北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[歌登] 桧垣農場 (下) 開拓地寸描

それでも若かった 熱い血がたぎっていた

 

北海道の最深部、枝幸町歌登の草分け[桧垣農場]をご紹介しましたが、参照した『歌登町史』に「開拓地寸描」として、町史の編さん委員が直接古老から取材した開拓の体験談が掲載されていたので紹介します。各地の開拓体験談を目にしましたが、その体験の〝濃さ〟において頭一つ抜けていました。北海道に渡った動機、背景はそれぞれでしょうが、想像を絶する試練を乗りこえた者たちだけが〝道民〟になることができました。私たちはその子孫であることを誇りに思いたい──そう思わされる体験談です。町史の掲載の味あるイラストもあわせてお楽しください。

 

■移民募集に応じて北海道へ ── 戸田 忠雄

徳島県生れ、放え年9歳の年すなわち、昭和4(1929)年に移民となった父に連れられ北海道へ渡った。
 
その前年移民募集が行われたが、それは多分に誇大宣伝による募集であった。その時、募集者が持ってきて見せてくれた映画は、幼い心に焼きついていまだに忘れられない。
 
まず最初に広い広い原野や豊かな森林が映し出される。2抱えも3抱えもある古い大木が伐り倒される場面。次いでたくましい2頭曵きの馬でもりもりと黒土を耕す作業。やがて秋の稔りは石狩か上川の水田地帯のたわわな稲穂の姿であった。狭い猫の額ほどの山畑にしがみついている人びとにとって、その風景はまことに魅力あふれるものであった。
 
この広大な土地、この肥沃な土地を無償でくれるという。無償なだけではない、移住手当として一戸当り300円の補助金が出るという。300円とはどれくらいの価値があったのか。白米1俵が8円か9円の時代である。学校の先生の給料が月20円くらいの時だ。
 
映画はなおも続く。今度は小川いっぱいあふれるばかりに遡上する鱗の群。手づかみで大きな鮭を捕える有様など、まったく夢のような話であった。このような宣伝を受けると、よほどの財産家か、へそ曲りでもない限り、心を動かされるのは当然である。
 
移民団はたちまちにして結成され満杯になった。何でも300戸以上の団体で、私の部落だけで21戸に達した。その中には農民のほかに飲食店主、床屋、大工、日雇労務者など雑多な職業が入り混った。かくて一切の財産(土地・家財)を売り払い。北海道へ旅立った。
 
父は一足先に渡道したが、私たちは母に連れられて長い汽車の旅を続け釧路へ向かった。行先は別海村西別である。
 
途中、叔母の住む空知の山部へ寄った。駅から2里半の奥だという。馬橇に乗せられて叔母の住む山里を訪ねた。吹雪のなかで、北海道とはずいぶんひどいところだと思った。2・3日は叔母の家に泊まり、また汽車に乗った。
 
釧路から標茶へ、標茶から東へ20里(80㎞)、茫漠たる平原を進むこと数時間やっと西別の第1宿舎に到着した。宿舎といってもバラックの共同飯場である。しかし、その宿舎も私たちの落ち着くところではなかった。私たちの行くところは、さらに2里奥の第2宿舎とのこと。外は吹雪であった。その吹雪の中を歩いて行けという。
 
母は着物姿でモンペもはいてない。モンペなど四国の人は見たこともない着物である。子供たちはみな筒袖の着物姿、履物は草履である。徳島では雨降りの日はゲタで、晴れた日は草鞋をはいていた。今のような長靴のない頃だ。
 
それでも一休みのあと意を決して外に出たが、途中あまりにも烈しい吹雪のため方向が分らなくなり、命からがら逆戻りして第一宿舎に転げこんだ。ここで2・3日泊めてもらい、父の迎えを得てやっと第2宿舎に辿りつぃたのである。
 
共同飯場にはすでに先着の数十人の人びとが住んでいた。一番困ったのは井戸に水がないことだった。人びとは互いに鍋を出し、雪を入れて災火で溶した。この水でご飯を炊くのである。数十人のご飯仕度が、なにより大変であった。
 
人びとは内地で見たあの夢とあまりにも相違する現実に驚き、嘆き、泣き悲しんだ。しかし、もうどうにもならない。内地へ帰っても住む家もなく、土地もない。人びとは泣きつくし、そして諦めた。
 
そのうち各自の土地が配分され、それぞれ家を建てて移り住んだ。家を建てるために、父と毋と私と3人で11里半も離れた市街地の木工場から材料を買い、手橇(そり)に来せて運搬した。柱、タルキ、小枝など、1回に運べる量はわずかである。この道を何度も何度も往復した。
 
開墾作業は想像を絶する難行であった。農具は丸鋸ただ一丁、いくら働いても効果はわずかであった。それはとても一家を支えうるものではない。父は一年中救済事業としての土木工事に稼働した。昭和8年になって道の離農勧告に従い釧路を去ることにした。そして歌登のボールン別に人地したのである。
 

