北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

一級・二級町村制

 

先に開拓期の行政組織として戸長役場を紹介しましたが、まちが発展していくと町村制がしかれます。この町村は一級と二級に分かれました。この一級・二級町村制は開拓期の北海道だけに設けられたものです。どのようなものだったのでしょうか

 

■北海道独自の町村制度

現在の市町村制度の出発点となる地方制度は、明治22(1889)年の明治憲法発布と前後して制定された府県制、群制、市町村制です。欧米の制度、とくにドイツの制度を取り入れたもので、性別や納税額等による制限がありましたが、住民意見を行政に反映する議会が設けられ、市町村長は住民代表による議会によって選ばれました。
 
ところが北海道は、時期尚早として「本法ハ北海道ソノ他勅令ヲ以テ指定スル島嶼ハ之ヲ施行セス」と対象から外されました。衆議院・貴族院議員選挙法が公布されたときも施行されませんでした。
 
その代わり明治30(1897)年、北海道独自の地方制度を設けます。これが北海道一級・二級町村制度です。府県の市に相当するところを「区」とし、町村に相当するところを「一級町村」、発展途上のところを「二級町村」としました。さらに、これにもいたらないところは戸長役場を残すこととしました。
 
二級から始まり一級へ昇格するようなイメージで捉えられますが、村の程度の人口規模しかないところであっても、歴史のある道南には最初から「一級村」に指定されたまちがありました。あくまでも本州のまちと比べて遜色のないコミュニティを持つかどうかが基準でした。
 
この一級・二級町村制度も制定からすぐに実施されたのではなく、まず明治32(1899)年に札幌、函館、小樽に区制がしかれ、明治33(1900)年に亀田郡大野村ほか道南の15町村に一級町村制がしかれました。この時、二級町村制はの実施は「時期尚早」として見送られ、ようやく明治35(1902)年からの実施となります。
 
明治35(1902)年に二級町村制がしかれたのは全道で63カ町村にすぎず、明治39(1906)年にようやく135カ町村に増加しましたが、札幌周辺や日本海沿岸、渡島半島に集中し、道東、道北地方は海岸部にわずかにあるだけでした。内陸部には、二級町村制も施行されず、戸長制度が廃止される大正12(1923)年まで戸長役場のままというところもありました。[1]
 

■一級町村と二級町村

この二級町村ですが、『知内町史』によれば
 
この二級町村制における町村の性格は一級町村と同じ法人であり、町村住民の権利義務も一級町村制と同等であるが公民の制(注:衆参議員の選挙権)は設けられなかった。
 
町村吏員は有給とし、町村長、収入役は各一名、書記の定員は長官が決めた。町村長の任免は長官、収入役は町村会推薦の者を支庁長が任命し、助役はなく上席書記がこれにあたり、書記の任命および町村長の命を受けた部落内の事務を補助する部落部長(名誉職)の任命は支庁長が行った。
 
そして二級町村では町村長・書記とも給料および旅費は北海道地方費から支出され町村経費の負担軽減が図られたのである。[2]
 
と、経費が道から支出される代わりに役職者の任命権をもたない自治体でした。
 
これに対して北海道の一級町村の町村長は、住民から選ばれた議会である町村会によって選出されました。助役も町村長が推薦した者を町村会が任命しました。また二級町村の住民には、国政選挙に参加する公民権が与えられていなかったことも大きな違いです。
 
実際にこんなことも多々あったようです。『北檜山町史』です。
 
二級町村の首長は官選であるから、住民の意志に関係なく任命される。小林與作という人の残した「村政備忘録」という文書綴の中には、新たに任命された村長は、前に村の駐在巡査であった時も住民に信用がなかったし、前任地でも評判が悪かったと聞いているから、ほかの適当な人を村長にしてほしい。という請願書の写しがとじこまれている。何名かの村会議員の請願を道庁はとりあげてくれなかったらしく、村長の更迭は行なわれていない。[3]
 
町村長はもとより、幹部職員である書記も支庁長の任命ですから、二級町村の実体は戸長役場同様に支庁の出先機関だったのです。
 

■住民自治を求めて

一級町村の中に「部」や「区」を設置することができました。部長や区長には選挙制が取られました。開拓地のまちは、宮城県の入植団、福島県の入植団などと複数の入植団によって成り立っていますが、「部」や「区」の設置は、ルーツを同じくする人たちで自治組織を維持したいと求めに応えるもので、開拓時代は重大な関心事でした。
 
このように、議会としての町村会があり、首長として町村長が選ばれ、役場機構が設けられる点は一級も二級も同じですが、〝自治〟という面では大きな違いがありました。『美瑛町史』はこう述べています。
 
