北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 10 】  

岡本監輔—和人初の樺太全島制覇(2)

樺太北端に到達

2024/07/30掲載

 

岡本監輔①

 

慶応元(1865)年4月、岡本監輔はこのときまで和人の誰一人として成し遂げいなかった樺太全島踏破に出発しました。目指すは樺太島最北端です。間宮林蔵など先達が西回りだったのに対して監輔は東回り。先例の教訓から学び、周到な準備をして冒険に旅立ちました。誰もが見たことの無い世界には、何が待ち受けていたのでしょうか? 主要書では報告されていない岡本監輔踏破記録の第2弾です

 

 

■北緯50度を超える

樺太全図
(岡本監輔、西村伝九郎製作、明治3年写)

閏5月23日頃、監輔は後に日露国境となる北緯50度を超えます。日露雑居のこの時代でも北緯50度は双方の暗黙の境界線として意識されていました。ここからはロシアの領域です。
 
この日は雨に遭い、縫鵜(ヌウ)という場所に舟を着けました。この地域では断崖の合間からところどころ川が海に注ぐ場所があります。縫鵜(ヌウ)もそうした場所で「はなはだ鷲多し」。
 
樺太アイヌガイドたちは「鳥多けきは魚多ければなり、固に第一の漁場たり。番人に見せしめんものを」と言いました。川の向こうに熊が現れたため、伝十郎が鉄砲を、アイヌが槍をもって追いますが、川を渡ったところで姿を消しました。
 
翌日、霧が立ちこめる中を出発。「山隤(くず)し、岸上なる枯木を随いて墜ち、あるいは縦立し、あるいは横臥するあり。すこぶる奇観たり」という景観を見つつ北上し、植子谷(ウェンコタン)でテントを張りますが、天候が荒れてきて28日までこの場所に留まりました。
 

樺太の落葉松
厳しい気候で折れ曲がった樺太の松は観賞用として珍重されたようです①

 
「炉を擁し薪を添て温を取り、葈(いらくさ)皮を以て緍(なわ)と為し、衣を縫ふ」。この間にボロボロになった衣装をイラクサから作った糸で補修しました。
 
天候が回復して閏5月28日早朝に出発。しかし、早々に河流と海の潮がぶつかるところで舟がひっくり返ってしまいます。監輔は大切な羅針盤を失ってしまいました。多くの荷物が水没したため、乾燥のために来た場所に引き返しました。
 

■現地民との交流

態勢を立て直して再出発しますが、行く手は「乱石の海面に離立するものおよそ2里許りなるべし」という難所です。どうにか3里ほどすすむと、川縁で漁をするニブフ(ギリヤーク)に出会いました。このあたりから出会う現地民はほとんどニブフとなっていきます。
 
上陸して集落を訪ねました。「二家あり男女5〜6人あり。耳に銀環を穿ち、水豹(あざらし)皮を着け、あるいは唐木綿の類を服する」。一棟を訪ねると、住民は歓迎のつもりでしょう。炉で燻製にしていた延胡索(えんごさく)を食べるようにと差し出しました。監輔はお礼に煙草をプレゼントしました。
 
北上すると断崖絶壁地帯を抜け、高さ10メートルほどの低い崖が続くエリアとなりました。さらに進むと大きな海跡湖が見えてきました。現在はザリフ・ナビリスキーとなっている場所と思われます。監輔は「弥勒翁湖」と名付けています。
 

現在のザリフ・ナビリスキー湖②

 
閏5月29日、湖(湾)南端に入ると、ウブフの人たちが見え、集落に来るよう手招きします。上陸すると丘で遠巻きに見ている女子を除いて、村人が集まってきました。盧碁隖(ロゴオ)という9戸余りのニブフの集落でした。
 