 

■入植者の苦労 ── 菊地金次郎 

二股地区には山形団休が人植する以前から3戸ばかりの農家がいた。多分、大正の初め頃に入ったものだろう。大正7年、大江倉治を団長として山形団体がこの二股地区に人地した。総勢26戸という大団体であったが、なかには名儀だけの者もおり、また二股地区以外にも分散したので、実際にここに入地したのは20戸くらいであった。
 
二股地区は幌別川の最上流で、尾根棟山や函岳が近いせいか、冬は雪が多く、積雪は2mを超えた。寒さは現在よりはるかに厳しかった。11月3日の明治節には必ず根雪になっていた。真冬、しばれの強い日は水分の多い立木が裂けて、夜半その音で目を覚ますこともたびたびであった。
 
この付近一帯は山火もなく四方は鬱蒼たる森林で、昼なお暗しという言葉がぴったりであった。清流には小魚が群れ、夏から秋にかけて産卵のため遡上する鱒など簡単に手づかみできた。
 
道路は無かったので、人びとは小川のほとりを歩いた。山野には熊、狸(たぬき)、狐、兎(うさぎ)がたくさんいて、兎などは棒を投げると驚いて雪の中に頭を突込むので、たやすく捕えることができた。狸も尾を引いた跡を追いかけ、木のウロにひそんでいるのを生け捕ることができた。しかし熊が住宅から50mも離れない所に穴を掘り住みつけているのは恐しく、夜も眠れないことがあった。
 
住宅は最初「拝み小屋」と称するもので、掘立小屋よりさらに原始的な小屋で、壁は笹を立て土間にも笹を置きその上に筵(むしろ)を敷いた。そのうち拝み小屋から掘立小屋に改築した。掘立小屋の屋根も笹でふいた。壁はとど松の皮や樺皮を張った。床は木挽いた板を並べて筵を敷いた。以前よりはやや文化的になったが、焚火のため家の中はすべて真黒く光っていた。
 
食べ物は麦、藁(わら)麦など、この中に蕗(ふき)を混ぜた。米粒は見ることができなかった。
 
土地を拓くには、まず木や笹を焼き払った。焼け跡に菜種をバラ撒きして、そのあとを丸鍬でおこした。換金作物は菜種と豌豆(えんどう)とハッカであるが、最初は菜種だけであった。
 
魚は川魚のみで、その後、大正末から昭和初め頃、道路が開かれたので、時々枝幸の方から馬の背に魚を積んで売りに来た。しかし、たいてい獲れてから4・5日もたった魚でイキは悪かった。
 
味噌はどこでも自家製で、しょう油さえ自分の家でつくった。(歌登)本幌別に商店ができるまでは(音威子府村)咲来まで出て日用品を購入した。
 
履物はボロ布をさしこんで足袋をつくった。足袋の底の厚さが1.5cmもあった。冬は藁(わら)でツマゴを編み、手には手かえし、木綿の綿入れ半纏(はんてん)。モンペ姿に頬かむり、その姿はお世辞にもスマートと言えるものではなかった。
 
灯りはコトボシ、カンテラなど、それさえない時は曄(かば)の皮を固く巻いて松明にし、また焚火の明りで食事をとった。その後、石油を買ってランプを灯すようになったが、その仕事は子供たちの担当で、ホヤに手が入らなくなるとこの仕事から外された。
 
開拓地の災害の一番は山火事である。開墾するには火入れが必要で、その時の残り火や火入れの手違いなどでしばしば山火が発生した。
 
また川は流れ放題で曲折し、造材跡の枯枝などが川に投げ棄てられているため、大雨が降ると各所に「木詰まり」と称して木材で川がせき止められ氾濫した。子供たちのなかで川の深みに落ちて死亡した数も少なくない。その墓はそれぞれの家の畑に建てられ、現在でもその跡に草花が咲き乱れ、当時をしのぼせている。
 
熊による悲惨な災害もあった。また作物の被害も多かった。このほか大正14(1925)年には悪性の感冒(スペイン風邪)が流行し、ほとんど全部落民が寝込んだことがあった。
 
悪条件のなかで山林を伐り倒し、火入れしてまず最初に菜種をまき、翌年からは丸鋸で一鍬(くわ)一鍬耕起した。笹の根、木の根、開墾作業は重労働の連続であった。
 
3年目くらいに馬を購入した。それからはプラオによる耕起ができたが、木の根が邪魔で作業は思うにまかせず、そこで木の根を起こすのだが、太いのは1日で1本しか掘り起せなかった。
 
夏は暑くヤブ蚊や虻に苦しめられた。
 
かくしてようやく秋を迎え、いくばくかの収穫を得ることができたが、たいてい秋には豆。雑穀の相場が下り、予想外の安値でたたかれた。
 
開拓地の子供たちは、赤ん坊の時はイズコに入れられっぱなし、歩けるようになると両親が仕事をしている間、柱につながれた。少し大きくなると7・8歳でも家事の手伝いを命じられたし、特別教授場ができてからは赤ん坊を背負ったり、弟妹の手を引いて学校へ行き、机の下に座らせて勉強した。
 
