北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[歌登] 桧垣農場 (下)

2代目管理人 深井信太郎 酪農への道を拓く

 

2回に渡って紹介した歌登の創設期。まちの礎を拓いたのは長州藩士・桧垣直右が設けた「桧垣牧場」であることを紹介しましたが、北海道でも最深部に拓かれたこの牧場はその後どのような運命をたどったのでしょうか?
 

■険しい農場経営

桧垣直右により管理人長村秀を迎えて明治31(1898)年に始まった歌登の「桧垣農場」ですが、北海道の最深部だけあってその開拓は思うように進みませんでした。
 
上幌別原野貸付地面積641万3143坪214町3反8畝3歩。枝幸市街より上幌別に至る6里の道路は、泥炭地多くして殆んど車馬を通ぜざる現状なるを以って開墾の業進展せず。桧垣農場は明治30(1897)年より着手せるも現在わずかに7戸の小作人あるに過ぎず、片岡農場はいま1人の小作者も認めず、その他天塩方面より転任せる小農あるもまた15戸のみ。作物の生育不良なるにあらざるも交通不便のため、いったん移住して退去せるもの少なからずという。[1] 
 
と『歌登町史』は明治38(1905)年の「宗谷管内開墾状況調査」を引用しながら次のように述べています。
 
顧みると、明治30(1897)年、長村を管理人として雇員3名が現地入りしており、翌31年小作15戸入地、32年さらに10戸の農家を迎えている。これだけで28戸になるし、35年から37年にかけて数戸の移住を見ているから少なくとも30戸は定住してよいはずであるが、それがわずかに7戸、いかにその出入りの烈しかったか、苦しい小作農の実態をうかがい知ることができる。[2] 
 
歌登はあまりにも奥地で、明治の未発達な交通事情が大きな壁となって行く手を塞いだのでした。
 

上幌別簡易教習所①

 

■救世主となったハッカと澱粉

そうしたなかでも、この地に永住をしようと決意した人々がいました。 目に残る歌登の最初の人口統計は明治42(1909)年、 市街地人口20戸110人、部落人口235戸1175人となっています。この時代の農業の主役は麦類でした。『歌登町史』は「上幌別郵便局資料」から明治42(1909)年 の農業生産を次のように紹介しています。
 

明治42(1909)年  生産量 生産額 
菜種 3000石 24000円(現代換算:4億052831万0188円)
燕麦 1000石 2500円(現代換算:47161万9811円)
裸麦 1500石 9000円(現代換算:1億069811万1320円)
小麦 500石 4500円(現代換算:84901万5660円) [3] 

 
合計すると明治42(1909)年の歌登の農業生産額は4万円(7億5471万6981円)となります。郊外人口235戸がすべて農家だとすると1戸当たり321万円の収入となります。この中から農業生産のための費用が引かれます。特に遠隔地として収穫物の輸送費の割合は大きかったでしょう。
 
苦しい歌登の農業に最初の光を灯したのは「ハッカ」でした。明治45年、歌登に初めてハッカが導入され、大正3年には次のように成長します。
 

大正3(1914)年  生産量 生産額 
菜種 2700石 27000円(現代換算:4億5762万7118円)
燕麦 3000石 7000円(現代換算:1億1864万4067円)
裸麦大麦 1800石 13700円(現代換算:2億3220万3389円)
小麦 800石 7000円(現代換算:1億1864万4067円)
はっか 1850斤 8000円(現代換算:1億3559万3220円)[4] 

 
網走管内には遠く及ばないが、ハツカの栽培も行われた。大正4(1915)年の調べでは、42戸でハツカ製造を行ったとなっている。この頃はおそらく農家自体がそれぞれのハッカを紋っていたはずであるから、耕作者もまた40数戸を数えたと思われる。
 
第1次世界大戦が起こると、 ヨーロッパの穀倉地帯が戦場となり、世界的に穀物相場が急上昇します。
 

大正6(1917)年  生産量 生産額 
菜種 640石 21000円(現代換算:3億0000万0000円)
燕麦 700石 11900円(現代換算:1億7000万0000円)
裸麦大麦 630石 18000円(現代換算:2571万4285円)
はっか 840斤 6000円(現代換算:8571万4285円)
鶉豆 460石 18000円(現代換算:2億5714万2857円)
豌豆 720石 20500円(現代換算:2億9285万7142円)
澱粉 7500函 11500円(現代換算:1億6428万5714円)
亜麻 41200斤 4500円(現代換算:6428万5714円)[5] 