ここからさら13里に北に進むとまた海跡湖。現在はニスキー・ザリフと呼ばれている場所でしょう。ここにも女侶区隖(メロクオ)というウブフの集落がありました。
 

現在のニスキー・ザリフ③

 
舟を着けるとここでも多くの村人が集まってきました。その中の一人、志理玖那(シルリクナ)はアイヌ語が達者でしたから、北の方の様子を尋ねましたが、最初は「知らない」と答えます。さらに問うと「北には湖水が沸騰しているところがある。そこでほとんどの舟が沈んでしまう」と言いました。これを聞いたガイドの植吉たちは恐れて、引き返しましょうと言い出しました。監輔は訝しく思いながらも、この村に泊まることにしました。
 
翌朝、テントの外が騒がしいので監輔は目を覚まします。10人近くのウブフの女性がテントを取り囲んでいるのです。中にを覗こうとして近づいては立ち去るを繰り返す一人がいました。「年25歳なるべし。身に天鵞絨(ビロード)を服し、容色も頗る美」という女性でした。
 
尋ねると理玖那(シルリクナ)の妻で爾志加(ニシカ)と名乗りました。前日の夫の無礼を謝りに来たようです。監輔は煙草と縫い針を与えて帰しました。監輔一行が村を離れると、爾志加(ニシカ)は舟の見えなくなるまで見送りました。
 
二つの海跡湖を過ぎると、地形はおだやかな砂浜となり、湖とも湾とも、砂州ともちないところとなっていき、ところどころにウブフ族の集落が点在します。
 

■和人未踏の地へ

6月1日、現代の地図でザリフ・チャイヴォ湖となっている場所に到着しました。南北に40㎞ほど続く巨大なサロマ湖のような湖で、監輔は「茶江湖」と呼んでいます。この場所は安政年間に栗山平太が探索した北限とされます。ここから先は和人とってまったく未知の場所です。
 

現在のザリフ・チャイヴォ湖④

 
天候が崩れてきたこともあり、監輔一行は南端の縫江(ヌエ)と呼ばれる集落の近辺でテントを張りました。すると「夷ども迎え見るもの甚だし」と、近隣から集まった物珍しげな村人が次々と監輔一行を見に集まりました。「けだし始めて我輩を見たればなり」。ほとんどの村人にとって監輔一行は初めて見る外国人だったのです。
 
監輔はそれらの人々に煙草をあげていましたが、やがてひとりの老女が女子6〜7人を連れて現れました。尋ねるとウィルタ(オロッコ)の首長・幾美智耶牟(キミチャム)で、敷香の首長ショツコカヌの従姉だと言います。地域の様子について詳しく教えてくました。
 
ウィルタでは、南樺太のアイヌ勢力圏を棘穂隖(バラボオ)、北のウィルタ・ニブフ勢力圏を鵜寐(ウネ)、ウブウから見たウィルタを津漘履(ツロブン)、ウィルタから見たウブウを鉾子荷(ホッコニン)と言うのだそうです。ウィルタ族は、ウブウ族のさらに北で暮らしていたようですが、両部族が混住する部落もあり、平和に共存していたようです。
 

ウィルタ(左)とニブフ(右)⑤

 
幾美智耶牟(キミチャム)は、日本について関心が強く「吾が死せる前に弁財の来るを見まほし」と言いました。樺太北部のウィルタ族の間でも弁財舟=北前船ことは強い憧れとして伝わっていたようです。
 
ここから先は和人未踏の地であるので、監輔は一帯の調査を行いますが、村人は岸からじっと様子を見ています。調査は5日の午前中まで続けられましたが、拠点に戻ると、テントの中から皮履や砥石などの持ち物が無くなっていました。
 
樺太アイヌガイドたちが村人に盗まれたのだと騒ぎ立て、監輔は幾美智耶牟(キミチャム)に質しました。すると「吾苧隖(アヲオ)の村人が盗んだ」と言いました。幾美智耶牟(キミチャム)に命じて吾苧隖(アヲオ)の村を探させると、果たして伝九郎の皮履などができました。
 