病院などはないので、もっぱら薬草を前じて飲んだ。その後、富山の売薬を頼りにした。重い病気にかかった我が子を背に負って、遠い病院へ向う途中で死亡したという話は何度か聞いたことがある。
 

■主婦のはたらき ── 安田いまの

夕方遅く主人が帰ってくると、そのままの姿で焚火の側にゴロッと横になる。一時間くらい眠ると起き上がり、暗い外へ立木を倒しに出かける。太いのや細いものいろいろあるが、1・2本伐り倒して帰ってくる。
 
翌日、主人が留守の間、私かその木を適当な長さに輪切りする。夕方、主人と2人で運びに行き、私がロープで引張り、主人がガンタで押す。家の中に連びこむとそのまま炉にくべる。根元の方に日付を書いておくと、1本の木が何日で燃えつきるか分って面白い。
 


太い木の間に枝や細割りの木をはさんでご飯を炊いたり、味噌汁をつくった。8人の子供を育てたが、よくやったものだ。今考えても不思議なくらいだ。
 
靴下があったわけではなく、手袋があったわけでもない。雪のなかを裸足で歩いたこともある。今よりもっと寒かったと思う。
 
壁は一重、ふし穴から外が見えた。天井のない屋根の合掌のところから星がみえる。そんななかでも誰一人怪我もせず、火傷もさせなかった。焚火の上には木の枝でつくった炉鈎(かぎ)かぶらさがってていたが、真黒く光っていた。どこの人も皆いぶり臭い体をしていた。
 
今考えてどうしても思い出せないのは、おにぎりをどうやって焼いたかである。子供の頭ほどもある毎日のおにぎりを一体どうやって焼いたのだろう。弁当のおかずは塩魚がほとんどである。魚はずいぶん獲れたから、この点は助かった。居間の窓はミノ判硝子の2枚だけ。こんな生活を何年続けただろうか。
 

■単身入植 ── 内田 久保 

数え年25歳のとき、大望を抱いて北海道へ渡り、オフンの山奥へ入植した。大正10(1921)年である。
 
その頃の生活は常識では考えられないものであった。掘立小屋にただ1人、朝早く出て夕方遅く帰宅するのだが、焚火は切らさないように注意した。
 
冬になると凍ったご飯を食べるのだが、左の頬に入れ、耐えられなくなると右の頬に移して食べた。美味とか不味とかは問題でない。どれくらい腹に入れれば働けるかが問題であった。
 
おかずは主に生味噌をなめた。米をとぐのが面倒でとがずに煮たことがあったが、これは食べられなかった。馬鈴薯や葱(ねぎ)は洗ったことがない。
 
布団の上は5寸も吹雪が積った。布団といっても万年なので汗と汚れで固くなり、丸く型がついていた。この中にそっともぐり込み、またそっと抜け出すのである。風呂には冬中入つたことがない。
 
それでも若かった。体の中に熱い血がたぎっていたのだろう。雪がチラチラ顔にかかるのが気持ちよかったものである。
 

■母親のくすりを買いに ── 桜井 金吉

明治42(1909)年、19歳のとき母親とともにパンケナイヘ入地した。この年、悪性感冒が流行し母親が罹患した。儂(わし)は六線市街まで薬を買いに走った。雪が烈しく降る日であった。
 
ところが薬を求めての帰り道、頭が痛み熱が出て歩くことができない。儂も流感に冐されていたのである。やむなく途中の農家に立ち寄ったが、そのまま寝込んでしまった。大切な親の薬を握つたまま、いく日かが過ぎた。外は大吹雪になっていた。
 
ようやく起き上り、吹雪のやんだ道をたどってわが家に帰ってみれば、悲しいことに母親はすでにこの世の人ではなかった。明治42(1909)年12月20日、生涯忘れ得ない日である。
 

■菜種の出荷 ── 影山 清蔵

明治42(1909)年春、ポールン別へ人地した。初めは二十一線から通ったが、道路がないのでもっぱら川を歩いた。そのうち家を建てたが、原始林の中に儂の家がただ一軒、本当に淋しかった。
 
開墾のため木は全部焼き払った。ただ栓の木だけは造材師が買って流送した。最初に蒔いたのは菜種である。秋になって収穫した菜種は岩屋の付近から山を越して本幌別へ運んだ。
 
儂(わし)の馬は道産子であったが、荷を運ぶことが上手で、この馬の背に3俵積みみ、儂が1俵背負った。1回に4俵、こうして1日に7回往復し、28俵の菜種を出荷したことがあった。
 

③④

 
 

 

 


【引用参照出典】
『歌登町史』1980・歌登町・93−102P
①②③④ 同上
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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