北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 1 】 
第1章 明治天皇の北海道開拓 1

北海道開拓は明治天皇のご意志だった

5年目に入った「北海道開拓倶楽部」では、これまでのまとめとして「北海道民の歴史」と題して明治から現代にいたる北海道開拓の歴史の連載を開始します。世界で北海道ほど雪の降るところ、気温の下がるところはありますが、北海道ほど雪が降り、温度の下がるところは希です。しかも数百万の人口を抱えた地域は唯一無二です。この北海道がどのようにして開拓されていったのか。どんな人々のどんなドラマがあったのか。道民視点に立った「物語」として連載していきます。

 

明治初年の明治天皇①

 

■蝦夷地開拓の勅問

北海道開拓は慶応四(一八六八)年三月九日に明治天皇のご意志によって始まりました。
 
もちろん、北海道の開拓は蝦夷地と呼ばれた江戸時代から始まっていました。松前藩の取り組み、二度にわたる幕府直轄下で行われた努力は決して忘れてはならないものです。そして、欧米の脅威が北から迫る中、誰の発令であろうと北海道開拓は日本の独立のために必ず行わなければならないものでした。
 
それでも、現在の北海道、五二〇万道民が暮らすこの大地が今の姿になった起点を求めると、慶応四年三月九日、明治天皇が三職に下された「蝦夷地開拓ノ可否」の勅問となるでしょう。「問い」の形をとっていますが、明治天皇のご意志による北海道開拓の開始宣言に他なりません。さらに天皇は翌日、三職に対して「蝦夷地開拓之議」について三月十二日までに建策するように命じています。[1]
 
三職とは、発足したばかりの明治政府の最高首脳です。この時、総理大臣に当たる総裁は有栖川宮熾仁親王。主要閣僚にあたる議定は岩倉具視、三条実美などが就いていました。参与は総裁・議定を支える重臣で、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など維新の功労者が並びます。三月十日の時点で七七名が三職に名を連ねていましたが、東征大総督であった総裁の熾仁親王をはじめ戊辰戦争に従軍して京を離れている者も多く、この日は三十五名が参内したと伝えられます。[2]
 

北海道開拓の勅問とパークス襲撃事件を伝える
『新聞集成明治編年史』②
左には「一人殺さるれば千人を殺せよ 英公使襲撃に外人極度に憤慨」
との記事がありますが、
この頃の在日欧米人はアジア人に対して優越意識が強く、
公使襲撃受け、このような声が上がっていたと伝えるものです

 

■外国公使の朝見

北海道開拓の開始宣言がなされた慶応四年三月九日は、どういった日であったのでしょうか。簡単に維新史を振り返ります。
 
慶応三(一八六七)年、大政奉還・王政復古によって江戸幕府は終了しました。しかし、新政権での徳川宗家のあり方をめぐって薩長側と旧幕側が対立。慶応四(一八六八)年一月三日、京都郊外で鳥羽伏見の戦いが起こりました。六日、旧幕軍が敗退すると徳川慶喜は大阪から江戸へ逃走。七日、京都御所に在京諸侯が集められ、慶喜征伐の令が発せられるとともに、諸侯はどちらに付くか態度表明を迫られます。
 
一方、江戸に戻った慶喜は、徹底抗戦派を抑えて朝廷への恭順を示します。朝廷では徳川に対する強硬派と容赦派が意見を戦わせていましたが、二月三日、明治天皇はついに徳川討伐の令を発するのです。
 
熾仁親王を東征大総督とする東征軍が京都を出発したのは二月十五日。東征軍は徳川慶喜の投降を促すようにゆっくりと東海道を進み、三月五日に駿府城へ入りました。そして三月十五日を期して江戸に向けて進軍すると宣言したのです。
 
明治新政府が刻々と国内掌握を進める中、なお残された課題がありました。それは徳川幕府に替わる明治天皇を頂点に戴く日本の新しい政体を国際社会に承認させることです。明治維新が黒船の脅威から始まったことを思えば、これは江戸城開城よりも重大事でした。
 
慶応四年一月十五日に明治天皇の「元服の儀」が行われ、これを機にフランス、アメリカ、イギリス、オランダ、プロシア、イタリアの各公使に国書が交付されましたが、その反応は確認されていません。二月三日に新政府の機構整備で行政庁として外務省の前身である外国事務局が設置されると、外国公使を朝見をさせるべきだとの議論が起こります。
 
戊辰戦争の最中であり、かつ外国公使と朝見は日本の歴史になかったことです。議論は噴出しましたが、二月十五日に公使を京都御所に呼び出して紫宸殿で朝見を行うことで決しました。[3]
 

