[足寄町] 大蝗害 明治政府を震撼させたバッタ食害
■日蝕のように空を暗くしたバッタの大襲来
挿絵はウィキペディアの「蝗害」
から取った西洋のものですが、
北海道でも同様だったでしょう(①)
トノサマバッタ(ダイミョウバッタ=蝗=いなご)の大発生は、明治13(1880)年から6年間にわので、わが国の虫害史上、特筆すべき内容をもっていた。
もっとも当時は、十勝国全体の総反別が1町8反5畝よりない時代であったから、それが全滅したところで大被害をこうむったことにはならない。
だが、石狩国や函館地方の先進地が不毛に帰するおそれがあり、さらには海を渡って本州方面の穀菜を食い尽くす恐れがあっため、中央政府も、よんどころなく、バッタの発生とみられる十勝原野を注目しなければならなかった。
明治13(1880)年8月、十勝国の中川・河西郡ほかに発生したと推定されるトノサマバッタの大群は、日高山脈を飛びて胆振国勇払郡に至り、一群は海岸線を虻田郡に向い、一群は北に方向を転じて石狩国札幌郡に向った。
数千万数億匹のバッタが空をおおって襲来してくると、天日ために暗く、あたかも日蝕のようであったという。
ひとたび地上に降下すると、畑作物といわず雑草といわず、これを食べ尽しては、どこかへ飛び去った。緑の野は、たちまちにして赤褐色に変じ、住民は呆然として惨状を見守る以外にすべはなかった。
■1200億匹 明治新政府を震撼させる
開拓使は、さっそくお雇い外国人や吏員を出張させて日高国地方の駆除に乗りだし、発生地の十勝原野を調査させたりしたものの、そのうちに冬がやってきて、なにほどの効果も収めることができずに第1年は終った。
したがって翌年も、その翌年も大発生をみたばかりでなく、バッタは増えることはあっても、いっこうに減少しそうになかった。
明治16(1883)年8月4日には、帯広地方を襲った。たまたま、その年に集団移住した晩成社開拓団の第1回報告書には「蝗虫、日光を遮りて飛来りて穀菜を蝕害し、野に青色なきに至る。ただ小豆・瓜類は免れたり」と書かれている。
この事件は、開発に着手してまのない北海道としては手に余る大問題であった。そこに開拓使を廃して3県に改め、権限が縮少されるという事態も発生(明治15(1882)年2月)して、農商務省が直接「バッタ退治」のために腰をあげざるを得ないこととなった。
明治16(1883)年12月、農省務卿南郷従道が、太政大臣3条実美にあてた上申書によると、それまでに7440石あまりの卵と2223石あまりの蛎(さなぎ)=計算してみると364億290万匹分になる=を駆除したが、いかにせん「原野の広き、数百里」にわたるため、効力うすく「是まで消費せし十数万円も水泡に属」するおそれがあるから今後も駆除を続行しなければならない、旨が述べられている。
そこで明治17(1884)年度には、十勝国だけで日給50銭の人夫を延3万人働かせる計画が立てられた。産卵地の掘り返し賃は坪2厘、蛹(さなぎ)の買上料は1升2銭、卵は1升15銭として予算が組まれていたが、これは明治15(1882)年度の卵1升30銭ないし40銭、蛹1升4銭ないし8銭に比べると、かなり割安になっていた。
明治17(1884)年度、札幌県(十勝国は札幌県内で最大の発生地)における駆除実績は、採卵2万3677石あまり、捕殺した幼虫8929石あまり。これを虫の数に換算すると、1200億匹をゆうに越え、しかもそれらは発生数の一部にすぎなかったから、このときのトノサマバッタの異常大発生が、いかにすさまじいものであったかがわかろう。
■アイヌ、バッタ駆除に活躍
主要河川の沿岸地滞には、札幌県の吏員や下請業者にひきいられたバッタ採り人夫の群がはいり、各地に卵や幼虫を埋めた土饅頭(まんじゅう)を築いた。これを「バッタ塚」と呼ぶ。
芽登地区の古老ほかの聞書によれば、大正2(1913)年当時の開拓初期には、芽登川の上流に高さ約1メートル、直系約2メートルの土鰻頭が20以上もあり、老人たちが「昔、日高からバッタを追ってきたアイヌたちが、これを作ったそうだ」と語ったという。
もしそうなら、この芽登のバッタ塚は、明治14(1881)年から17年までのあいだに利別川筋から美里別川筋に折れてさかのぼったバッタ退治の一隊が芽登川まで川筋をつめ、そこにかなりの規模の産卵地を発見して、これを駆除したことを推測させる。
中川郡と河東郡との境界線とされていたシホロ川筋の蝗虫捕獲記録によると、バッタ採り人夫はアイヌが多く女も含まれていた。
■明治17年、突如として消える
このバッタ騒動は、いつ果てるともなかったが、自然の力で終結した。
明治17(1884)年9月、十勝国の産卵地帯に冷い長雨が降り続き、卵は孵化できず、孵化しても羽化できず、羽化しても力弱く、いたずらに鳥の好餌となり、大部分が死滅してしまい、翌18年にはもはや大発生をみなかった。
自然の力によって明治17(1884)年を限りに、あっけなく終局を告げたが、前後6年にわたるトノサマバッタの駆除事業は、はからずも十勝開発の呼び水となった。
十勝原野の存在は為政者たちの注目を浴び、現地を踏んだ調査官・駆除監督官らによって、農牧に適した将来性に富む大平原であることが喧伝された。
この地を明治14(1881)年10月に踏んだ開拓使御用係の田内捨六、内田瀞は
「総じて十勝全国は林野草原相半ばし、もっとも天造の大なる牧場の如し」と判断し「方今、開拓に従事せんとするもの、独り石狩原野あるを知て十勝地方に注目する者、極めて少なきは何ぞや。他なし。道路の開設なく、災実境を知らざるに是由るのみ」と強く訴えている。
また、十勝国内開発の先駆になった晩成社開拓団にしても、蝗害調査に当った札幌県勧業課員渡瀬寅次郎の進言にもとづいて帯広地を開墾地に選んだのであった。
※『足寄町史』によれば明治16(1883)年までに10数万円の国費が費やされたことが記されています。翌17年はさらに多額の駆除費が費やされたようですから、明治政府が北海道のバッタ駆除にようした費用の総額を仮に20万円とします。財務省による「明治初年度以降一般会計歳入歳出予算決算」によれば明治15(1882)年の歳出予算額は6681万4122円です。国家予算の約0.2%という計算ですが、現在の換算では約100兆円の国家予算のうち北海道開発予算が5000億円ですから、明治政府がバッタ駆除に費やした国費は北海道開発予算のおよそ半分という比率になります。いかに北海道の蝗害に脅威を感じていたかが伺えます。
【引用出典】
『足寄町史』1973・足寄町・112~115P(漢数字から算用数字に直し、和暦に西暦を併記しています。一部順番を入れ替えています)
【図版出典】
①ウィキペディア「蝗害」(ブレーム動物事典(第二版)挿絵)https://ja.wikipedia.org/wiki/蝗害