北海道開拓の先駆者 2019/11/30
鹿追コタンⅡ アイヌの人達に教えられ、助けられたことは忘れてなるまい


■3人のアイヌは雨が降ると遊びに来た
更に、明治四十三年両親に連れられ下鹿追に入殖した、明治二十七年生れの、山田森はアイヌとの親交について次のように語った。
私の知っているアイヌの人はヨモンコフ、ストンコロン及びカケメクルの三人で、雨がふると、遊びに来た。アイヌの人といっても友達みたいなもので、イナキビのドブ酒が欲しさに魚の焼き干しを持ってくるのはいつもエモンコフだった。
鮭をとる方法は柳の細い木で作った罠を仕かけて、産卵に上ってきた魚がこの罠の上に来ると、その重さで、玉石を入れた石油缶が、ガランガランとなるような仕かけになっていた。この石油缶が鳴ると出かけていって魚をとってくるという方法であった。
この内の一人エモンコフは、今の林さん宅のすぐ南隣りくらいなところに住んでおり、あとの二人はどこに家があったものかわからなかった。この付近にはアイヌの人の住居跡らしいドスナラの木の柱の根がプラオ先で堀り起されたり、土がめの破片や、タシロと称する刃ものなども出土したことがある。兎を捕るには罠にかかると吊り上がるような仕組になっていた。[1]

入植当時の山田森家(出典①)
■アイヌは入植者の狩猟も手伝った
角田誠は然別湖のアイヌの人について次のように語った、
上川郡人舞村、今の清水町の上川橋のたもとの南側に山舛(本名は増田といったが通称屋号のヤママスで呼んでいた)という人が立派な家で暮らしていた。この人が毎年季節になると鉄砲をもって然別湖へ上っていく、行きは徒歩で、今の白雲橋のところで鉄砲を打つと、アイヌの人が丸木舟をあやつって迎えに来るのだった。これに乗って対岸に若き、オショロコマなどの漁をして、帰りには音更湾をまわりカモなどを繋ちながら、途中二泊くらいして帰ったものだ。[2]
■アイヌは開拓小屋を突然訪れた
また、下鹿追の古老平野治吉は次のように語った。
大正二年に本町字ポロナイの然別川沿岸に移住したが、以前は清水町上熊牛に居住していた。現在は下鹿追中央区の然別川沿岸に居住している。現在地に住みついたのは、大正六年であった。
その年の暮れの頃、寒い雪の夜だった。開拓小屋のむしろの戸を押しわけて入って来たのはビックリするような一人の大男、顔中ひげだらけ、まぎれもなきアイヌの人であった。
用件は「マッチを二、三本恵んで下さい」というのだ。聞けば「然別川の沿岸に仮小屋が設けられており、この小屋に泊りがけで鮭などを漁に来たのだったが、あいにくマッチを忘れてきて困っていたのだ。足には鮭の皮で作った足袋をはいていた。鮭の皮は火に弱いので、とくに足だけは炉から遠ざけて暖をとっていたことを思い出す。マッチや餅などを与えて帰したことを記憶している。[3]
マッチがほしいと平野治吉さんの小屋を訪れたアイヌは、相手がニュージーランドやオーストラリアの白人入植だったら、間違いなくその場で撃ち殺されたことでしょう。しかし、北海道の開拓者はマッチを渡しただけなく、暖を取らせせた上、おそらく自分たちもなかなか食べられなかったであろう餅まで持たせたのです。
■アイヌはポンシャモに小遣いを与えた
更に平野古老は清水町の上熊牛に居住していたが、幼少の頃のアイヌの人の思い出話を次のように語った。
私がまだ少年の頃、清水町の上熊牛に父と数年居住していたことがある。その頃、上熊牛部落の北端から上幌内に登る坂を千間坂と呼び、この坂の近くに、十勝川東岸が崖になり、川に沿うて狭い平旦地があった。
アイヌの人は毎年、芽室方面からドサンコ馬を二十頭ほど曳いてきて、このがけくずれの底の平地に強引に追い込み、春になるとどこからか連れ出していた。
またこの頃の「トクサ」は大切な馬の飼料だった。そこで、アイヌの人達はこのトクサを刈りとり、手頃に束ねて、和人が居酒屋でモッキリ酒を呑む間の馬の飼料として売り歩いた。これがまた馬の好物でよく売れた。
わたしはこのようなアイヌの人の仕事を頼まれて手伝ったものだが、こんなときアイヌの人は、「ポンシャモ(少年のこと)にあげよう」といって何がしかの小銭をもらってよろこんだものだ。
