北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

■民之助 開拓入植を決意する

東洋のクロンダイクと呼ばれた砂金山を下りた民之助は、このあと近くに居小屋を建てエゾシカやヒグマを追って猟師のような生活をしていたらしいが、はっきりしない。いずれにしろ民之助が頓別原野の開拓を思い立ったのはこの頃である。新しい殖民地はペーチャン川上流の砂金山から沢ひとつを越えればたどりつくことができる。
 
「頓別村発達史」によると民之助は明治35年7月、新たに殖民区画に指定された頓別川とペーチャン川の合流地点付近の「頓別原野」の調査に出かけている砂金場のあるペーチャン川の支流から24キロほどの上流である。もちろん道はないが、砂金山や猟師の暮らしに慣れた民之助にはなんとかなるだろうという自信があったのだろう。
 
当座の食糧を肩に川岸に分け入った民之助は、身の丈を超す笹やぶに足元をとられ、生い茂る巨木で昼なお暗い原始林のなかで、猛烈なヤブ蚊やブョの襲撃に悩まされながら、野宿を重ね、ようやく殖民区画のあたりだと思う頓別川の本流との出合いにたどり着いた。
 
トドマッ、エゾマツの針葉樹がうっそうとした山地と違って、笹の生い茂った川筋は広葉樹の森に代わっている。なかには幹回り1メートルを超すアカダモの巨木もあるが、まばらな立木を通して日の光を仰ぐことができる疎林地帯が川沿いにどこまでも続いている。笹やぶを切り開くのは容易ではないが、地味は豊かそうである。
 
そのころ、道内各地で行われていた開拓は、桧垣牧場や片岡牧場のように未開地の払い下げを受けた資本家による大規模農場か、移民団を作った本州の府県の集団移住による開拓が中心だった。個人での開拓者はまだ数少ない。
 
民之助も初めからたった1人で未開の原野に挑む気はなかったらしい。ペーチャンに戻った民之助はグループで開拓しようと、かつての砂金鉱区の仲間たちに声をかけた。「こんなバクチのような砂金を掘るよりもいまなら開拓した土地が只で手に入る。どうだ1緒にやらないか」とでもいったのだろうか。だが黄金に目が眩んでいる男たちのなかには民之助の誘いに応じるものは1人もいなかった。
 

民之助も見たであろう中頓別のシンボル ピンネシリ岳 (出典③)

 

■頓別原野36線 植民区画の払い下げを受ける

翌36年夏、山を下りて枝幸町郡役所に出向いた民之助は、備え付けの殖民区画図をもとに見当をつけた頓別原野36線の殖民地3区画(40005000坪25ヘクタール)の貸し付けを申請した。小区画の貸付地積は原則として1戸に付き1区画である。5町歩以上の開拓期間は6年間である。この間に開拓に成功しなければ、土地は返還しなければならない。
 
貸付台帳によると民之助の提出した開拓計画では、年に7反2歩、6カ年で4町3反歩にしかならないが、8月10日に申請を受け付け10月10日に3戸分の許可が下りている。
 
普通、1町歩を開墾する人数は草原で4人から8人、樹林地では8人から20人の人手が必要といわれた。民之助の開拓計画では期限内の開拓はとうてい無理だが、民之助が貸付申請をしたときは頓別原野36線には、競合相手どころかほかに申請をする者もいない。郡役所としても原野の開発を奨励する意味もあって、多少計画に無理があっても申請通り許可が下りたのかも知れない。
 
ともかく民之助は希望に燃えていたに違いない。成功すれば自分の土地になるのである。瀬戸内海の小島で親代々猫の額のような土地にしがみついてきた郷里からみれば途方もない広さであった。
 
開拓の着手は貸付許可から6カ月以内にしなければならない。ペーチャンの居小屋を引き払った民之助は、明治37年3月、枝幸町で鍬、鎌に斧、それに鍋、釡など開拓道具1式を買い整え、当座の食料などを背に雪解けを待たずに頓別原野を目指した。
 

■伐って伐って 燃やして燃やして 

民之助の頓別原野へのコースは、枝幸から上幌別原野を経てパンケナイ川をさかのぼりポロヌプリ岳のふもとを巻き、山を越えてペーチャン川の上流に出て、さらに頓別川との合流地点近くまでの道である。途中までは民之助の働いていたペーチャン川の砂金山に向かう刈り分け道路が、あるが峠を越えれば、あとは道もなにもない原野である。
 
山はまだ一面の雪に覆われていたが、その方が夏草の生い茂った夏よりは歩きやすかった。それでも大きな荷を背にした民之助の歩みは遅々としてはかどらない。
 
暗くなれば木の下で火を起こして野宿をし、夜が明ければ原野のなかの道のない道をたどり、枝幸から数日をかけてようやく頓別川のほとりにたどりついた。川岸の付近一帯はトドマツやエゾマツの巨木に覆われていた山中と違って、ところどころに直径1メートル近いヤチダモの巨木が目立つ程度で、まばらな広葉樹の林が続いていた。
 
