「長沼」 吉川 鉄之助 (下)
■鉄之助、移住の決意を決める
親友の内田靜が馬追原野の植民区画設定のために測量作業を行うなか、吉川鉄之助は区画設定を待たずに、馬追原野に入植します。以下はそのときの模様です。
明治19(1886)年、かくて3県1局は廃止され、開拓の主権は再び札幌の地に戻った。新しい土地払下規則の制定、殖民地選定事業の着手など、新設の北海道庁は内外ともに、開拓の新しい野心にみなぎろうとしていた。鉄之助は27歳となり、3人の子の父でもあった。
吉川鉄之助もこの機運に動かされた。知友である道庁測量官、内田瀞の一行はすでに植民地選定事業のため、あらゆる困苦と闘いながら未開の沃野を踏査していた。
鉄之助は、10月に単身馬を駆って視察のため札幌を出発した。室蘭街道は、彼にとってはじめての道ではなく、明治4(1871)年春、父母と3人で岩手県から平岸に募移民で渡道してきた際の道でもあった。[1]
吉川鉄之助の入植をはじめ、由仁、角田、本町のマイヅル付近の最初の前進基地は千歳であった。千歳で明治5(1872)年から旅館を営んでいた新保鉄蔵は夕張原野開拓の祖であった。彼は早くから札幌街道千歳の宿屋に指定された駅逓を経営していた。
千歳川を挟んで、2階造りの旅館を経営するかたわら、牛馬を飼い、数100頭もの豚を野飼いし、また付近のアイヌから熊の皮や鹿の角を買い入れて本州に移出した。美々に官営されていた缶詰工場の貨し下げを得て、魚類、肉類の加工なども経営した。
入地者は誰でも一応ここを基地としたが、彼は経営とはまったく離れて世話をし、開拓者たちは非常な便宜にあずかった。開墾地に必要な食糧や諸道具はすぺてここから送られた。新保鉄蔵の開拓者たちに対する指導や鞭撻は心からの厚意であり、その功績は偉大といわねばならない。[2]
さて、鉄之助は、新保鉄蔵のところで、アイヌ1名を雇い、今のネシコシ、オルイカ、幌内を経て馬追山を越え、現在の三河道路を途中から古山に出て、夕張川畔に達し、さらに夕張川沿に下り、現在の山形道路の旧道(アイヌ道路)越えて、現星野沢から古川(現在はないが堺川といった)沿に平地に出て、付近の土地を調査した。結果、農耕の適地とみて、ここに移住する決心を固めた。
明治20(1887)年5月、いよいよ鉄之助は、同志渡辺伝二とともに札幌を出発した。折から、札幌の山野は初夏の緑がいっせいに山野を彩り、樹林の合間から札幌の連山や、樽前の噴煙が風に流れて見えた。[3]
豊かな農業地帯になった馬追原野(出典①)
■鉄之助、開拓の鍬を下ろす
こうして鉄之助は人跡未踏の馬追原野に入植します。この時の模様『長沼町の歴史』は大正5(1916)年発行の「長沼村史」を引用して次のように伝えています。この記録は鉄之助存命中のもので、本人から取材して書かれたものと思われます。(大正時代の文章を現代風に書き改めました)
当時、本原野には、今のいわゆる角田村雨煙別に、トマンリュウ、ニセンカと称する2人のアイヌ、生活を維持しつつあるのほか、和人の居住するものなかった。交通は不便で、とくに馬追山派に遮断され、北西南の3方面は夕張千歳の両川に囲まれているため、行くに舟なく、一条の路形もなかった。日常の物資は数里を隔てた江別または千歳の市街に出でて供給を仰ぎ、自ら携帯する。その困難は言うべからず。
かくして開墾が始まった。時には米噌の欠乏を告げ、草根木実によって飢餓を凌いだことも一度ではない。かかる苦難を嘗め、貸付地の開墾、大半成功するに到った。
同年8月勇払郡役所より、技手福井暗治の出張調査あり。その結果によれば好成績を収めたことになったが、同年秋季における蝶虫害にあったほか、霜害も甚だしかった。
わずかに馬鈴薯を得たほかは、ほとんど収穫皆無の状態にして、雪中飢餓をしのぐ食糧なく、やむをえず山野に狐貂を捕へ、その皮を剥ぎ、千歳市街に出てこれを米噌に変えざるを得なかった。当時狐皮1枚30銭、紹皮1枚20銭にすぎず、買える米噌もまた1斗5升内外に過ぎない。
しかも、この往復に4日を要し、かくして漸く手に入れた米噌も単に一時の飢を凌ぐにとどまり、数日にしてまたこれを繰返すのも繁雑であった。幸いに当時、夕張川における鮭魚の繁殖著しきものがあった。これを捕らえてもなんら制裁がなかったので漁獲した。
千歳に行けば必ず鮭と鍋を携帯した。千歳村字ケヌフチに土人が栗拾いのためにために一夜の雨蕗をしのぐ草小屋があった。途中他に宿るべき家屋なく、往復に1泊するを常とした。ある時など、往路でこの小屋に1泊し、帰路もまたこれに泊まったが、携えた米を炊き食べようとしたが副食物なく、携えてきた砂糖を用いたが、上戸の悲しさで喉を下らず、往路で路に捨てた魚骨を食い、火にあぶり食べた。これを今日聞けば信じられないだろうが、事実である。[4]