村会はもちろん、村財政の全般にわたり審議票決の権限をもつものではあるが村長の職務権限が頗る強く、村会の制約を受けて、自己の意見を拘束されないのみか、場合によっては、これを解散する自由をさえ有っていた。
 
それが一級村制になってからは、村長は村会の任命するところとなり立場は全く逆になった。村会は民選の議員によって組織される。その村会が村長を任免する。そして村会の議決したものを村長が執行するのであるから、村政は住民自らの行う政治で、これで漸く本筋の自治制が確立せられたわけになる。[4]
 
北海道のまちは入植者が原生林を切り拓きゼロからつくったものですから、開拓の試練を乗り越えた住民の〝おれたちのまち〟という意識はことさら強かったのです。そのため一級町村となって自らの代表によってまちが運営できることの想いは、今の私たちの想像以上のものがありました。
 

常呂村第1回村会議員と常呂村会議場 大正4年 (常呂町)①

 

■二級町村の議会

二級町村にも議会(町村会)はありましたが、一級町村と比べると権限は大きく制約されていました。『知内町史』によると
 
任期は二年で全員同時改選であった。議決事項では一級町村のように条例を制定する権限はなく、規則を制定する(道庁長官の許可が必要)だけのほか町村費をもって支弁するとか、町村積立金穀(金品)の処分、町村の営造物管理方法を定めるなどの規定をもたなかった。
 
また簡易な議件は書面会議(書面の持回り)によって議決するというやり方をとった。この場合、議員の三分の二以上の同意が必要とされた。
 
さらに道庁長官は町村長以下の任免権を握って監督を厳しくするのはもとより、町村会議や議決事項の取り消しもでき、たとえその取り消しが不服であっても町村会は訴願することさえできなかった。[5]
 
一方、一級町村になると、町村会のなかに、勧業、土木、衛生等の事務について町村長の執行を補助し、諮問する常設委員会を置くことができました。
 
現在の町村議会の役割は〝チェック機能〟で行政の主体は役場ですが、開拓時代の町村はまさに町村会がまちの立法府、まちの意志決定機関でした。一級町村に常設委員会設置が認められていたいのは、まちづくりの中心である町村会の機能を強化するためです。
 
町村長を住民が直接選べない、町村会議員の互選によって選ばれると聞くと、自治制としては今よりも後退しているように思われますが、住民が主体的にまちづくりを担うという点では開拓時代の一級町村制の町村の方がずっと住民自治でした。
 

■町村会の選挙資格

町村会はまちづくりの主体であり、〝立法府〟の機能も担うものでしたから、この町村会議員になるためのは選挙権には制限が設けられていました。以下は二級町村の町村会議員の立候補資格です。一級町村は、成員が資本を持ち寄って立ち上げた株式会社に近く、議員も株主や取締役のような存在でした。それゆえまちの運営するにたる責任能力が次のようなかたちで求められたのです。
 
・帝国臣民にして公権を有する独立の男子で1年以来町村内に住居
・町村内に地租年額10銭以上を納めるか
 または直接国税、北海道水産税両者の合計おいて年額50銭以上を納めるか、
 または耕地1歩町歩、もしくは宅地100坪以上を所有するか
 または総納税人の町村税平均額以上の町村税を納める者 [6]
 
住民自治がより認められた1級町村になると次のように要件が引き上げられます。
 
住居制限の「1年以来」が「3年以来」になった。「地租年額10銭以上」が「40銭以上」に、「直接国税道水産税及両者合計において年額50銭以上」が「2円以上」に、「耕地1町歩以上」が「3町歩以上」に引き上げられたが、これらは制限選挙を建前とする当時の立法の精神よりすれば、それだけ住民も定着し、また資力も大きくなったことを意味するもので祝福されねばならぬことであった。[7](美瑛町史)
 
戦後、これらの制限がなくなり男女に普通選挙権が認められ、町村長も住民が直接選挙で選ぶことができるようになったことを戦後民主主義の大きな前進と語られますが、その一方で町村議会は〝立法府〟としての地位を失い、役場行政の承認機関に堕ちてしまったのです。
 


【引用参照出典】
[1]『知内町史』1986・知内町・269-270p
[2]同上270-271p
[3]『北檜山町史』1981・北檜山町・134p
[4]『美瑛町史』1957・美瑛町・138-139p
[5]『知内町史』1986・知内町・271p
[6]同上
[7]『美瑛町史』1957・美瑛町・139p
 ①北見市立図書館・北方資料デジタルライブラリー http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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