[むかわ町] 入鹿別道路開削 水野戸長の壮絶な死
北海道の道路は、痛ましいタコ部屋労働、囚人労働によって造られたことばかりが意図的に強調され、それによって北海道開拓のイメージが悪くなっています。しかし、当然のこととして北海道のすべての道路がタコ・囚人によってつくられたのではありません。多くの道が住民自ら、すなわち開拓者自身によって開かれました。道路は開拓に必須のインフラです。道路を造るために開拓地では大変な努力がありました。『鵡川町史』(1968)から入鹿別道路、現在の道道10号千歳鵡川線の開削に努力した水野忍戸長の痛ましい話をお届けします。
■第四代戸長は元騎兵隊
第4代戸長は水野忍で、明治35年11月30日から39年1月31日まで3年2カ月間在勤した。当時は開墾の進むにつれ、新道の開さく、農業・漁業・林業の開発など行政面でも多事多端な時代であった。その上、皇国の興廃をかけた日露戦争の勃発は、全国民の悲壮な決意のもと、総力を結集してこれに当るほかなかった。従って、村行政もそれぞれ非常事態に応じる積極的非常処理が必要であった。
着任早々の明治36年4月、萠生小学校正規の校舎を現在の春日3区の丘の上に完成した。この校舎新築には、同校の前身である私設教育塾の運営に尽力した大川原カチャシヌの長男コピサントクを代表とする部落民一同の大きな協力があったが、敷地の確保や建築役として官費700円の支給を受けるなど、水野戸長の奔走努力に負うところが大きかった。
明治34年8月、閑院宮載仁親王殿下が宮内省主馬頭藤波子爵の案内で新冠御料牧場へお出でになった。途中、侍従武官その他の随員一同と鵡川市街で休憩された。御休憩所には佐藤辰之助宅があてられ、村民こぞって心から奉迎申し上げた。殿下と同じ騎兵科出身ということで特に軍服姿の佐藤秀成(前郵便局長)が御給仕役を勤めた。日露大戦争直後の軍国調の現われでもあったろうか。あるいはまた、水野戸長が軍騎兵大尉であった事情もあってか、その日の接待は万事軍隊式に行なわれた。殿下もまた頗る御満足であったという
このほか、水野戸長の任期中、明治38年から三井物産と王子製紙両会社の進出があった。大がかりな造材・原木流送・苫小牧への輸送・関連施設用地の買収など、活気溢れる企業との折衝その他で多事多端であった。[1]
※鵡川町の萠生小学校(後の花岡小学校・2004年閉校)の開校に、鵡川アイヌの大川原カチャシヌとその長男コピサントクが尽力したことが伝えられています。アイヌが開拓に尽力した証拠がまた一つ見つかりましたが、今回の本筋では無いため、あらためて紹介します。
■想像を超えた難工事
入鹿別(現在の道道千歳鵡川線)道路開削は、当初誰も想像しえない大工事となった。1700町歩と称された入鹿別原野はほとんど未開の湿地帯で、人家とてなく、いたるところ潅木やヤチ坊主が散在し、これらを縫ってようやく伝い歩く程度の小道があった。
この小道が当時沼の端方面に出る最短通路であったため、利用価値はきわめて高く、村の発展に備えて特に開さくを急いだようである。この工事の請負責任者は植木清吉・清水徳一郎、帳場(事務会計賀任者)は木村文吉(後に平取村第10代戸長として大正7年から大正11年まで在任した)であった。
明治35年に着工したが、その設計は現地の実態とかなり相違して非常な難工事であった。その上、働く者は専門土工夫ではなく、ほとんどが現地農民で、開さくははかばかしく進まず、工期の長びくにつれ、資金繰りや就労者集めなど工事促進上非常な困難が続いた。その他の道路工事や護岸工事、排水工事をはじめ、市街地形成のため良の水源地を求める計画など、地域開発の基盤となる各地の土木工事が次々に続いていった。[2]
ここで注目してほしいのは「働く者は専門土工夫ではなく、ほとんどが現地農民」という記述です。明治35年ですから、「現地農民」は入植間もない開拓民です。鵡川の開拓者は自分たちの営農も覚束ないのに村の発展のために道路開発の肉体労働に汗を流したのです。
■水野戸長、切腹する
士族の家に育ち、名門水野家を継いで、名誉を重んずる軍大尉として人一倍責任感の強い戸長であった。「各種土木工事の遅延や資金難など、積極行政の行き詰りに対し、一切の責任を一身に負うたものであろう」と、働き盛りのその死は深く村民から惜しまれた。(余話篇照)[3]
あまりの難工事のため工事遅れの責任を取って水野戸長は切腹を致しました。これが明治の士族、武士の家に育ったもののふの責任の取り方です。戸長の行為に難癖をつける人がいるとすれば、歴史に対する想像力の欠如でしょう。水野戸長が幕藩時代さながらに切腹という方法を選んだのは、この工事に住民が人工として多数関わっていたから、入植者の期待に応えられなかったからではないでしょうか。