■堺事件の衝撃

ところがこの日の夕刻、朝廷を震撼させる大事件が起こります。境港に上陸した一七人のフランス兵と土佐藩士が交戦してフランス兵十余名が殺傷されたのです(堺事件)。明治政府として初めての公使朝見の準備を進めていたさなかの事件に朝廷は当惑し、凶行に及んだ土佐藩士の全員処刑、一五万ドル賠償金などフランスが示した五条件を丸呑みして許しを得ました。
 
土佐藩士の箕浦猪之吉ら二〇名は堺妙国寺で切腹をしますが、立ち会ったフランス海軍指揮官は、切腹の壮絶な場面を直視することができず、十一人まで進んだところで止めるように求めたといいます。実際にはどういうことが起こったのでしょうか?
 
鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗走すると、関西地方は大混乱状態に陥りました。そこで朝廷は急遽薩摩藩に大阪、長州に兵庫、土佐藩に堺を警備するよう命じます。そして鳥羽伏見の戦いが勃発。英、仏、米の欧米列強は艦隊を大阪湾に差し向けました。
 
二月二十五日、大阪に上陸したフランス兵の中に堺に入ろうとする者がおりました。土佐藩の守備隊は証明書の提示を求めましたが、返事は曖昧。堺は開港地ではありません。どこからもフランス兵について指示がなかったため、守備隊は堺への通行を拒否しました。
 
この日の夕方に事件が起きます。大阪湾に停泊していたフランス軍艦から兵員を載せたボートが出発し、上陸するやいなや寺社に乱入して霊前を汚し、商店では物品を掠奪、婦女を襲うなどの蛮行に及んだのです。
 
土佐藩守備隊が出動するとフランス兵は逃げ出しました。二人のフランス兵を捕らえましたが、言葉が通じません。隙をみた一人が抜け出して土佐の軍旗を奪って逃走。どうにか奪い返しましたが、フランス兵はボートから銃を乱射してきました。事件は、これ対して土佐守備隊が一斉射撃で応戦したというものです。
 
切腹を命じられた藩士の無念はいかばかりであったでしょう。隊長の箕浦猪之吉は、十字に腹を切り裂いたばかりか、両手を腹部に入れ、臓物を引きずり出して立ち会いのフランス人に投げつけたといいます[4]。
 

堺事件を伝える仏紙『ルモンド』挿絵④
フランスメディアなので日本が悪く描かれている
本国での注目を集めた事件であったことが分かる

 

■パークス襲撃事件

そして、二月三十日にはイギリス公使パークスの襲撃事件が起こります。
 
堺事件という混乱はありましたが、明治新政府にとって最初の外交行事、明治天皇と諸外国大使との朝見は二月三十日となり、フランス公使レオン・ロッシ、オランダ代理公使フォンボルスブロック、イギリス公使ハリー・パークスが京都御所に参朝することとなりました。
 
朝見の三十日、パークス一行と日本側護衛が宿泊旅館を離れて二〜三間、突然二人(山城国人・朱雀操/大和国人・三枝蓊)の暴漢が両側の家屋より飛び出し、公使一行を襲いました。随行の中井幸蔵(薩摩藩士)は馬を飛び降りて防戦、躓いて倒れたところで頭に刃を受けました。
 
パークスの傍にいた後藤象二郎(土佐藩士)は、中井が危ないとみるや駆けつけて朱雀を一刀のもとに切り捨てました。もう一人の三枝も警護隊に撃退されて捕らわれます。しかし、この襲撃でパークスは軽症を負い、朝見を止めて引き返してしまうのです。
 
後藤象二郎がその足で御所に報告すると「朝堂驚然置く所を知らず」。
 
天皇は、外国事務局の局監晃親王、同輔東久世道禮ら全幹部を公使宿泊先に差し遣わし、慰問の聖旨を伝えさせました。翌三月一日には正式な詫び状を英国公使に提出。これを持参した三条実美、岩倉具視らはパークスに犯人の極刑を申し述べるとともに、外国人に対して乱暴を働くものに厳罰を下すことを約束しました。全国の諸大名も使者を差し向けました。
 
このような日本側の対応にパースは満足して三月三日に改めて朝見を行うこととなりました。生き残った三枝蓊が斬首されたのはこの翌日です。公使朝見について、外国人を禁裏に入らせること、まして天顔を拝ませることは天威の冒涜である、とする攘夷派は少なくなかったといいます。[5]
 
