北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 9 】  

岡本監輔—和人初の樺太全島制覇(1)

大冒険の開始

2024/07/30訂正

 

岡本監輔①

 

岡本監輔が日本史上で顕彰されるのは、和人としてはじめて樺太の全島制覇を成し遂げたからです。樺太が世界で最初に島であること証明した間宮林蔵も最北端は踏んでいません。明治23(1890)年に岡本監輔自身が著した自叙伝『岡本氏自伝』から4回にわたって関係部分のエッセンスをお届けします。この内容な主要な書籍では未だに活字化されていません。160年前の樺太へ。監輔とともに出発!

 

 

■樺太全島踏破の決意

樺太全図①
(岡本監輔、西村伝九郎製作、明治3年写)

箱館奉行から公認をもらった岡本監輔は、慶応元年(1865)年4月1日(慶応は1865年4月7日から始まります)、満を持して日本の拠点久春古丹(後の大泊・ロシア名コルサコフ)から前人未踏の樺太全島踏破を始めます。和人従者として付き従うのは西村伝九郎ただ一人。
 
監輔は、函館で監輔は奉行の小出大和守秀実から「樺太在住」の命をもらうと元治元(1864)年4月上旬に樺太に渡りました。樺太の北端で祭るため、背には函館の画工に描かせた天照大神と日本武尊の肖像2軸を背負っています。
 
監輔は樺太に上陸すると、日本の勢力範囲の北端に近い白漘(シラオロロ)に拠点を定めました。かつては最上徳内が詰めていたい場所です。ここには水上重大夫を筆頭に数人の幕吏が在勤していました。監輔は全島制覇の目的を告げて協力を求めますが、函館奉行小出大和守の期待はこの北辺には届いていなかったようです。
 
「余が志はもっぱら奥地にあるがため、諸吏を見てその説を陳するに水上、藪内2人は文字なるものならで、幕府の規律を固守し、動もすれば余が説の粗漏なるを咎めることあり」と役人らしく細かな規則を盾に認めようとしないのです。余計な真似をしてロシアを刺激することを恐れたのかもしれません。
 
引き返すこともできないので、ここに留まって番所の業務に従事することとなりますが、すぐに監輔の人物や志、博識は知られることとなり、特に西村伝九郎は、監輔の全島制覇の壮図に強く惹かれていきます。伝九郎は函館の人で、安政6(1859)年に箱館奉行の命令によって樺太に来住し、現地調査に従事していました。
 

■オロッコとニブフ

冒険に出発できないまま元治元年の夏が過ぎます。監輔は現地語を覚える好機と捉えて、積極的に公務をこなしながら、原住民族の中に入っていきました。敷香にあったときに監輔は小六子(オロッコ)族と肉分人(ニブフ)の村を訪ねています。監輔が初めて会う北方少数民族です。
 
「小六子(オロッコ)は本来満洲に出たるや。この辺より東北十里の間に散在せり。その家屋は蒸籠組にして二重の戸あり。蝦夷と同じく外戸は出入すべく内に鎖鑰(かぎ)を設けず。木を横たえたるのみ。屋根は穹隆にして円なり。小六子は常に此獣を養いて舟を引かしめ、冬に至れば雪車などを引かしめたり」
 

オロッコ族(20世紀前半・南樺太)②

 
「肉分人(ニブフ)は蝦夷と同じく戸に枢を設けるを異にするのみ。頭を辮髪にて後ろに垂らし、衣服はトナカイの皮もしくは鮭鱒あざらしなどの皮を製したるを服して全て満洲の遺製たり。肉分人は北より東北に住し、小六子と雑居せり。風俗は小六子と相近しといえども、木末に棺を懸くるの風などあることなし。言語はまったく同じからず」
 

ウブフ族(1902)②

 
など、両民族の様子を詳しく書き記しています。オロッコ族よりもニブフ族の方が北方に住み、より大陸の影響が強いようです。
 

■函館奉行の許可

秋になり、監輔は日本最北端の拠点である東海岸の輪荒(ワーレ)に移りました。最初の拠点である白漘(シラオロロ)に近い場所にあります。ここで監輔は西村伝九郎に再会します。
 
