[北見]昭和29年 古老炉辺談話
北光社移民団の生き証人が語る開拓の真実 (上)
昭和32(1957)年発刊の旧「北見市史」の『古老を囲んでの炉辺談話』から、北見の建国物語をご紹介します。昭和29(1954)年8月26日に7人の古老を招いて行われたこの「炉辺談話」、とにかく面白い。
坂本直観
オホーツク最大の都市北見市は、幕末の英雄坂本龍馬の甥であり、坂本家の嫡孫坂本直寛が創設した北光社によって開拓が始まったことはよく知られるところでが、出席者はみなその北光社移民団の当事者。北光社の移住は明治30(1897)年のおよそ60年前ですが、親に連れられて北海道に渡った生き証人を集めて行われています。
文章は当時の北見市立上常呂中学校校長の広崎敏雄先生が書かれたものですが、「注=発言を忠実に記録することをせず雰囲気を確実につかむことに努め、あとは記述風にまとめることにした」とあります。まだまだ元気な老人たちの自由な会話を先生がひとつの物語にまとめたようです。そうしたことからとても読みやすい文章となっています。
渡道
明治28(1895)年盛夏、土佐の先輩、沢本楠彌、前田駒次らの北海道視察報吿会で、わが国の宝庫であることや開拓の有望なこと、道東地区でもとくに野付牛のすばらしいこと、無加川を中心の訓子府9号線付近から展望した一帯の現地の様子を伝えて青春の血は燃えた。そして幾晚も眠られぬ日が続いた。
当時の北海道は世間一般には、熊とアイヌの地で、ただ重罪人が流されるところと伝えられ、朝の寒さに「お早よう」という挨拶がそのまま凍り、春になるとそれが溶けてあちらこちらから「お早よう─」「お早よう─」という声が窓をあける度ごとに聞えて来るとか、小便するとすぐ凍って、金槌でたたかねば離れないということまで本当だと内地では信じている頃だった。
観類の人たちまで心配のあまり、かわるがわる何も悪いことをしてないのに、そんなところへ行かなくても……と、真剣に止めたが、29年8月、沢本楠彌がまず入地し、大谷清虎は北村権蔵ほか11名とともに小作人のために小屋掛をしていることを承知しての決心だからと断った。
当時、青年の気風として「小雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや」とか「骨を埋むるあに墳墓の地のみならんや」と叫んでいたが、いよいよ出発となると志士的気迫もどこへやら。何となく恐ろしや悲しさがこみあげてくる。
第一陣の「こうよう丸」は明治30(1897)年4月21日、霧の中720トンの船体にこれら移住者を乗せて思い出多い土佐をあとにした。
船は高知の浦戸に出て積荷し、高岡では土佐移民112戸がまとまり、米、味噌、農具、その他日用品を満載した。途中、徳島へ寄港したが、中に麻疹患者が発生して船内全部に移り、30名もの死亡者を出して悲嘆にくれた。
北光社移民団移住経路(①)
馬関(下の関)にいたる佐田の岬では海が荒れ、玄海灘では7日間ゆれ通しの航海をして、やっと小樽へ入って給水する間の一昼夜を休んだ。
小樽から冷気は肌にしみ、波が荒く、潮の早い宗谷海峽を経て目的の北見が見えると、かわるがわる甲板上に出ては喜びあった。
こうして枝幸までたどりついたときだった。望遠鏡を片手に船長は叫んだ「流氷があって航海不能」と。
やむなく枝幸港に5日間停泊することになった。その間にしけ(荒れ)が来ると船入澗や避難港がないため、礼文烏の鬼脇まで避難することもあった。流氷のために3度引き返し、4度目に.やっと通ることが出来た。
宗谷から北見への航行中、急に船がローリングを始めた。みんな真っ青になった。流氷のため船が難破したのだと思いこみ、夢中になってあちこち走り回った。
ブクブク泡が海面に立った。20間から30間前方に、傘を逆にしたようにポカリと親子連れの鯨が浮かんだ。ガリバー旅行記のそれのように。網走についたのは5月7日のことである。[1]