戸長の死は大きな衝撃を与えました。『鵡川町史』は「余録」というページで推理小説さながら、証人を探して割腹自殺の原因追及を行っています。
昭和38年の米の出荷風景ですが、鵡川の発展に入鹿別道路が大きく貢献したことは確かです(出典①)
■『余録』水野戸長の最後
明治39年1月30日夕刻、凄絶な死を遂げた4代戸長について古老布施ハツエさん(布施健二郎夫人・明治18年生)は次のように伝えている。
……水野戸長さんは、村の発展にはとくに積極的に活動され、数多くの業績をあげられた方と承知しております。自害された原因については、おそらくあの難渋した入鹿別道路のことでないかと思われます。
ちょうどあの日は、室蘭支庁からこの工事の監督に〈ちさ〉という方が出張されて、わたくしども(布施旅館)へ泊られました。水野戸長さんがいなくなったというのは、この日の夕方でした。
正月の月ももう終りでしたが、「井目戸の中山武二さん(医師)へ年始に行く」といわれて早目に入浴をすませ、着衣一切を着替えて出かけたそうです。中山家からは長男の武夫さんが鵡川橋まで送ってこられたが、「もうよいから」といわれたので引返したそうです。
ところが、あまり帰りが遅いので、戸長夫人が中山さん宅へ連絡をとった結果、騒がしくなりました。
戸長夫人がタンスの引出しの中にあったはずの短刀のないことに気がついたことから、騒ぎは一層大きくなりました。あちらこちらを探したあげく、今の2区と3区の間から川原におりた井戸の付近で、まわりの雪を真赤に染めて痛ましい最期を遂げておられたのが見つかったそうです。
また古老神野アイさん(神野政光夫人・明治23年生)は
……当時主人政光は、役場に奉職して間もない時でありましたが、「水野戸長は、軍人として鍛えあげられた方で、平素からきわめて責任感の強い性格だったから、工事の遅延を苦にした結果でないか」と語っていました。
と記憶をたどって述べている。
水野戸長を偲ぶ 中山長太郎(明治26年生)手記
その頃小学校は現在の苫小牧信金支店のところにあり、役場は小幡組のところにあったので、戸長は毎朝早く学校の運動場へ、新聞を読書しながら散歩にくるのが日課のようになっていた。
いたって厳格な戸長だった。祝祭日などの儀式には必ず列され、うっかりわき見などすると、大喝一声、怒鳴られたこともあったので、今でも戸長の顔がマザマザと思い浮かべられる。
騎兵大尉だった戸長は、馬をわが子のように可愛がって街や部落を乗馬で廻り、農家の経営状態、河川・道路の状況などをくまなく調査して歩かれたと聞く。
鶏川・入鹿別間の道が極端に悪く、車馬の通行も出来ない有様を見て、これでは村民が困る、ぜひこの道路を改修しなければならないと関係方面と相談されたが、意外にも絶対反対を唱える者があったりして、戸長は独断的に直営の改修工事を実施したということであった。
ところが、現地はひどい湿地帯で非常な難工事となり、やっと8分通り進捗した頃には、意外なほど費用がかさんで人夫賃の支払いにも窮するに至った。
戸長は軍隊時代の旧友で札幌で金貸しをしていた某大佐に金策を依頼に出かけたところ、「水野に金を貸すな」と電報を打った者があった。そのためいささか疑惑を生じた旧友は「久しぶりだ、一緒に鵡川へ行ってゆっくり昔話でもしよう」と、鵡川まで出かけて旅館についた。
戸長は直感的に自分が疑われていることを悟り、帰ってから「旧友にすまないことをした」と夫人にもらしたそうだ。
それから、井目戸(宮戸)の友人中山医師を訪ねたままなかなか帰らないので、心当りを問い合せることになり、騒ぎが大きくなった(中略)。
葬式は戸長役場前から出棺された。その刹那、廐の愛馬が閂をそのままにどうして出て来たのか、棺の前に立って動かなかったという話である。
しかし戸長のいたましい犠牲によって、入鹿別道路はついに完成、今日あるを得たもので、あの道路の地下深く水野戸長の赤い血が永遠に漲っていることを忘れてはならないと思う。[4]
※北海道では80年代に民衆史運動によって各地にタコ部屋労働や囚人労働の慰霊碑が建てられましたが、身を賭して住民のために道路を開いた水野戸長の慰霊碑こそ建てられるべきではないでしょうか。(筆者が確認した限りでは慰霊碑はみあたりません)
【引用出典】
[1]『鵡川町史』1970・鵡川町・154p
[2][3] 同 158p~159p
[4] 同
『鵡川町史』1970・鵡川町・170p~172p
【写真出典】
①むかわ町生涯学習課社会教育グループ『文化財だより 平成25年11月号』2013・「むかわの開拓時代」