■同士工藤勘太郎、馬追原野に入る
移民の入植経路(明治25年まで)出典②
鉄之助には人望がありました。翌年志を同じくする工藤勘太郎が移住します。その後も清水常蔵、岡村三治、天野逸雲などが鉄之助の家にわらじを脱ぎます。わらじを脱ぐとは、入植者が入植地で最初に世話になる家このことで、両者は血縁の親族のような関係を結んだと言われます。
明けて明治21(1888)年、工藤勘太郎が鉄之助を頼って移住し、農地も拡張したが、食糧が欠乏し勝ちなので、雪融けと同時に夕張川のウグイを捕らえたり、ウバイロというアイヌ常食の草根を掘ってデンプンをとるなどして収穫期までの食糧を維持した。
翌年は食糧欠乏を防ぐため、小麦を多く蒔き付けたが、秋の収穫時に移住の人々の大半は風土病のマラリヤに倒れ、刈り入れ不能になり、放棄してしまった。このように入植2年間くらいは惨たんたる状態が続いた。[5]
この間、明治25(1892)年までの吉川鉄之助の動静と北長沼の動きを大正5(1916)年発行の「長沼村史」に見ると、
この地に移住後、2カ年この原野にあって千歳以外の地を見ていない。ある時、札幌~幌向往復の汽車の汽笛を聞き、懐旧の情に堪えず、吉川渡辺の両人相携えて岩見沢に出てこれを見ようとし、馬を山中に走らし、その途上、いくどか落馬し、なおかつ巨熊に会い、辛うじて帰宅するなど、児戯に等しい。[6]
なお馬追原野の開拓の模様は辻村もと子の小説『馬追原野』に詳しく絵が描かれています。辻村の父直四郎は岩見沢志文の開祖と言われ、沼田での開拓の後に岩見沢に移住しました。 小説『馬追原野』は昭和19(1944)年第1回樋口一葉賞を受賞しています。
■夕張道路開通、開村の気運高まる
泉麟太郎に続いて明治21(1888)年には室蘭の泉麟太郎も「夕張開墾起業組合」を組織して栗山に入植しました。泉麟太郎が栗山を入植した経緯は以前紹介しましたが、室蘭郡長の古川浩平が鉄之助の入植のことを伝えたことが決め手となりました。
明治21(1888)年9月、北海道第2部長、堀基、勇払郡長、古川浩平一行が、道庁技手伊吹倉造を随行として来村視察し、囚徒を使役して夕張道路に着手し、翌明治22(1889)年10月に完成したので長沼、角田方面と岩見沢間の交通はきわめて便利になった。
鉄之助は少量の欠乏に備えて、パン常食の方針を定め、肉食の必要上、真駒内秤畜場から豚2頭の払い下げを受けて原野に放牧したが、成績は良好てあった。
鉄之助は、聞墾のかたわら工事のための物資補給を請負った。さらに江別から船を購入。アイヌのトマソリュウに夕張川対岸ウエソベツ間(現小林酒造西側)に渡船をさせ、交通の便をはかった。[6]
明治22(1889)年には、岐阜県選出代議士・大野亀三郎は、土地貸付の出願にあたって、その選定を先住して地理も詳しい吉川鉄之助に請うようにいわれ、吉川を訪ね、相たずさえて実地凋査をし、翌明治24(1891)年、親戚数名で人地開墾に着手した。栗沢町岐阜農場の始まりである。[7]
明治25(1892)年、吉川鉄之助が北長沼に鍬を振り始めてから、5カ年の月日は瞬く間に過ぎていた。眠りから覚めた馬追原野には、中央部を除いて、北長沼の夕張川沿いに吉川、渡辺の草分の一行のほか、真成社、平田、亀谷の3農場、あわせて50余戸の開拓者が、拝み小屋を建て草原を切り拓き、道路、舟連の便をはかり、子供たちの教育もはじめていた。折から夕張川対岸では炭鉱鉄道の敷設がはじまり、開村の機連は高まっていった。[8]
■奥州市の郷里の偉人として顕彰される吉川鉄之助
奥州市にある吉川鉄之助
生誕の地碑(出典③)
明治25(1892)年2月4日、このようにして長沼村は開村しました。村名を決めるとき、道庁は吉川の功績を称えて「吉川村」と名付けてはどうかと提案しますが、鉄之助はこれを辞退し、近傍にあった沼のアイヌ語名から「長沼」を推薦しました。そして明治28(1895)年5月、戸長役場が置かれると、初代戸長に推されました。
この後、吉川の開拓は長沼を離れて、旭川、樺太に及び、昭和6(1931)年3月、札幌で波乱に満ちた73年の生涯を終えました。この後半生も大変なドラマですが、それは別な機会に譲ります。
馬追原野の開祖となった吉川鉄之助ですが、「開拓」という言葉がタブーになりつつある北海道では忘れ去れようとしています。ところが出身地の岩手県奥州市では、藤原清衡、高野長英、後藤新平らと並ぶ郷土の偉人として 「ふるさと学習」の対象となっています。奥州市水沢区の生家跡には「長沼町開基の人 吉川鉄之助 生誕の地」という石碑まであるのです。
■奥州市市民劇「大地の侍」