北光社は、坂本龍馬の甥である坂本直寛の北海道開拓論に基づいて結成されました。キリスト教徒でもあった彼は、米国合衆国建設の礎となったメイフラワー号の故事に習って、北海道にキリスト教の理想郷を築くことにありました。
坂本直寛の呼びかけに共鳴した沢本楠弥と前田駒次の二人は明治29(1896)年(旧「北見市史」では明治28(1895)年となっていますが、この後の研究で29年であることが有力になっています)にクンネップ原野を現地調査し、有望であることが明らかになりました。
高知でその報告を聞いた坂本らは、県下の有力者の協力を得て開拓をすすめる合資会社「北光社」を明治30(1897)年1月に結成。社長に坂本直寛、副社長に沢本楠弥が就き、前田駒次は農業教師に就任しました。
法人の設立準備と並行して移民の募集が行われました。直寛らは県内各地に募集員を派遣して移民を募るとともに、沢本楠弥と沢本楠弥は盛んに講演会を開いて北海道の可能性をアピールしました。
呼びかけに応えて移住を決意した者は111戸。明治36(1903)年までに合計221戸が入地しています。『炉辺談話』には、北海道移住に大志を抱いた青年の気概が語られています。
文中で伝染病の発生が語られていますが、船中で3名の子供が亡くなり、上陸後にも多くの子供たちが死亡、最終的に大人の死亡者と合わせて35名が亡くなりました。坂本直観の手記では「知らざる土地に来たりて、特に家庭の団欒の必要なる場合に於いて小児を失い一家沮喪せる者少なからず」と書いています。多難なスタートでした。
農場入地
5月7日、上陸した人々の目に写ったものは、鬱蒼とした大密林と背よりも高い熊笹、身丈ようも大きいと思われる野生のふきであった。山々にはまだ雪が残っていて南の土佐から来た人びとはただ驚くことばかりであった。
網走港と言っても名ばかりの小さな漁師町で、道路は浜と同じ砂原続きで、ザクザクのひどい砂浜で歩くにすら閉口した。糧を運ぶにも重荷のため一足一足めり込んでしまい、想像してもいない第一歩から一同は苦労し始めた。
休む暇もなく草原の道を行進し始めた。4里半ごとに駅逓があって小休止ができたが、子供を背負い、わずかの荷物や夜具を背や両手にさげての歩行。網走からはこの駅逓の1号2号に泊まった。宿といっても馬糞のあるところに泊ったものだから…。
人家とてない草原地帯と密林地帯で、相内に3号、留辺蘂に4号があると伝えられている頃で、この辺一帯をヌプウンケシといい、試験場のあたりに30戸余り、大きなノコで挽いた板を打つつけた家が散在していた。
無加川以西は訓子府原野と呼ぶ人もいたが、後になって18号で区切って西を訓子府とし、東を上常呂といい、現在の上常呂のあたりは上常呂原野とも北光社とも呼んでいた。勝山まではアイヌだけでシャモ(和人)は一人もいなかった。
この草原と密林、一帯567万坪は、片岡健吉、西原清東、傍本定吉、沢本楠彌、前田駒次らの経営しようとする「北の光農場」(北光社)と呼ばれ、別に大谷清虎、馬場正吉の61万坪があった。
ここだ!──といわれて、家族一同、父ちゃん! といって泣きだした。[2]
北光社移民団入植地②
文中に「試験場のあたりに30戸余り、大きなノコで挽いた板を打つつけた家が散在していた」とあるのは、北見屯田(屯田兵第4大隊)の兵屋と思われます。試験場は明治40(1907)年に開設された北海道庁立地方農事試験場北見分場で、昭和31(1956)年に訓子府に移転し、現在は道総研北見農業試験場となっています。
この試験場は北見屯田の旧屯田練兵場跡地に設置されました。屯田兵の入村は明治30(1897)年6月7日ですから、北光社移民団が見た兵屋にはまだ人は住んでいませんでした。彼らはこれらの建物を横目にさらに奥に入り、現在の上常呂と呼ばれる一帯に入植したのです。
【引用出典】
[1][2]『北見市史』1957・355-358P
①『北見市史』1981・850P
②『北見市史』1981・812P