伝九郎はアイヌ語に精通しており、何度も奥地に探査したことのあるエキスパートでした。監輔と意見を交わしあう中で「北島(樺太)は、本邦固有なるに相違なしと承知しながら、奥地の如何なるやを詳悉すること能わずというのは如何にも残念至極なり。某も官許をえらたらんは、往て観まく欲するなり」と、監輔の探検に同行を願い出ました。
 
この言葉に力をもらった監輔は、伝九郎と連名で願書をつくって水上ら上役に提出し、奥地探検が本当に不可なのか、函館奉行に正式に問い合わせるよう求めました。
 
江戸時代の樺太ですから、冬は本土との連絡が途絶えます。函館から返書が届いたのはひと冬越した元治2(1865)年3月24日でした。小出大和守秀実は「全島を巡行せんと謂えるは、すこぶる国家の大計に関するものなり。その志駕すべき」との返信を寄こしました。二人が喜んだのは言うまでもありません。
 
このとき二人は返書を待つために久春古丹におりました。久春古丹の責任者である古橋次郎は、「内地多時の歳にて、島中衛戌の人乏しければ」と番屋の人員不足を理由に引き留めようとしますが、監輔の意志は固く、ひとり西村伝九郎の随行を認めました。
 
遠く離れた本州西端山口では、高杉晋作が長州藩の実権を握り、来るべき第2次長州征伐に備えていました。
 

久春古丹(明治4年)樺太を調査測量した幕吏目賀田が各地の沿岸を描いた鳥瞰図④

 

■冒険の出発

4月1日に久春古丹を出発した監輔は、一旦南下して小実(チベシャン)で最初の一泊。この後、中知床半島を回り、東海岸からの樺太最北端を目指して北上します。間宮海峡の発見者、間宮林蔵の逆ルートです。
 
4月7日、年号が変わって元治は慶応となりました。探検隊は、富内湖を渡って東海岸を北上、4月10日に前年まで拠点としていた白漘(シラオロロ)に入ります。
 
そして監輔は近隣の輪荒(ワーレ)で、長旅の準備を行うため、20日にわたって滞在。入念に準備を行います。樺太アイヌの植吉、周吉、トハヲ、ケチュリカ、エコロサツテの5人を雇いました。たまたま敷香(シスカ)に向かう伊逹藩の船があったので、荷物を乗せてもらうことができました。
 
5月10日に輪荒(ワーレ)を出発。途中で「巨鯨の隊をなすを見るに、幾千万という数を知れず。頭を仰ぎて嶮喁(けんぎょう=魚が水面に口を出すさま)し、泡沫飛散すること白雨の暴にいたる如し。真に奇観なり」という風景に圧倒されます。
 
5月12日の尻捉(シリトル)では、立木の木肌をはいで「この方百間、岡本文平在住の処」と記しました。一帯は「山脈陵夷し、海に至りて綿互し、極めて秀麗なり」というところで、風景の美しさに見惚れてしまったようです。
 

■北知床岬を極める

日本の樺太経営の最北端基地ともいえる敷香(シスカ)についたのは5月14日でした。これより先はほとんどの日本人にとって未開の地ですから、事実上の冒険のスタート地点といえます。監輔は次のような漢詩に決意をこめました。
 
男児有所見 欲敢陳機宜
中原会陽九 孤忠魚由表 
空懐卜居志 且俟後人紹
 
ここでは大きな船を買いました。白漘(シラオロロ)から送られてきた荷物を積み込むためです。探索隊は途中途中で北方民族の暮らす集落を通過しますが、協力を求めるために煙草などの小品をプレゼントしました。そのための荷物もたくさんあったのです。
 
敷香(シスカ)付近には多来加(タライカ)湖という海跡湖がありました。「真に絶景なり」というところで、ガイドの樺太アイヌは「鳥多きは魚多ければなり。固に第一の漁場たり。番人に見せしめんものを」と言いました。監輔は数日かけて湖内を探索しました。将来の開発に備えるためでしょう。
 

現在の敷香地域(ポロナイスク)の海岸風景⑤

 
 
