮稔彦王殿下がご視察
- 昭和13年 朝香宮湛子女王殿下がご視察。考館で満岡伸一(郵便局長)の案内でアイヌ民族の宝物、風俗などのご説明をお聞きとりになった。井高良子、太田スエの両人介添役として奉仕した。[1]
朝香宮の白老アイヌコタン視察(出典①)
以降、白老には続綿と内外の視察者、研究者が訪れるようになり、郵便局長の満岡伸一の他、熊坂迩之丞(シクッピリ)・野村エカシトク・只沢藤蔵・宮本伊之助(エカシトク)ら白老アイヌの長老たちが案内と説明にあたったという。
■満岡夫妻、アイヌ文化の保護と発信に尽力
満岡伸一(出典②)
余、固より浅学、口の人に非ず、筆の人に非ず、渡道約30年、常にアイヌに接する機会を有せしと云うに止まり、研究的に調査したものに非ず。ただ幼時より目撃しアイヌの実生活を平面的に記述せしめ、内地人に同化され、アイヌ古来の特殊の風俗習慣は日に月に廃れ、今後数年ねらずして全くその足跡をも存ぜらるに至らんとするを惜しみ、後日自家の参考ともたらんと順席もなく筆話し置ける[2](満岡伸一『アイヌの足跡』第5版・1934)
と述べている。1923(大正12)年に初版が出版され、実に戦後の1987(昭和62)年まで出版され続けた大ベストセラーとなった。1926(大正15)年には東京放送を通じて30分間の「アイヌの話」という放送講演をするなど、アイヌ文化のインタープリターとして全国的に活躍した(『新白老町史』452p)。満岡は、コタンへ積極的に出向き、生活支援を行ったことでアイヌから高い信望を得ていた。自ら望んで同化を選ぶアイヌが多い中で、アイヌ文化を保護し、その魅力を広く伝えたのである。
満岡照子(出典③)
北海道旅行ついでに満岡夫妻を訪ねに白老に足を伸ばす文人墨客も多く、1931(昭和6)年6月には与謝野晶子、与謝野鉄幹の夫妻が白老を訪ね、歌会が開かれた。この他、若山牧水、斎藤茂吉といった人たちも白老の満岡家を訪ねている。夫妻は遠来の客が来るとすすんでアイヌコタンを案内し、東京中央の文化人にアイヌ文化の価値を伝えた。
■アイヌ観光市場を開拓した野村エカシトク
大正に入ると、要人対応にあたっていたアイヌ長老格の次の世代が、ビジネスとして観光に乗り出していった。中でも宮本エカシトクは「アイヌ記念館」をつくり、伝来の宝物を集めて展示した。これが北海道におけるアイヌ観光の出発であるという。
白老アイヌの近代史を研究した西谷内博美氏は『白老における「アイヌ民族の変容」 イオマンテにみる神官機能の系譜』で、昭和初期のアイヌ観光の模様を次のように紹介している。
野村エカシトクはなかなか商売気があったようで、昭和12(1937)年の新聞に、71歳にして「コタン唯一の陳列館」を経営している様子が記されている。「器具を見せながら・・・伝説的な話を面白く説明」し、道具を見せると1円、写真を撮ると2円は出さないといい顔をしないとある。
そして野村エカシトクと熊坂シタツピレは客をめぐって競い合っていた。森久吉によると、満岡がもともとは野村エカシトクに客を引き合わせていたが、熊坂シタッピレのところに連れて行くようになり「お互いに仲違いが生じた」。「どうもすると視察者の争奪戦が駅頭に始ま」ったという。
次いで宮本エカシトクが観光ビジネスに参戦すると、彼は熊狩りの名人で熊猟の経験が豊富であり、また「話も上手で人気も高まり、ますます観光客も増加した」という。熊狩りと言えば、熊坂シタッピレと宮本エカシトクは「白老の二名人」と言われるほどであるから、観光イオマンテをめぐっても両者はしのぎを削っていたことが想像される。[3]
このようにしてアイヌ民族による市場競争の中でアイヌ観光は産業として立ち上がっていったのである。
■白老コタン、北海道を代表する観光地に
1955(昭和30)年に国鉄が「周遊券」を発売する。区間内ならばどこでも乗り降り自由な乗車券は、「カニ族」と呼ばれる若者の心をつかみ、北一大北海道観光ブームが起きた。なかでも白老アイヌコタンは高い人気を集めた。
賑わう旧「白老アイヌコタン」(出典④)
アイヌ観光の急成長とともにさまざまな問題も発生していく。アイヌによって始められたコタンだったが、観光がビッグビジネスになっていくと、やはりと言うべきか、アイヌを押しのけて、アイヌ民族に属しない業者が幅を利かせるようになる。
客の顔を見て不当に値段をつり上げる者や、送料を受け取ったのに品物を送らないなど、悪徳業者も現れた。白老アイヌコタンは市街中心にあり、葦でつくられたチセは老朽化が進み、観光客がひしめく中、火災などの事故がいつ起こっても不思議ではなかった。
こうした状況を強く憂いていたのが、当時の町村金五北海道知事だった。知事は「改善が見られなければ、道が推薦する観光コースから外す」と強い姿勢で、白老町に渡って改善を求めた。
この時、アイヌコタンを景勝地として知られていたポロト湖畔に移転させることが抜本的な解決策であることは誰もが思っていたことだった。白老のアイヌコタンは1889(明治22)年に給付された「旧土人給与地」から発展したもので、地権は複雑にからみあい、観光土産物屋の営業権、民族の違いが重なり、手の着け難い固い糸玉となっていた。それだけにアイヌコタンの移転は現実性は薄いと見られていた。
ここに登場するのが、白老の初代民選町長、浅利義市である。
彼こそ北海道で最も貧しいと言われた白老を「北海道の元気まち」に生まれ変わらせた名町長だ。浅利義市は、1963(昭和38)年からわずか2年で、ポロトコタンの造成とアイヌコタンの移転という大事業を成し遂げたのだ。ポロトコタンこそウポポイの前身である。
【参考文献】
[1][2]『新白老町史』1992・白老町
[2]満岡伸一『アイヌの足跡』第5版・1934
[3]西谷内博美『白老における「アイヌ民族」の変容──イオマンテにみる神官機能の系譜──」2018・東信堂
【写真図版出典】
①『新白老町史』1992・白老町「朝香宮殿下ご視察」
②③ 郷土資料デジタルアーカイブ化等事業編集委員会『白老人物伝』白老町教育委員会生涯学習課
④『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会