北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

中頓別町

楢原 民之助

 

楢原民之助 (出典①)

 

中頓別を開いた草分けの人 楢原民之助の物語をお届けします。民之助は北海道開拓の草分けの人には珍しい瀬戸内の小島生まれの漁師です。島の慣例に従って船乗りになりましたが、まさに波瀾万丈の運命の末、中頓別原野に入植することとなり、原野の単独入植という想像を絶する試練を乗り越え、この地の開祖となりました。民之助の努力でまちは拓かれていきますが、なおも民之助は繰り返し悲劇が襲います。人はどこまで苛酷な運命に耐えられるのか──教わります。以下『中頓別町史』より

 

■瀬戸内の小島に生まれた民之助 船乗りになる

楢原民之助は明治37年(1904)3月、原始の森を分け入って頓別原野に入植しこの地に仮小屋を建て、たったひとりで開拓に取り組んだ。このとき民之助は39歳、まだ頓別原野の奥地まで足を踏み入れて開墾を志す者は誰もいないときである。
 
無人の原野のなかで民之助は身の丈を超える笹を払い、頭上を覆う巨木を1本1本伐りたおし、わずかばかりの麦やソバの種をまいた。これが中頓別での開拓の始まりとなった。
 
民之助は慶應元年、瀬戸内海の芸予諸島の中心に浮かぶ大崎上島にある東野村で父、伊三吉、母、ヒメの次男として生まれた。生家は「小田屋」と名乗る旧家だったが家を継ぐあてのない男子は14、5歳になるとみな島を出るのがならわしである。多くは本土に渡って船乗りになったらしく民之助も「幼にして海員となり石川県の橋立の船主、「桶又」所有の和船「通商丸」に乗り組んだ。 

楢原民之助が育った
瀬戸内の風景(出典②)


  橋立(現広島県大崎上島町)は、江戸時代から日本海航路で蝦夷地へ往復する北前船の根拠地である。親方と呼ばれる船主の格式も高く「桶又」もその1軒である。
 
とりわけ水夫の雇い入れにさいしては「在所のなかでよく聞き調べ、多少働きが足りない者でも在所の者を優先的にとること。他国の者は身分を良く調べ、請け合い証文をとって雇うこと」という決まりがあるほどだった。明治になってからもこの伝統は続いていた。
 
他国者の民之助がこの北前船の船員に採用されたのは、よほど生家がしっかりしていたか、有力な保証人があったからだと思われる。首尾よく採用になっても最初の2年間は炊(カシキ)と呼ばれる水夫見習いである。
 
朝、暗いうちに起きて14~5人はいる乗組員の食事の支度はもちろん、帆柱にあがったり、雑用すべてを引き受けなければならない。まだ14、5歳の少年には厳しい仕事である。
 
港に着いても認守番役で船の保守や点検にあたらなければならないから上は許されない。ようやく炊を卒業しても、さらに炊上りを1年つとめて初めて一人前の水夫、若衆になる。
 
若衆は船の主力として船頭や表といわれる航海士の指示に従って航海中は1日6時間交替で勤務する。一旦、海が荒れると仮眠どころではない。不眠不休で船の安全を守らなければならない。港に停泊中も1時間交替で勤務につき、上できるのは停泊中に1日だけである。しかも船中のきまりで、喧嘩をつつしみ、奉公第1で勤務することが要求された。違反すると札付きの水夫として容赦なく追放され、他の船にも乗り組めない。
 
そのくせ給料は信じられないほど安い。楽しみは「切り出し」と呼ばれる航海ごとの歩合給と年の瀬に船を降りて郷里で迎える正月である。民之助もこうした苦労を重ねながら一人前の船乗りとしての腕を磨いたのだろう。
 

■2度の遭難 民之助 に上がる

民之助が23歳の時、ひとつの転機が訪れた。
乗船の「通商丸」が渡島沖で時化のために遭難したのである。民之助はどうやら命だけは助かったが、船は沈没し犠牲者も出たらしい。
 
西洋型帆船や汽船の出現で、和船による北前船の時代はようやく終わりを告げようとしていた頃である。この事件を契機に民之助は和船を降り、今度は函館でトップスル型帆船の「善通丸」に乗り込んだ。
 
