ハポ(お母さん)と呼ばれたアイヌコタンの創設者
釧路市阿寒町 前田 光子
前田光子(出典①)
「阿寒湖アイヌコタン」と言えば、西の白老ポロトコタンとならぶ北海道を代表するアイヌコタンだ。北海道で唯一の国の無形民俗文化財であるアイヌ舞踊を保存する。ここを拠点に活動するユーカラ座はアイヌ民族として初めてパリ・ユネスコ本部で世界公演を成功させた。戦後のアイヌ民族復興の拠点でありづ続けた。前田一歩園2代目園主、前田光子は阿寒のアイヌに母と呼ばれた「阿寒湖アイヌコタン」の創設に多大な貢献をした人物である。
■伐る山から観る山にすべき──前田正名
前田正名(出典②)
帰国後、山梨県知事、商務次官などを歴任。官を離れてからは、東京麻布の所有地を売り払い、全国を行脚して、産業経済論、外国貿易論を説き、全国で産業団体の組織化を働きかけた。
北海道開拓に対する関心も高く、1899(明治32)年には釧路に前田製紙会社をつくり、北海道の製紙業の先駆けとなった。
こうして道東に拠点をもった前田正名は、阿寒湖周辺の払い下げを受けて開拓を進めるのだが、はじめて湖畔に立ったとき、そのあまりの美しさに「この山は、伐る山から観る山にすべきである」と思い直し、開発から保護に転じた。
「一歩」という名称は阿寒湖周辺の払い下げを受けたとき、「一歩一歩」堅実に開拓を実行していこうという思いを込めて農園に「一歩園」と名付けたことに由来する。
■タカラジェンヌ 前田光子 前田一歩財団創設
前田光子(左)と前田正次(右) (出典③)
正次は1957(昭和32)年に亡くなる。妻である光子に「私が死んでも阿寒の自然をいつまでも守ってくれよ」と言い残したという。
正次の死去により前田光子が前田一歩園の3代目園主となった。光子は宝塚歌劇団でタカラジェンヌとして活躍したこともある美しい女性で、前田正次とともに21年、その後、園主となって26年、実に47年に渡って阿寒湖の発展に尽した。前田光子が設立したのが「前田一歩財団」である。
■光子 アイヌコタンを創設
阿寒アイヌコタン(出典④)
前田光子は、アイヌの人たちの貧しい暮らしに心を痛め、1959(昭和34)年、阿寒湖畔の前田一歩園所有地を無償で提供し、分散していたアイヌの人たちの結集を呼びかけた。そして中央に各種行事のできる広場をつくり、「アイヌコタン」としての姿を整えた。さらに共同作業場を設置して、民芸品を製造販売することで生計を立てるように支援したのである。
前田光子は、何つけてアイヌの人々の面倒を見た。阿寒湖畔のアイヌの人たちは光子を「ハポ(お母さん)」と呼んで慕いた。アイヌコタンで開かれる忘年会には、光子自身も参加し、宝塚時代に戻って、普段は人に聞かせない「すみれの花咲く頃」を唄い、ピアノの演奏をしたという。
『阿寒町史』はこう記している。
湖畔には現在36戸のアイヌの人たちが居住しているが、この人たちの生活安定、文化の向上等には、光子の心からなる愛情と物心両面にわたる絶大な協力があった。
■アイヌ初の世界公演を支援
1968(昭和43)年、アイヌ民族保存会が設立された。ここを拠点に伝承文学であるユーカラが演劇化され、フランスのパリで上演されるほどの評価を得た。この影には、かつて宝塚のスターだった前田光子の援助と指導があったことは言うまでもない。
現在の「阿寒アイヌコタン」のホームページにこのことについて一言もないが、阿寒のアイヌコタンから始まったアイヌの現代舞踊は、2020年4月オープンの「ウポポイ(民族象徴空間)」の呼び物になるに違いない。
そのルーツには、元タカタジャンヌ前田光子の貢献があった。光子がいなければ、今日私たちが感動するアイヌの演劇、民芸は違ったものだっただろう。
とはいえ、光子は阿寒湖の開拓功労者、初代前田正名の遺訓を忠実に守っただけなのかもしれない。
「阿寒アイヌコタン」が開かれた翌年の1960(昭和35)年2月、前田正名の功績を称える胸像が健立された。そこには正名の次の詩が刻まれていた。
後の世の 春を頼みて植えおきし
人のこころの さくらぞ見る
阿寒マリモ祭り(出典⑤)
【参考】
・『阿寒町史』1986・阿寒町役場
・一般財団法人前田一歩園ホームページ https://www.ippoen.or.jp
・阿寒湖温泉アイヌ文化推進実行委員会『神々と共に生きる アイヌ文化遺産』ホームページトップ>阿寒の母 前田光子 https://www.akanainu.jp/culture/maeda_mitsuko/
【写真図版出典】
機構
①②一般財団法人前田一歩園ホームページ https://www.ippoen.or.jp
③『阿寒町史』1986・阿寒町役場
④⑤(一社)釧路観光コンベンション協会とNPO法人阿寒観光協会まちづくり推進