北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道の西本願寺(3)
現如上人の本願寺道路の開削

 

蝦夷地が北海道となり、いよいよ北海道開拓が本格的に始まります。その先鞭を切ったのは浄土真宗の門主と信徒でした。西本願寺の歴史を紹介するシリーズですが、今回の主役は後に東本願寺第22代門主となる若干19歳の現如上人です。

 

■東本願寺の開拓願書

明治2(1869)年5月、旧幕府軍を率いて函館を占領した 榎本武揚が降伏すると、内乱は終結し、1年遅れて北海道は明治維新を迎えます。
 
明治2(1869)年、明治天皇は中納言鍋島直正に命じて7月に開拓使を設置、8月15日には蝦夷地を「北海道」と改称しました。これより本格的な北海道開拓が始まるが、日本の版図に突然開けた広大な北の大地を巡って、宗教各教団の布教競争も激化しました。
 
先鞭を打ったのは、松前藩時代に強大な権勢を誇っていた本願寺派でした。早くも明治2(1869)年6月に「北海道開拓願書」を新政府に提出します。そこにはこう記されていました。
 

今般蝦夷地御開拓の御主意御下問有之候由奉拝承候、然る処私門末の儀は、従来松前並に蝦夷地に5ケ寺掛所取立、出稼の人数是までも教導仕居候処、日増帰依の者有之候。就ては蝦夷地の義は周囲のみ道路有之、山中一切道筋無之、何分不自由之地に御座候間、為冥加如何様の御奉公も可仕候得共、差当り新道切開、石狩、久摺、十勝之深山も追々4通8達の域に相成候様致し、且有志の輩は所々新開村落移住為致、彼地土人は不及申、諸方より出稼之者も異教に流れ不申様仕、報御国恩度奉存候[1]

 
本願寺の力によって道内内陸部の道路開発を行い、門徒の移住によって北海道開拓を進めることによって、アイヌ民族はもちろん、諸方からの出稼ぎ者が異教=キリスト教に染まるのを防ぐことが、お国に報いることである――と言うのです。
 

■明治維新とキリスト教

ここで明治政府が、キリスト教をどのように受容していったか、簡単に振り返ってみましょう。江戸幕府に代わって政権に就いた明治新政府の要人も、元を正せば薩長土肥の士族であったりします。
 
けっしてキリスト教に対して寛容であったわけではありません。明治政府がキリスト教を解禁するのは明治6(1873)年2月の禁制高札の撤去によってでした。それまでは、江戸幕府同様の厳しい目をキリスト教に注いでいたのです。
 
しかし、時代には逆らえず、外相井上馨などの働きかけによってこの年に、太政官布告第68号により日本におけるキリスト教は解禁されました。
 

■仙台藩士のキリスト教入信事件

さて北海道の函館は、ペリーによって横浜、神戸と並んで日本の開港地に指定されました。安政5(1858)年に幕府はロシアと日露修好通商条約を締結、翌年にロシアは函館に領事館を置くとともに、ハリスト正教会の聖堂を設けました。文久元年にニコライが函館に赴任し、幕末から明治維新にかけて積極的な布教活動を開始しました。
 
明治維新によって幕府が倒れると、希望を失った旧士族がロシア正教に帰依するようになりました。明治4(1871)年、元仙台藩士85名のキリスト教入信が発覚して大問題となりました。
 
明治6(1873)年にキリスト教解禁を控えた明治政府は、開拓使に藩士を赦免するように指示しますが、開拓使は「罪人であるから宮城県に送還する」と言いました。受入先の宮城県は「このご時勢そのような処置を取ることは対外的にも問題がある」として受け入れを拒んだ。やがて明治6(1873)年のキリスト教解禁を迎え、旧藩士たちは無罪放免となりました。
 
開拓使の黒田次官はこの前年にケプロンの招聘につながるアメリカ視察から帰ってきたばかりでしたが、黒田はキリスト教に対してかくのごとく強い嫌悪感を持っていたのです。
 
 

■現如上人、北海道へ渡る

キリスト教が解禁されると函館ではダムが決壊しかのごとく、東西新旧のキリスト教教団が拠点を構えて布教をはじめました。黒田たち開拓使はこれを苦々しい思いで見ていたに違いません。そうしたなかで北海道開拓によって異教の拡大を防ぐという東本願寺の申し出は願ったり叶ったりでした。
 
一方、明治新政府により廃仏毀釈が猛威を振るい、長年江戸幕府の庇護受け幕府方とも思われていた東本願寺が新政府に忠誠を示すには格好の機会でした。
開国によるキリスト教の普及を恐れる開拓使は、すぐに東本願寺の願書を受け入れました。まず調査隊が編制され、松浦武四郎の指導を受けて、新道の開削を計画、そして道内10数カ所に寺を建てることとし、その場所も選定しました。
 
翌明治3(1870)年には総勢100数10名の東本願寺による開拓隊が京都を出発しました。総統として率いるのは当時19歳、門主嚴如上人(大谷光勝師)の後継者である現如上人(大谷光瑩師)です。
 

現如上人①

 

■秋田の法難

「勅書」「開拓御用 本願寺東新門」と書かれた幟を先頭に京都を出発した現如上人一行は、東海道から木曽路に入り、信州から越後を経て山形、秋田、青森というコースで函館に上陸する計画でした。
 