しかし、盗んだ張本人は「怡然(いぜん=喜び、楽しむさま)として笑い、とくに意となわざるが如し」。まったく罪の意識がありません。監輔は「日本で同じことがあったら必ず罰せられるぞ」と諭して、彼らに煙草とを針を与えました。さらに夜になって村人に酒を振る舞いました。
 
6月6日に一行は、ガイドとして爾都刀牙(ニツトゲ)というニブウを雇って集落を出ます。「発するに臨み、男女の相送するもの数十人あり。恋々として別れを惜しめる顔色あり。いずれも再び早く来られよといいつつ、舟の見えざるまで目送せられぬ」という別れでした。
 
これについて監輔は、「祖宗が遺徳の遠く辺陲(へんすい=辺地)に被るに感じ、遺憾とする所は露人が此際に跋扈(ばっこ=のさばること)するの一段なりき」と感想を綴っています。
 
6月6日の夜は徳女津(トクツメ)、7日の夜は茶江(チャエ)、8日の夜は鰭持歯(ベレモチバ)と、茶江湖(ザリフ・チャイヴォ)を北上し、途中のウブフ・ウィルタの集落でテントを張りました。どこでも一行は大きく歓迎されました。茶江(チャエ)では、こんなことがありあした。
 
「男女、来りて見るもの七〜八十あり。ついに伝九郎ともに夷廬に過ぐ。植吉等侍坐し、男女群聚して環嚮せり。一夷の五〜六十歳なるものあり。余が肩を撫でて語る。情意懇到なり。二女あり。容色絶美なり。植吉等争ひて賞す。女子顧みて笑ひ、俯して人を見ず。情態嫣然たり」。あえて解説はいたしませんが、監輔の冒険には楽しい場面もあったようです。
 
茶江湖(ザリフ・チャイヴォ)湖をすぎると、これまた南北に長い海跡湖である弁連戸湖、現在のザリフ・ビリトゥン湖となります。「広さ400間計ものあるべし。中央に浅瀬あり。南方は深く北方に浅し。湖内に鮭鱒鰊水豹の類多しという。多鯨の潮を吹き、湖中に遊泳するを見るに甚だ多し。湖口を封じてこれを捕獲せば莫大な国益を得べく、海軍を講習するの便もあるべし」
 

現在のザリフ・ビリトゥン湖⑤

 

■ロシア人への恐れ

舟行の障害のない地帯で行程は順調に進みますが、このあたりからロシアの色が濃くなってくるためか、原住民の様子が変わってきます。
 
6月11日に弁連戸湖(ザリフ・ビリトゥン湖)の湖口を渡ったところにあるウィルタの集落には4〜5軒の住居がありましたが、監輔一行が近づくと、声を上げて逃げ出すのです。逃げ延びた一人の老婆に聞くところによると「露人を畏るること甚だしく、誤りて我を露人と認め懼れて逃れたり」ということであったようです。
 
6月13日頃、一行は湖中を進んでいきました。この湖は北に行くほど海から離れていきます。半ばを過ぎるころから水深が浅くなり、舟では進めなくなりました。しかたなく木舟を曳いて歩きますが、足に水草が絡まり、一歩一歩が大変な苦労となりました。いたたまれず伝九郎が陸に上がって高台から遠望して「レブン・レブン」と叫びました。「レブンは夷語に出ずるを言うなり」。遠方に前進の水路が見えたということです。
 
一行は引き返すことなりました。「疲頓すること甚だし」です。付近に宿を取る場所はなく、舟を繫いでその中で寝ることになりました。
 
翌日に方向を変えて湖を北上すること7〜8町。ついに弁連戸湖(ザリフ・ビリトゥン湖)の北端に到着しました。陸に上がってテントを張りました。監輔は「全体は沢国なれども、地上は沮洳(しょじょ=土地がじめじめしていること)ならず。米穀も繁生すべし。後世に至らば、一大都を創めシベリヤ地方を征馭するの便もあるべし」と構想をいだいています。
 