「ここなら巨木を倒さなくてもなんとか開墾できそうだ」と民之助が目を付けた場所である。民之助は休む間もなく雨露をしのぐ仮小屋の建設に取りかかった。小屋といっても残雪を掘り起こした地面の上に木の枝を組み合わせた骨笹の枯れ葉を重ね合わせた屋根を葺いた「拝み小屋」である。
 
内部にも笹の葉を敷き、体を横たえるこようやく小屋掛けの終わった民之助は周辺の樹木の伐採に取りかかった。春が来る前にできるだけ木を倒し、開墾の準備をしなければならなかった。
 
たった1人で開拓に取り組む民之助は、幹回り1メートルもある巨木を倒している閑はなかった。大きな木は後回しにして、とりあえず種をまく土地を確保するために小木を伐り倒し、笹やぶを切り開くだけで精一杯である。切り開いたクマ笹や根曲がり竹は火を放って焼いた。来る日も来る日もその連続だった。まわりには野焼きの煙だけがたちこめていた。
 

■最初の収穫は大豊作

食糧の確保も大きな問題だった。やがて枝幸から持ってきた食糧が底をつき、買い出しに行かなければならなくなった。枝幸までは順調にいっても往復10日、雨にでも降られたら10数日かかった。そんなに苦労して麦、味噌を背負ってきても、途中の食いぶちにあらかたとられ、戻ってきた時にはいくばくも残っていないことがしばしばだった。食糧運びにばかり力をいれていては、開墾はいつになるかわからなかった。
 
事実、この年は春になっても種まきどころではなかった。民之助は空腹を満たすために野に出てフキやアザミなどの野草を採り、秋になると頓別川にでて、川をさかのぼるサケやマスを捕っているうちに、いつしかその方が常食になった。開拓といっても、生きていくための戦いといった方が早かった。
 
ようやく伐り開いたわずかばかりの畑に麦やソバ、そして馬鈴薯、カボチャ、イナキビ、豆などを播くことができたのは翌年である。
 
驚いたことに収穫はどれも大豊作であった。とりわけ馬鈴薯は径10センチもあろうかと思われるのがごろごろと穫れたことである。頓別川が生み出した豊かな沃土の産物だった。
 
冬の間の食糧難から解放された民之助は、この成果をもとにペーチャン川の砂金山や枝幸に出た時、開拓の仲間を勧誘した。時には紋別まで出て1緒にサケ漁をしたときの仲間にも声をかけたが相変わらず応ずる者はいなかった。
 

■桑原弥市、道徳安二が隣に入植

明治40年、36線に最初の隣人が現れた。桑原弥市がアイヌのアイソ、ショコシを道案内にして天塩国中川村ポンピラから天塩山地を越えて頓別川をくだってやってきたのである。
 
桑原の来た道は古くから頓別アイヌと天塩アイヌが往来する道である。同じ年の2月、今度は頓別川とモウッナイ川の分岐点近くの「原野25線」(現弥生)にも移住者が現れた。家族7人、小作7家族、28人を引率して入植した佐藤弥作である。
 
隣人といっても原野36線からは頓別川の下流6キロほどの地点である。もちろん道もない。姿も見えなければ声を聞くこともない隣人である。しかし相次ぐ原野への移住者の出現はたった1人で開拓に励んできた民之助を勇気づけたに違いない。
 
これを皮切りに明治41年3月には道徳安二が多数の家族と農家7戸42名とともに36線に移住、5月には岐阜県出身の桑原政吉も家族とともに入地した。9月には頓別港で商店を経営する大沢政次郎が店を畳んで36線に移転してきた。待望の商店第1号である。
 
こうして明治42年には36線周辺の移住者は戸数20戸、人口88人を数えるまでになった。野の真ん中に小さな集落ができ、人口が増えるにつれ子供たちの教育が大きな問題になった。当時、頓別村にはオホーツク沿岸の斜内に寺子屋式の簡易教育所があるだけである。
 

■村人たちは学校をつくる

明治42年、村人たちはみんなの手で草葺き掘っ立て小屋の教育所を作った。いまの中頓別小学校の前身である。民之助はこのとき汗水を流して開拓した「35線南1番地」の所有地3アールを学校の敷地として寄付している。
 
このころ、民之助は原野19線に住む後藤竹蔵の妹セイと結婚していた。後藤は佐藤と同じ徳島県鷲敷町の出身、明治39年、1族30人近くを引き連れて天塩国士別に移住したが開拓が思うにまかせず、41年2月、19線に移住した。
 
後藤が来た時、19線の先住者は高藤、斉藤の2軒があるのみだった。民之助がセイと一緒になったのは後藤が19線に入植した直後である。原野住まいの先輩として1族の面倒をなにくれとみたのがきっかけだったのかも知れない。ともかく2人は急速に親しくなったらしく、翌明治42年2月25日には長女静江が誕生している。
 