 
このように、ハッカ麦類に代わって、えんどう豆、うずら豆、デンプンなどが主要産物として台頭します。 
 
中でもデンプンに巡り会ったことは、この酷寒の地での農業生産に希望の光を灯すものとなりました。『歌登町史』はいいます。
 
歌登と澱粉の関係はきわめて深い。それは大正の初めから酪農に本格的転換がなされる昭和40(1965)年代の前半までおよそ60余年間、歌登は澱粉によって拓け、澱粉によって発展してきたと称しても過言ではないだろう。
 
澱粉すなわち馬鈴装の耕作と澱粉製造は農業の主流を占め、股村経済を左右していたのである。ゆえに最盛時には馬鈴普耕作の技術は他に秀逸し、澱粉生産は質・量ともに全道ーを誇ったものであった。[6] 
 
歌登における澱粉製造は、大正2(1913)年、長谷川助太郎、高瀬与一郎によって始められます。飛躍の契機となったのは、大正4(1915)年、岩木甚太郎、坂根文太 郎ほか数人が資本を持ち寄り会社方式による共同工場を作ったことです。
 
おりから第1次世界大戦の影響を受けて農業は一段と盛んになつたが、特に澱粉の需要が多く予想外の高値を呼んで、澱粉製造に拍車がかけられた。いわゆる澱粉景気が到来したのである。大正5(1916)年には本幌別から中央、ペヤマン、辺毛内にかけて5つの澱粉工場が新設されるという発展ぶりであった。[7] 
 
歌登の原生林に分け入って開墾の試練を乗り越えた開拓者たちは団結して「澱粉」と言う新たな産業を拓いたのです。
 

大正時代の歌登市街②

 

■桧垣農場2代目管理人・深井信太郎

麦作から澱粉製造へ転換することで、歌登の農業はようやく安定の地を見つけるのですが、そこにはこのまちを開いた桧垣農場が大きな貢献をなしました。
 

深井信太郎③


桧垣農場管理人として明治30(1897)年に入地し、農場の基盤をつくった長村秀ですが、 秋田と北海道で官吏を務めてきた人物で開墾が終わり、農業生産が本格化すると、十分な営農指導ができませんでした。
 
まず第一に管理人たる長村が前半の努力と相反し、後半の成績は芳しくなかったようだ。 このことは、後日桧垣が述懐して、「農事の素養経験なきがために拓殖の趣味に乏しかりし」と述べている。そのためか、明治40(1907)年10月、「企業方法に適せず」という理由の下に突然70町歩の返地命令を受けた。[8] 
 
開拓時代の入植地は国から借りた借地であり、期限内に開墾を成功させなければ返さなければならなかったのです。桧垣農場の70町歩が返還を求められましたが、すでに10戸の入植者があったため、桧垣直右は道庁長官に頼んでその土地を入植者へ分割貸与させたといいます。
 
こうしたことが重なり 桧垣直右は長村に代えて深井信太郎を新たな農場管理人に派任命しました。大正4(1915)年4月、深井は、入植者には心のより所が必要だろうと禅僧中村冏定を伴って歌登に入りました。
 
深井信太郎は明治18(1885)年12月15日、埼玉県生まれの柔術家です。粕壁中学校(現:埼玉県立春日部高校)を卒業後、東京に出て講道館に入門しました。ここで柔道4弾の免状を出ます。 その後福島、安積中学校や秋田県横手中学校の教師を務めていました。
 

■産業組合に尽力

深井信太郎は「産業組合」こそが歌登を救う道だと考えました。「産業組合」について『歌登町史』は次のように解説しています。
 
産業組合運動は大正2(1913)年の凶作後、全道的に活発化してきた。これは小農主義ともいえるもので、報徳運動の影響を受け、ドイツの組合を考として推進され、信用事業を中心に立法化が図られたものである。こ、つして明迨23年、産業組合法が成立した。その内容は信用、購買、販売、生産、利用の5種とし、組織としては無限、有限、保証責任の3形態を認めていた。[9] 
 
立場の弱い開拓農家が個別に農産物を販売、または種や農機具など農業資材を購入しても、商人に足元を見られて言うがままになってしまう。そのためいつまでも開拓農民は貧しい暮らしを強いられる。そこで農家が集まって団結し、共同で仕入れ、共同で販売して有利な立場を築こうというのが産業組合の趣旨です。
 
当時、歌登村はまだ枝幸郡の一部で、枝幸の面積は実に74方里もあり、全村を一円とした組織ははなはだ困難であった。しかし歌登初の名誉町民となった深井信太郎は、冷害凶作と農業恐慌に苦しむ農民の窮状を救うため、同志と糾合して農民運動に奔走した。その苦しみは筆舌に尽し難いものがあったようである。[10] 
 