6月15日、監輔のテントにウィルタの男女10数人が様子見にやってきました。中にアイヌ語を話すものがあり、敷香のウィルタ族の様子を中心に話が弾みました。
 
6月16日、監輔一行は出発しようとしますが、疲れが溜まったのか、樺太アイヌガイドたちが動こうとしません。そこで監輔は余興として「相撲を取ろう」と持ちかけます。ガイドの樺太アイヌのうち特にアイコロとサトは体も大きく、自信を持って勝負に臨みます。
 
監輔は足を払って勝ちました。監輔の故郷の天手力男神(あめのたぢからおのかみ)の伝説が残る村で、古より相撲が盛んでした。監輔は、その村で幼いことから相撲に親しみ、ほとんど負け知らずだったのです。体の大きなアイヌたちでしたが、相撲のルールの中では技を身につけた監輔には敵わなかったのです。
 

大正12(1923)年のサハリン州要図⑦

 

■湖沼地帯を行く

相撲勝負で主導権を取り戻した監輔は、6月17日に北を目指して出発します。ここからは陸路です。丸木舟を担いで渡ったと思われます。はるか北方には廬碁理婆拉(ロゴリバラ)という山が見えてきました。位置的に樺太最北端、ロシア語地名のシミッド半島のエスパンベルグ山であるかもしれません。
 
陸行1里もしないうちに湖口が海にそそぐ場所が見えてきました。サロマ湖の南に能取湖があるように、弁連戸湖(ザリフ・ビリトゥン湖)の北には、同じようなかたちの小さな湖がいくつも並んでいます。監輔一行が辿り着いたのはザリフ・オドプトゥ湖でしょう。湖東の高台に1戸のニブフの家があり、監輔はここを音沓戸(トグツト)と言いました。
 

現在の音沓戸(トグツト)付近⑧

 
訪ねると「夷自ら亜異農(アイノ)といいえり」。すなわち自分たちはアイヌだというのです。日誌に会話が記載されていなことから、アイヌと名乗りながらもアイヌ語の会話はできなかったようです。監輔は「疑うらくは父祖の蝦夷に出たるならん」と推測しました。
 
6月19日も強い強風が吹いています。波が荒く樺太アイヌガイドたちは出発を渋りますが、せかして出発しました。音沓戸(トグツト)から6〜7里でまた湖がありました。
 
遠目に女子の姿を認めたので、近寄ると———「夷廬を訪はんとし、はるかに二女を望む。行てその戸を伺えば閉ざして入ることを得ず。叩けども応ぜず」。後で聞けば、「露人は女子を見るとごに白昼にも構わず、逼りて淫し、衆前に在りても憚ることなきほどなり」であって、ロシア人と思われたからでした。
 
この頃、深いに霧に襲われて出発できずにいると、監輔一行のテントをニブフの人たちが魚介や百合根などを携えて訪れました。戸を閉めて面会を拒んだ人たちでした。「我が露人に非ざるを知りて来れるなり」とのことです。
 
6月23日は天候が回復しきっていませんでいませんでしたが、監輔はここ数日の遅れを挽回すべく舟を出します。ところが出発後すぐに「波起こりて舟殆んど没せんとす」。監輔、伝九郎もからくも助かりましたが、ほとんどの物品が海中に投げ出されました。「輪荒を発しせしより未だかかる災厄あらざるばかりなり」といいますから、これまででもっとも甚大な事故であったようです。近傍の海岸に退避し、水中に没した物品を回収して乾かしました。
 
なお、監輔が留まった名前も記されていない、すなわち人跡未踏の場所が、現在はサハリン油田の中心地となっているオハ近辺であると思われます。ここで監輔は「鵞柴(ガシバ)より弁連戸(ベレントウ)に至るまで浜海に断梗あるを見ることはなはだ稀なりしが、ここに至りてすこぶる多く異種の物を見る事あり。黒竜江より流れ束れるにや」と書いています。
 