アイヌの人は狩猟民族だったから、野山にアマッポ(仕かけ弓)を仕掛けてあった。獲物が餌を引くと自動的に矢が放たれて、獲物に刺さるようにできているのである。
アイヌの人はよく私に「この区域内に入ってはいけない」と注意するのであるが、子供心にもその場の仕かけを見たくてしょうがなかったことを思い出す。[4]
この弓には十勝石で作った矢じりが使用してあったし、これら石器がいくらも散在していたものだ。彼等は狩猟に出あるく時、ゆく先の要所要所にごく簡単な仮小屋をつくって、中には茶わんや鍋、その他、最小限の炊事道具が置かれてあった。こうしておけば炊事道具を持ち運ぶ必要がなく、それだけ軽装ですむということだろう。
彼等はあの大きな足に冬は、獣皮や魚皮で作った足袋をはき、夏は山野を裸足で歩き回っていたのには驚かされた。
■鳥や魚や兎の捕り方も教えてくれた
明治時代の入殖者、下鹿追の山田森は、
明治四十三年三月入殖、当時然別川の沿岸にはアイヌの人達が木の皮で屋根を燕いたり壁をつけたりして拝象小屋を作って生活していた。年寄りのアイヌの人達とは、時折遊びに行ったり来たりしたが、足には鮭の皮で作った足袋を(アイヌの人は「ケリ」といった)をはいており、シナの皮でわらじを作ってはいていた。鮭や鱒をもって来て、稲きび、その他の食料と交換していったものだった。[5]
と語り、また上然別の春日井準一は次のように語った。
明治四十五年に入殖したが、裏の然別川のあたりにイモンコという白髪白髭の年老いたアイヌの人が、大正八年頃まで住んでいた。日本語がわからず手ぶりや足まねでむかしアイヌの人達が戦った話を聞かせてくれたり、鳥や魚や兎の捕り方も教えてくれた。[6]
■料理や保存食の作りかたなどを教えてもらった
瓜幕市街の菊地政喜も
大正二年頃でした、それは、私がまだ子供の頃、父にともなわれて笹川の東郷農場に入った。その頃、然別川沿岸の笹川から東郷農場及び西瓜幕にかけて、アイヌの人達はたくさん住んでいたが、このコタンは同族が遠くから然別湖へいく宿泊所になっていたようだ、和人はこの人達から鱒や鮭の料理や、保存食の作りかたなどを教えてもらったものだ。
開拓とアイヌの人達とは切っても切れない関係にあったことは、ひとり鹿追のみではないが、開拓者がアイヌの人達によって教えられ、助けられたことは忘れてなるまい。[7]
※世界的にもまれな豪雪極寒の地、北海道の自然に本州の経験は通用しませんでした。原生林に分け入った入植者が辛くも生き延びることができたのも、アイヌの人たちが手取り足取り北海道で生きる術を教えてからです。
今、北海道のアイヌ政策は侵略に対する贖罪のような考えで行われていますが、そうではなく『鹿追町史』結びの言葉で述べているように、アイヌがこんなにも北海道開拓に貢献してくれたのに、それに見合う感謝が十分ではなかったという気持ちで取り組まれるべきと考えます。そうすることでアイヌと開拓が両立する道=すなわち真の民族共生が図れると信じます。
北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)の機関紙『先駆者の集い』創刊号(1963)に寄せた町村金五知事の言葉を参考に紹介します。
「「先駆者」とはよくも名づけたものでありまして、現在私ども住む北海道が今日の姿にまで発展しましたかげには、開拓使以前の北海道を営々とひらかれてきました皆さまがたの父祖のご努力があるのでありまして、心から感謝しているところであります。しかし、まことに残念なことには、これら先駆者の子孫のかたがたの中には、めぐまれない生活をしているかたも少なくないのでありまして、行政を担当するものとしては、まことに申しわけなく存じておりました 」
アイヌ民族も道民もこの精神に還るべきではないでしょうか。
【引用出典】
[Ⅰ] [2] [3] [4]『鹿追町史』1977・鹿追町役場・52p-56p
[5] [6] [7]同上298−299p
【写真出典】
『鹿追町史』1977・鹿追町役場・299p