大正5(1916)年5月、歌登で最初の産業組合「無限責任上幌別信用購買販売組合」が設立されました。
 
歌登に最初に設けられた産業組合である「無限責任上幌別信用購買販売組合」 の所在地が、先に紹介した歌登での最初の共同澱粉工場の所在地と同じであったことから、この共同澱粉工場も産業組合運動の一環であったであろうと「歌登町史」は推測しています。
 

 

大正時代の雑貨店④

 

■深井信太郎 酪農の道をひらく

深井信太郎はこのように歌登農業のまとめ役になるとともに、この極寒の地に適した農業は何かを模索し、酪農に希望を見いだします。北海道における産業組合ならびに酪農振興の経緯ついては
「オホーツクの幻夢」をご覧ください。
 
歌登に乳牛が導入されたのはいつか、公的には昭和5(1930)年の道の補助牛が初めとされているが、実は大正末期に個人的導入がなされていたのである。
 
桧垣農場第2代管理人深井信太郎は、北海道酪農の先達者宇都宮仙太郎の影響を受けて、酪農に対する深い関心と憧憬をいだいていた。深井の考えはすなわち桧垣農場主たる桧垣直右の考えでもあり、夢であった。その夢の実現のために長村に代って深井を派遣したとも考えられる。
 
大正7(1918)年、出札した深井は豊平にあった林牧場や宇都宮牧場を訪ね、北方農業確立の指針を仰ぐとともに農場再建について相談した。その結果、桧垣、宇都宮、林3者の名前で牧場用地の払下げを道に請願する運びとなり、3年がかりで桧垣農場に隣接する山林学校裏山 215町歩の払下げに成功した。
 
目的はもちろん畜牛飼育のための牧場用地ということであったが、実際には大正13(1924)年に立木の売却を行い、約1万円の収益を得て赤字晩きの農場の収支を償い、旧債を償還して一応安定経営に戻したのである。[11] 
 
深井信太郎は道都から遠く離れた歌登にあって、北海道の産業復興運動である産業組合運動にコミットし、宇都宮仙太郎ら産業組合運動のリーダーの力を借りて、農場再建に尽力すると共に酪農への道を切り開きました。
 

■酪農王国への道

大正11(1922)年、深井信太郎は桧垣農場支配人を辞めます。故郷埼玉に戻る道もあったと思われますが、深井が選んだのは歌登の土となることでした。
 
農場管理人として10年間勤めた深井は、ここで農場を離れ独立して農業を経営することになったが、在任中給料としては特に定めがなかったので、農場再建の功に酬いるべく桧垣直右は深井に対し辺毛内奥地の山林地目牧野150町歩と、現金1万円を贈ったという。[12] 
 
桧垣直右から贈与を受けた土地を原に独立農家となった深井は本格的に酪農業を始めました。
 
こうして幌別川の対岸、現在の役場付近に110町9反歩の農地をもとめて独立した深井は、宿願の乳牛飼育をこころざすのであるが、なかなか思うに委せず。ようやく大正15年の春になって枝幸村助役の此話で乳牛1頭を導入した。品種はエアーシャーであった。[13] 
 
歌登の酪農転換を桧垣直右も積極的に支援しました。
 
昭和5(1930)年の道の補助牛と、これにつづく乳牛の導入に伴って、歌登における酪農の機運がよ うやく高まりつつあるとき、桧垣農場主桧垣直右は、とくに無利子の貸金2000円という大金を融資したので、これを基金として昭和6(1931)年、歌登村酪農協会を設立した。これはもちろん深井の奔走によるものであった。[14] 
 
戦後、農業協同組合が設立されると、深井はその初代組合長に選ばれます。昭和40(1965)年、歌登町で名誉町民条例が制定されると、その第1号に選ばれました。
 
このようにして、歌登は桧垣農場の2人の管理人の努力、すなわち初代長村秀が築いた基盤の上に2代目深井信太郎が酪農村としての基礎を築き、現在に姿に導いたのです。


 

【引用参照出典】
[1][2]『歌登町史』1980・404p
[3]同上389p
[4]同上391p
[5]同上392p
[6]同上398p
[7]同上399p
[8]同上405p
[9]同上401p
[10]同上582p
[11]同上473p
[12][13][14]同上474p
①②③④ 

 
 

 

 


【引用参照出典】
『歌登町史』1980・歌登町・93−102P
①②③④ 同上 『歌登町史』1980・口絵
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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