「断梗」という言葉がどの辞書になく解釈が難しいのですが、「梗」は単体で「草木のある枝」を意味しますから、海岸に打ち上げられた枝の類でしょう。ここまでほとんどそうした物を見かけなかったのに、「ここに来て見慣れない漂着物が増えてきた。おそらく黒竜江から流れて着いたのだろう」との意味でしょう。
 

■最北端を極める

態勢を立て直して再出発したのは6月25日でした。ここまで来ると目的地の樺太最北端はすぐです。この日、監輔一行は一挙に最北端を目指しました。最終の行程を箇条書で示します。積丹半島の突端にボートで迫る気持ちで読んでいただくとイメージが掴みやすいでしょう。
 
・曇れり。早起きして行くこと半里ばかり。ウブウの一家あるを廬碁理(ロゴリ)とす。
・夷5〜6人あり。舟を望して佇立せり。水際に石多きがためあえて進まず。夷ら尾して来り。巌頭に立ちて目送ることやや久かりき。
・これより1里ばかりは石山にて高さは8〜9丈あるべし。ことごとく青黒色にして石片崩墜し、上に小木を産せり。
・半里ばかり2熊を見て射るに当たらず。
・北すること1里あまりに一石あり。廻り1丈にして高さ3丈もあるべし。蝦蟆の領(ガマガエルの舌?)を延したるがごとくにして海中に立てり。
・白色の鷲あり。魚を食い飽満して飛ぶこと能わず。棒もて打倒し頭を縛り、大羽14枚を抜いて放ちされり。
・さらに北すること1里半ばかりに至る。山ようやく嶮し、一山白赤石にして高さ2〜30丈もあるべし。湖道に水無く、風の白霧を送るを望むに甚だ壮なり。
・岬頭はやや低く下に紫石あり。人跡を通せず。海豹群出し背を石上に哂せり。潮の遠く、洋上より来たるもの岬に衝突して南北に分流す。甚だ悍急なり。
・また北する1里あまりに石上の屏風(びょうぶ)のごとくになるものあり。瀑布ありてその間より流れ落つる。白麻を懸けるがごとし。
・さらに1里あまりにして山角に出ず。大巌の高さ数十丈に及ぶものあり。絶頂に小木を産す。険峻なること比なし。舟をその下に行り首を縮めて望みつつ過ぐる。
・岸に沿い回れば湾となり、沙汀(さてい=砂浜)あり。やや広し。北方は厳山怪譎(かいけつ=あやしいもの)なり。霧深くしてその頂を見ず。
・これを過ぐればまた小湾となる。5〜6町もあるべし。岬頭に大石あり。
・また北するに5〜6町にして礁多く数千歩の外よりして過ぎぬ。
・これより一転し、西北に向かいて走ること10町ばかりに至る。岬頭に土山あり。もっとも雄なり。草を生じてはなはだ短し。半嶺已上に五葉松を産せり、水際に巌石あり。槎牙(さが=ほそく突き出ているさま)として鋸歯のごとし。これを鵞小門(ガオト)岬とす。この島尽頭の処なり。
 
こうして監輔一行は、ついに樺太最北端「鵞小門(ガオト)岬」を極めました。
 

現在の樺太北端「鵞小門(ガオト)岬」⑨
樺太北端を北から南に向かって写した写真です。画面の中央やや左、ちいさく灯台が見えているところが突端部分
監輔一行は左から回り込んできたことになります。

 
 

【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
『うらたつ観光協会』ブログ/岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会1回〜34回 https://wra5.blog.fc2.com
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
①⑤改造社編『日本地理大系 北海道、樺太篇』1930・改造社
⑦http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_sm.php?photo=sm01
②③④⑤⑧⑨ Google Earth

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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