当時、函館を基地とする洋式帆船は主にカムチャッカでのサケ漁に従事し、漁獲物の輸送や漁期が終わると北海道や、千島沿岸で漁夫や漁具などの輸送にあたっていた。
 
この時代に民之助は枝幸や紋別港にも寄港し、オホーツク沿岸の地理や漁業についての知識を深めたらしい。だが、折角乗り込んだこの船も日本海沿岸の岩内付近で遭難し民之助はまたしても命拾いをする。2度にわたる遭難事件は、民之助にこのまま船乗りを続けるのを断念させるきっかけになった。
 
船を降りた民之助は紋別付近で漁業経営を始めた。しかし漁家として漁師を使って漁業を営んだのか、あるいは漁師の網元に雇われていたのかはわからない。ちょうどこの時期は日本海沿岸のニシンの千石場所が北方に回路を変え、宗谷海峡からオホーツク海岸に移動してきたころである。
 
その群来を目指してオホーツク沿岸には多くの出稼ぎの漁師が集まってきた。新たに漁家になるのは資金や漁師仲間の規制もあって難しい。状況から見て民之助は船乗りで身につけた腕を買われて、網元の下で漁船の船頭か、舵取りのような仕事をしていた可能性が強い。
 
だが悪いことに明治25年ごろからようやく獲れはじめたオホーツク沿岸のニシン漁が、明治30年に入るとパタっと不漁になった。翌年も同じだった。こうなると民之助のようなにわか漁師は苦しい。
 

■頓別原野のゴールドラッシュ

そんなときに起きたのが頓別川支流ウソタン川とペーチャン川で発見された砂金ブームである。不漁に苦しんでいた漁師たちは争って砂金場を目指した。うわさは民之助の耳にも入った。
 

ペーチヤン砂金採取人
(明治30年頃 出典④)


どういういきさつがあったのかさだかではないが、民之助も明治32年、漁業に見切りをつけペーチャン川にあった砂金山に入り、河井愛次郎の砂金事務所の支配人になった。
 
当時ペーチャン川落合の小川付近で操業していた5つあった砂金事務所のひとつである。民之助はここで一旗あげようと全国から鉱区に入り込んでくる砂金掘りたちを相手に入山料を徴収し、日用品の供給や便宜などをはかる管理人のような仕事をしていたらしい。
 
一発当てればいいが、鉱区に入った砂金掘りの仕事は決して甘くない。男たちの多くは厳しい労働と1獲千金の夢破れて去っていく。元締めとして民之助もそんな姿をいやというほど目にしたに違いない。
 
このとき砂金鉱区から目と鼻といっていい近くで、道庁の手で進められていたのが頓別原野の新たな殖民区画の策定であった。明治13年から始まった頓別原野の殖民区画は、23年に原野19線〈現浜頓別町下頓別)まで行われ、23年にはさらに頓別川上流のペーチャン川との合流地点周辺からさらに上流の39線まで行われた。
 
当時の頓別村の人口は160人、戸数45戸(頓別村発達史)だが、住民のほとんどは頓別河口に近い沿岸部とその周辺で漁業や木材の伐採や積み出しをしていた。
 
すでに殖民区画が終わった枝幸村幌別では下幌別原野(歌登町)に明治30年から着手した桧垣農場があったが、砂金ブームが始まって以来、我も我もと小作人が砂金取りに山に入り、農場はさびれる一方だった。
 
明治38年2月の宗谷支庁の調査では小作人はわずか7戸に減っている。同じ時期に開かれた片岡牧場に至っては小作人も離散して誰もいなかった。原野の周辺には15戸の農家がいるほかは市街に近いウエンナイ原野には13戸、オチュシベッに5戸ほどの農家がいるだけだった(「殖民公報」29号)。これが頓別周辺の開拓地の状況だった。もちろん頓別原野にはだれも入植していない。
 
幸か不幸か、民之助の働いていた河井砂金事務所は明治34年には砂金の収量が落ち、入区料を支払う採取人も減って閉鎖になった。民之助も砂金山を下りるか、新しい職を探さねばならなくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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