
樺太アイヌ移民の豊かな暮らし
石狩での安之助の青春
18歳になった安之助は働き始めました。
開拓使は農場と漁場を与えて樺太アイヌ移民の生計を図りましたが、明治15(1882)年をもって授産計画が終わると、計画を引き継いだ札幌県は「対雁移民組合」を設立し、漁場の権利を移譲したのです。この時の安之助を現代風に示すと「対雁移民組合職員」となるでしょう。
組合ができると樺太アイヌ移民は対雁から漁場に近い石狩川の河口域、現在の石狩市八幡町来札にコタンを移しました。ここでの彼らの暮らしは同時期の和人入植者がうらやむものであったようです。
安之助の語る所によると、組合が経営した三箇所の漁場の営業収入は年間約3万円。収入はアイヌ一人につき120円ほどあったといいます。当サイトでは『直段史年表』(1988・朝日新聞社)掲載の「日雇労働者の賃金」によって価格価値の変換を行っていますが、それによれば3つの漁場からえら得る組合の事業収入を現代に換算すると約13億6300万円。アイヌ1名の収入は545万円にもなります。安之助は「二人位ある家は二〇〇円以上の金を得た」と言っていますから、世帯収入は1000万円以上です。
強制移住の悲劇という世評とは裏腹に、ここで安之助は幸せな青春時代を送りました。
あいぬ物語 (6)
樺太アイヌ 山邊安之助著
文学士 金田一京助編
三 石狩に於ける青年時代
(一)漁場の労働
明治一七年の秋に、ちょうど私が一八歳になった時、たまたま石狩村の漁場へ下り、これからは同郷のアイヌたちと一緒に漁場の働きに従事した。
初めて対雁村へ来た当初三年位は、官から扶持をあてがわれていた。けれどもいつまでも宛がい扶持でいられるわけにもいかないから、 六箇所場所を網や綱や、その他の一切の漁具を添えてアイヌ達にくれ、そして共済組合というものを組織そして、アイヌ一同独立して漁をやるところにして下附された。
対雁のアイヌ村からこの石狩の九里しかなかったから、最初は、対雁に老人と子供とを留守居ささせて、働く者だけ石狩で働くに出かけるのであった。
で、正月はアイヌ一同対雁で暮らして二月の中頃から働く者が石狩の方へ下って、浜で鰊の魚の支度にかかる。木材を取るとか、舟を造るとか、その他色々な仕事をし、そして四月からいよいよニシン漁の仕事にかかる。
鰊の漁が済むと、石狩川や海浜などで鮭の漁が始まる。それから一二月の月の二〇日頃までかかって、それで一年の漁が終わる。アイヌ一同は対雁の方へ引き上げる。
私も最早働き盛りの若い者になったから、アイヌ一同と一緒に働かされた。この一年の漁が終わって対雁の部落へ帰ってくるのは、それは楽しみなものであった。年寄りたちや幼いものが喜んで待ってくれている。久しい間、離れていて今会うのだから、子供たちも、お年寄りも、今日来るか、明日来るかと待ちに待っていてくれる。
誰が先に着いた者の話を聞いて、どこの誰は帰りが遅れそうだなどと聞いては力を落とし、今もうじき来ると聞いてはいよいよ待ち遠しがって待っている。そうしている所へ帰ってくる人々は、久しぶりなもんだから、にこにこして歓迎してくれた。
私は石狩の漁場に働くようになって、一年二年ほどはこういうふうにして対雁に帰っては、また漁場へ働きに出かけていたが、これが不便であるので、それから後八五〇人のアイヌ一同、対雁を引き払って石狩の方へ引っ越すようになった。
その以降、官からもらった対雁のアイヌ耕地は、日本人へ貸し付けて開かせることにし、開墾がうまくできたら耕地からできたものを少しずつ地代としてアイヌの方へやるということに官から沙汰があり、そういう約束で対雁から引っ越した。
石狩の新住地は、石狩川の(北岸)増毛寄りの河岸で雷札というところであった。その所に八五〇人のアイヌが家を建て、大きなコタンをなして住むようになった。その村へ建てた家はもはやアイヌ風の家ではなくて、日本造の形のような家を建てたのであった。