しかし、時あたかも廃仏毀釈の全盛期で、山形県の尾花沢を通過するとき、秋田にあった久保田藩の使者が訪れ、「本願寺の一行が当藩を通行するのは迷惑億です。滞留を認めない。1日10里歩き続けて通過してくれ」と強硬なお達しがありました。
 
 現如上人は、北海道開拓という使命があることを伝えようと藩知事に使者を送るが、取り合ってくれない。しかたなく言われるまま藩内を不眠不休で駆け抜けるこことしました。
 
6月5日、久保田藩の藩境に来たとき、とつぜん騎馬武者5~6騎が追いつき、「しばらく――」と大声で駆け寄り、「是非とも別の道を選ばれるよう」と言い残して立ち去ってしまいました。
 
「無礼者」と憤慨する従者を現如上人は諫め、久保田藩領内を通過することを止め、本荘にあった善応寺に落ち着いて爾後策を検討するこことしました。もしもこのときに騎馬武者の言葉を聞き入れず、領内を通過していれば、上人に大変な難が襲いかかったかもしれない。
 
御仏の導きと言うべきか、偶然、金剛丸という北前船で北海道と通商していた加賀の熱心な門徒が居あわせ、この者の計らいで久保田藩を船で迂回して、深浦まで行き、そこから青森に向かうことができました。
 
このように排仏派の妨害を受けることもでしたが、前に進むほど同行を願う門徒の数は増え、金品の献納も増える一方でした。
 

現如上人北海道巡錫錦絵①

 

■本願寺道路の開削

金剛丸で深浦に上人一行を下ろした金剛丸は一足先に江差に着いました。現如上人一行の渡道を予告したため、道内の門徒は大騒ぎとなり、函館にいた東久世開拓使長官は官船を差し向けて青森の上人一行を迎えました。
 
7月7日、大勢の門徒が歓迎する中、函館に到着した現如上人一行は、東久世長官を訪ねて挨拶し、さっそく道路開削にかかってしまいました。
 
このとき、東本願寺が着手したのが後に「本願寺道路」と呼ばれる札幌から伊達村尾去別に到る26里10町の新道です。この道は、函館と札幌を結ぶ基幹道路として、かつて近藤重蔵が踏破し、松浦武四郎も通った道で、武四郎からの助言によって開くことになったものでした。
 
工事には宇野3右衛門、尾崎半左衛門の両名が現場監督となり、総工費10157両、延人員55000人を費やす道内最初の大規模土木工事でした。1年という短期間で113箇所の橋を架け、幅3メートルの橋が明治4(1871)年10月に完成しました。主力となったのは明治2(1869)年に北海道に渡った亘理伊達藩の移民でしたが、アイヌの人たちも工事に参加しました。
 

現如上人北海道巡錫錦絵②

 
 

■東本願寺札幌別院の開基

この工事を監督した現如上人は、明治3(1870)年、現在の東本願寺札幌別院の場所に「勅賜東本願寺管刹地所」との標識を立て、札幌における東本願寺の基を開いました。そして明治3(1870)年8月に帰路に就き、9月21日に父である第二0代門主嚴如上人に報告して事業を終えました。
 
 現如上人一行は順路の到るところで北海道移住を進め、全国の末寺に「開拓の頼踏13箇条」というパンフレットを配って移民を薦めました。これを受け、明治初期に札幌·石狩には多くの東派門徒が移住しました。
 
明治6(1873)年頃には「札幌会所管内の10に7~8は真宗の徒」と言われるほどとなっています。
 

現如上人北海道巡錫錦絵②

 
 

■現如上人の功績

都市としての札幌を拓いたのは島判官の活躍ですが、街としての札幌の基盤を作ったのは現如上人であったと言えるかもしれない。函館市の称名寺住職·須藤隆仙が昭和40(1965)年に著した『北海道と宗教人』はこう評しています。
 
当時、北海道は海産物が豊富で漁業に好適であることは、内地の人たちも知っていましたが、寒いため農業に適するかどうか、首をかしげるものが多かったようです。
 
しかし、彼が北海道開拓の指揮をとるというので、信徒は心配をおして移住を申しでました。真宗人の門主に対する信仰はたいへんなもので、門主は親鸞聖人の直流である、ということから、新門主の渡道をもったいないと泣き、その趣意にそうて移住することこそ、宗祖報恩の最善策だと考える人がでてきたのです。
 
弱冠19歳で多くの開拓移民の中核となり、開拓推進に身を挺した彼に北海道人は多大の讃辞を惜しまないであろう。
 
なお、現如上人はその後明治5(1872)年に奥州を遊学、明治22(1889)年に東本願寺の門跡を継いで大正12(1923)年8月に亡くなりました。
 
晩年「自分の遺骨は分骨して北海道の地に埋めてくれ」と言い残し、昭和9(1934)年に藻岩山山麓に御廟をたてて祀ったのが今の北海廟となっています。
 
 

 


【主要参考文献】
[1]北海道開教史編纂委員会『北海道の西本願寺』2010・札幌別院
本願寺史料研究所『増補改訂本願寺史』2015·本願寺出版社 
須藤隆仙『日本仏教の北限』1966·教学研究会
須藤隆仙『北海道と宗教人』1970·教学研究会
北海道開教史編纂委員会編『北海道の西本願寺』2010·北海道開教史編纂委員会
①西本願寺公式サイトhttps://www.hongwanji.kyoto/
②函館市中央図書館デジタル資料館 http://archives.c.fun.ac.jp
 

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