そればかりではありません。2015(2015)年11月、奥州市は演劇を通して郷土の偉人から学ぶ事業を立ち上げ、その第三弾として吉川鉄之助を取り上げ「大地の侍」として上演しました[9]。そのチラシにはこうあります。
常に辺境を目指し、未知の土地へ挑戦する鉄之助のすさまじいばかりの開拓精神と、留守氏家臣としての誇りと、サムライ魂を貫き通した一人の男の生きざまを、壮大な市民劇として上演します。[10]
平成29(2017)年12月、このことが長沼町に伝わると、長沼町の開拓130年記念事業として取り上げられ、奥州市と長沼町民の合同により、北広島市民ホールで「大地の侍」が上演されました。
■先人に学ぶ奥州市、先人を無視する北海道
これは「奥州市教育基本計画」(平成29〜平成38)の「基本理念と施策の基本方向」です。
奥州市の発展の源は、先人後藤新平のことばどおり、「一に人、二に 人、三に人」と考えております。奥州市には、「学ぶこと」を真摯に実践するという伝統があります。
江戸時代末期、子どもたちを教育する場は、寺子屋でした。学習の基 礎・基本を養いながら徳育に取り組んでおりました。この伝統は、現在 も引き継がれ、寺子屋事業として28年間も継続しております。このよう に奥州市は、子どもたちを豊かに育てる「学び」を大切にしてきたまち であります。
この「学び」の伝統を生かし未来に向けてさらに発展させるため、子 どもたちの健全育成を主軸に、市民こぞってかかわり、市民自らも育つ 図式を創ってまいりたいと考えております。
具体的には、以下の五点に重点的に取り組みたいと考えております。
【3】 平成20年度に設置した歴史遺産課が中心となり、市民が本市の歴史 について認識を深め、先人の偉業に学ぶことができる事業を広範囲にわたって取り組んでまいります。[11]
すなわち奥州市は、まちづくりの基本を歴史と通した人づくりを置き、その一環として吉川鉄之助の「大地の侍」が企画され、上演されたというわけです。
ひるがえって私たちの北海道はどうでしょうか? 今、長沼町の公式ホームページを見ても吉川鉄之助の名前は年表の中にしか見えません。長沼町の「第2期生涯学習推進計画」[11]を見ても、「生まれ育った国及 び地域への理解を含め、郷土に対する愛着や誇りを持った人を育み」という言葉はあっても「吉川鉄之助」の名前は一切出てこないのです。
吉川鉄之助といえば長沼町を切り拓いた人です。その人をまったく無視して郷土に対する愛着や誇りを持った人を育むことができるのでしょうか? このようなことが北海道の子供たちの郷土意識の低下を招いている気がしてなりません。
「大地の侍」上演を伝える地元紙。北海道では見られない文字が見出しを飾っている
【引用出典】
[1]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・124-125p
[2]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・133p
[3]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・127-128p
[4]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・128Pp
[5]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・129p
[6]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・138-139p
[7]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・141p
[8]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・155p
[9]http://www.tight-p.com/tickets/view/8776/index.html/
[10]https://www.city.oshu.iwate.jp/soshiki/73/1011.html[11]https://www.maoi-net.jp/gyosei/gakusyu.htm
【画像出典】
①長沼町観光協会『となりのながぬま-長沼町観光協会公式サイト』「https://naganuma-kanko.com/spot/264/
②『長沼町の歴史 下巻』長沼町・1962・265p
③ トップページ > 奥州市Web博物館 > 奥州市の紹介 > 奥州市の先人 > 先人に学ぼう https://www.city.oshu.iwate.jp/site/webmuse/4363.html