対雁のアイヌ学校はアイヌの引き払い後は、対雁村の小学校となって日本の子供が入るようになった。今でもあることであろうと思う。
私、今になってつくづく考えると、こうして対雁の村をただで捨てるようにしてしまったのは、かえすがえす惜しかったが、なんとも仕方がない。
黒田長官から六箇所場所において、漁業をアイヌ達にさしていただいたから、その頃、鰊の大漁の時は、三箇所場所の上り高、一年に一万円にも三万円にも達する金をもらった。詳しく言えば、一場所一三〇〇石くらいとったが、百石が千余円であたから、千石で一万円から金高であるから、三箇所場所で合計三万円に上がる。
ゆえにアイヌ一人に一二〇円ほどあたり、二人位ある家は二〇〇円以上の金を得たから、その頃はアイヌたちは皆立派に暮らしていられたのであった。
(二) 罪の無い賭
石狩の漁場で働いている人たちの中では、私は一番年少であった。けれどもその頃も私は体も大きかったし、力も強かったし、それに負け嫌いでもあったから、他の者に負けないよう一人で、誰もいないところで俵を担いでみたり、運んでみたりして慣れていた。
しかし、なんといっても子供なもんだから、女たちが子供あしらいして仕方がない。私もよく冗談ばっかり言っているもんだから、女たちなどは面白がってからかっていた。私も負けずに口答えをした。
ある晩のことであった。仕事も済んでみな一緒に家の中でいろいろ談じていた時、女たちが一緒になってこんなことを言った。
「冗談ばかり言わずに、仕事でもおしよ」
「冗談ばうまいけれど、何もできやしないんだよ」
私は笑いながら
「なぁに、あんな俵なんか片手だって担げるさ!」
女たちは一緒に大笑いした。そして言うのは
「うそ!」
「うそ!」
私は笑って「本当だ。本当だ」と言うと、女たちは、
「そんなら明日、みんなの見ている前で、片手で担いでごらんよ」
「もし担げなかったら、もうお前のいう事は何一つ本当にしないことよ」
「そして仕事が済んで家に帰ってきても、女たちは誰もお前ともう口一つ聞かないわ」
私はおかしくなって、
「よろしい。よろしい」
と言った。
翌日、アイヌたちが皆、鰊の〆糟を俵に造って、それを船に積み込んだり、庫に運んだりしていた。若い者どもは盛んに競いあってやっている。向こうの小高い丘位には子供たちや女たちがたくさん集まって見物をしている。
鰊の〆糟の一俵は、その重さ三〇貫目からして三四~五貫目位であるから、一俵を一人で抱えに上げて運ぶのは強い方であった。
私は俵を地に立てて、上の端を自分の辺へつけて、片手で俵の横綱をつかんで、ヨウッ!とばかりに肩へ引っ張って、肩の上に乗せるとすぐに落ちないように俵の小口へを手に持ち抱えた。一遍はあまり力を入れすぎても背中を超えて後へ落っことした。
丘の上の女たちや子供たちは、
「やあい! 大きな口利いて、やあい。なるほどお前は強いよ。だから、おっことすわい。やあい!」
とはやしたてて大笑いをした。
悔しくてたまらないから、すぐにまた俵を立て直しで、前にやったように胸の所へ立て掛けて横縄をつかんで片手で持って再び肩へ押し上げた。
今度はよく落ち着いてやったから、いい塩梅に肩へ収まった。そこでヨイショヨイショと駆け出した。
丘の女たちや子供たちはやんやと囃した。
なおこの連載は河野本道編『アイヌ史資料集 第6巻 樺太編』(1980・北海道出版企画センター)に収録された『あいぬ物語』(1913・博文館)初版の復刻版を底本にしています。原文は大正時代の忠実な復刻で旧漢字旧仮名遣いであり、当サイトに掲載するにあたって、読者の皆さまの読みやすさを考慮して、旧漢字を新漢字にする、現代では用いられない漢字を平仮名にするなどの調整を行っています。なお『あいぬ物語』は青土社より新装版が出ています。