このとき民之助、44歳、セイは24歳である。遅過ぎる結婚だったが民之助にとってはやっと手にした家庭の幸せである。教育所設置の話がでたとき、やがて生まれてくるわが子のために喜んで自分の土地を提供したのだろう。
 

■民之助を襲う不幸の連続

だがそれもつかのま、静江はわずか生後1週間で12月2日死亡している。44年2月には次女、小菊が生まれたが喜びもつかのま産後の肥立ちが悪かったせいか、今度は1週間後にはセイが死亡するという悲運に見舞われてしまう。
 
このころセイの実家の後藤一族も36線に移ってきたので、なにかと頼りにしたかも知らないが、妻を失い生まれたばかりの嬰児と取り残された民之助はさぞかし途方に暮れたに違いない。
 
だが大正2年、草小屋の教育所を木造校舎に新築することになったとき、民之助は学校敷地の寄付に次いでこのときも105円の大金を寄付している。個人としては部落部長をしていた道徳安2の209円に次ぐ高額である。
 
セイの忘れ形見、小菊の入学を心待ちにしてのものだったかも知れないが、その小菊も大正3年4月、わずか3歳でこの世を去っている。小菊の死は頓別村だけで死者20数人を出したというジフテリア流行の犠牲になった可能性が強いがさだかでない。いずれにしろ、この時期の民之助は決して豊かだった訳ではない。それどころか多額の負債を抱えていた。
 
貸付台帳によると、民之助の開拓地の無償付与を受けたのは最終的に明治44年になっているが、この成功検査を受けるたために、民之助は多額の借金をして人夫を雇い、あるいは小作人を入れて開き分けをして開拓を急いだらしい。この結果、民之助は負債を返すために多くの土地を手放し、最後にはかろうじて食べていくだけの3アールの畑だけが残った。
 

■民之助 信仰にのめり込む

たった1人になった民之助は、このあと急速に信仰の世界にのめりこんでいく。そんな民之助の姿を「頓別村発達史」の著者は同情をこめてこう書いている。
 

 

「君は斯の如く、困難と障碍に土地の成功遅延するは当然なるべきも、真面目なる性とて事業程度の伴わざるを憂い、費用を投じ、又は開き分け等の方法に出でたる為め、巨額の負債生じて苦心の成果を維持し兼ね、今は僅かに3反歩を剰すのみ。6年前妻君を失い、次いで3年前1子病没の厄に遭うて、転々人生の悲惨事を重ね、爾来天理教の信仰に耽り、世と関せず。風雨を凌ぐ小屋に随居して空しく原野草分けの名残りを止むるのみ」
 
そんな民之助の境遇に同情した部落民が相談して、民之助のために未開地1戸分5ヘクタールの払い下げを求めようとしたらしい。だが、たった1人で原野を伐り開いた男にとって誇りが許さなかったのだろうか。
 
民之助はこうした動きを拒否するかのように大正7年3月、住み慣れた頓別原野をあとにして生れ故郷の東野町に戻った。生家では両親や兄はすでに亡くなっていたが、義姉のカメの世話になり、昭和7年、68歳で亡くなるまで自適の生涯を過ごしたらしい。
 
幼い頃、晩年の民之助と一緒に暮らした甥の正明は「伯父は大変もの静かな人でした。釣りが好きで、釣り竿をさげてよく海にでかけていく姿が記憶に残っています」と話している。民之助の墓は同町古江地区の瀬戸内海を見下ろす段々畑のミカン畑が続く丘の上に建っている。
 

■令和元年 母村に記念碑立つ

 

移設された楢原民之助の
墓所(出典④)

楢原民之助記念碑除幕式
(出典⑤)

楢原民之助の業績を伝
える看板(出典⑥)

 

 
 
 
 
 
以上が「中頓別町史」からの紹介ですが、2019年6月、うれしい話がありました。中頓別町の姉妹都市を結んでいる大崎上島町の旧東野町が提携30年を迎えたことを記念して、大崎大島町の町民有志7名が呼びかけ、山の急斜面にあった楢原民之助のお墓を、楢原家が代々眠る墓所に移し、あわせて大崎大島町役場前に「楢原民之助記念碑」が設立されたのです。開拓の歴史が風化する中、心温まるエピソードでした。
 

 


【出典】
『中頓別町史』1997・中頓別町役場・129-141p
 【写真出典】
①②『中頓別町史』1997・中頓別町役場・129p 神峰山(かんのみねやま)
②大崎大島町HP>TOP>分野>観光スポット 
http://www.town.osakikamijima.hiroshima.jp/docs/2014022500033/
③宗谷振興局HP>そうや手づくりギャラリーアーカイブス 
http://www.souya.pref.hokkaido.lg.jp/root/main_link/gallery/fukei.htm
④⑤⑥ 中頓別町広報課『広報なかとんべつ NO715』2019/7 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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