パークス襲撃事件がどうにか収まった翌五日、東征大総督・織仁親王は徳川宗家ゆかりの駿府城に入ります。これは公使朝見によって明治政府が列強から信認を得たことを受けての徳川に対する「王手」への一手でした。
 
三月六日、織仁親王が「十五日をもって江戸に攻め上がる」と最後通牒を発すると、七日に徳川慶喜の謝罪状が輪王寺宮によって駿府にもたらされました。明治天皇は、これにより徳川宗家との抗争は山を超えたと判断されたのでしょう。三月八日、畝傍山の神武天皇陵に国家の安泰を祈る使者をお遣わしになる儀式に臨まれました。
 
そして三月九日、文武百官を二条城に集めて「蝦夷地開拓の勅問」が下されるのです。
 

聖徳記念絵画館所蔵『各国公使召見』⑤

 
 

■開拓勅問と五箇条の御誓文

明治維新のクライマックスに行われた勅問の場は、次のようなものだったと『明治天皇紀』(1968)は伝えます。
 

九日、葱華輦《そうかれん=天子の車》に御し、辰の刻、御出盤。太政官代(二条城)に幸す。諸藩主等供奉す。准后、女房等と被衣を著け、掖門(道喜門)御拝所に出でて奉送せらる。巳の刻前、二条城に著御。次いで御座間(白書院)に出御。副総裁以下議定・参与を召し、蝦夷開拓の可否を諮詢あらせらる。諸臣皆開拓の儀を賛す。議訖《おわ》るや、勅して其の努を犒《ねぎら》ひ、黒書院に於て酒餞を賜ひ、又諸臣の騎乗を麗しく叡覧あり。甲の刻過ぎ、天機麗しく還幸あらせらる。[6]

 
午前八時頃、諸侯と共に御所を出発された明治天皇は午前一〇時頃に二条城に到着され、白書院に居並ぶ副総裁以下議定・参与に対して「蝦夷地を開拓すべきか」と御下問なされました。一同がぜひ開拓すべきだと賛同すると、明治天皇はことのほかお喜びになり、祝宴が開かれました。諸臣の余興などをご覧になり、午後四時頃に機嫌麗しく御所にお戻りになりました。
 
北海道開拓の議事のためだけに、ご出立から審議、宴席を挟んだお戻りまで、フルサイズの格式と日程をこの案件だけに当てているところに、ことの重要さがうかがえます。
 
三月十四日には「五箇条の御誓文」が行われます。北海道開拓が明治天皇のご命令ではなく、百官を集めての御下問となったのも、広く建策を求めたのも、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛んに経綸を行うべし」という御誓文を意識したものでしょう。若干の前後はありますが、北海道開拓は「五箇条の御誓文」に則った最初の施策ということができそうです。
 
さて明治天皇は、嘉永五年九月二十二日(一八五二年十一月三日)に京都で生誕され、ほとんど畿内から出ること無く成長されました。このとき数えで御年一七歳。いつどうやって蝦夷地と呼ばれていた北海道の状況を知り、その開拓を急務とお考えになったのでしょうか?
 
命を賭して北方の危機を明治天皇に伝えた人物がいました。徳島阿波国出身の志士・岡本監輔。彼が侍従の清水谷公に北方の危機を説いたことが、明治天皇のお心に届いたのです。
 
岡本監輔は何を言ったのか? 
 
北海道開拓を語る前に、江戸時代の蝦夷地に戻ります。
 

蝦夷地開拓の勅問が下された二条城白書院⑥

 

 


【脚注】
[1]『新北海道史 第3巻 通説 2』(北海道・8p・1971)
[2]同・9p
[3]宮内庁編『明治天皇紀 第1』(吉川弘文館・624ー627p・1968)
[4]堺事件の記述に関しては、高知市で発行された武市佐吉郎編『明治戊辰戦役泉洲堺事件 殉難烈士七拾周年祭典念』(殉難烈士七拾周年祭典念会・1938)によった。
[5]②パークス襲撃事件については、『明治天皇紀第1』の他、新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第1巻』(財政経済学会・ 1936)掲載の「3・7中外新聞」(20p)「三月下旬・万国新聞紙第1」(28p)、平野晨『明治大正昭和 歴史資料全集 暗殺編』(有恒社・1932)掲載の「英公使襲撃事件」(17−20p)を総合した。
[6]宮内庁編『明治天皇紀 第1』(吉川弘文館・644p・1968)
①④wikipedia.org
⑤ジャパンアーカイブス https://jaa2100.org/entry/detail/045326.html
⑥国指定文化財等データベース 
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1706

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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