多来加(タライカ)湖を離れ25日に場中(バナカ)に入ると、後ろから舟で小六子(オロッコ)の志那古務(シナコヌ)が追ってきました。彼に煙草などを分けてガイドを頼みました。これまで天候に恵まれていたものの、このあたりから天気が崩れます。
 
探索の進め方としては、船を浮かべて海岸をすすむというかたちです。一行は北知床岬に向かって海岸伝いに南東に進みますが、風雨に波が逆立ち、霧も深くなって停滞を余儀なくされます。北知床半島のもっともくびれた蒸日(ムシビ)に到達したのは5月28日、ここは間宮林蔵が到達したところでした。
 

現在のタライカ湖(オゼロ・ネフスコエ)の風景

 

■ロシアの影

5月29日、北知床岬の突端を望む芝富内(ブラトンナイ)に着きました。舟を丘にあげて岬の突端を確かめました。「岡陵参差として断続し、五葉松繁生せり」という場所で、かつてはアイヌの集落があり、墳墓の卒塔婆もありましたが、志那古務(シナコヌ)が言うには「魯人ここに来たりし、ことごとく焼かれたり」とのことです。このあたりから徐々にロシアの景が濃くなっていきます。
 
閏5月1日、岬を回ったところでアシカの群れに遭遇しました。「長さ三〜四町広さ一町ばかりの間は全く海豹の巣窟たり。起つものあり、臥すものあり。跳跟(ちょうこん=とびはねる)して相戯るものあり。その声万丈にして万物すべかず。その大なるは大牛を髣髴(ほうふつ)たるものあり」と描写しています。
 

現在の北知床岬(テルペニエ岬)⑤

 
ここをすぎると以前に和人が木材採取をした跡地が海岸に見え、野営の場所に選びました。この夜、焚火を囲んだなかで志那古務(シナコヌ)は、かつて母村がロシア人に襲われた話をしました。
 
彼の言うには「露人は山丹にいるも、常に諸物を済らして土人に仮し、多くの童子を携えて帰り、長ずるをまって返すとて文字を教えたり」とのこと。ロシア人は沿海州にいるが、原住民に税を課し、子供を捕らえてロシア語を教えて帰す、強制同化の実態を語りました。肉分人(ニブウ族)のなかには連れ去られて、未だに戻ってこないものもいたそうです。
 
この話を聞いた監輔と伝九郎は、二人の名前を記した標柱を立てて日本人がここまで及んだことを示そうとしますが、「地を穿ちて建てんとするも、7〜8寸下にいたれば、氷気凝結して穿ちがたく」。地面を少し掘ると永久氷土なのです。「心悸き目眩きて久しく駐するべからず」。土の中から現れた氷の層を見て二人は立ちすくみました。
 

■絶壁海岸を行く

北知床岬を折り返して東海岸をすすむルートは、「暗礁多く大石の起立するもの剣のごとく。舟を磯間に行るに石に触れてほとんど裂けんとす」という難所でした。5月5日にガイドの志那古務(シナコヌ)と別れて北上しますが、雷鳴が響き雨に襲われてしまいます。辛うじて舟をあげられる場所を見つけて嵐の過ぎるのを待ちます。
 
この後も不順な天候が続き、雨の合間を縫って舟を出し、天候が崩れると適当な場所に上陸して天候の回復を待つの繰り返し。5月28日に通過した蒸日(ムシビ)近辺に戻ってきたのは閏5月14日。岬からここまでの約50㎞に2週間もかかりました。
 
天候も回復し、蒸日(ムシビ)からは順調に進みます。一帯は「南北に連亘し樹木鬱蒼たり。厳巌も頗る姿態たり。群峰畳列し屏風の列するがごとし」という状況で、ときおり岩間を落ちる滝が見えます。風に恵まれこれまでの後れを取り戻すかのように舟はぐいぐい進みました。
 
しかし、閏5月16日から天候が崩れ、自来間(ジライナイ)の付近で、上流に木幣が見えたので、集落があるだろうと舟を上げたところ、誤って食糧器具の大半を水に浸かる事故がありました。
 
海中におちた荷物を引き上げ、天候が回復するのを待ち、出発したのは閏5月21日。すぐに品志(ホムシ)というオロッコの集落が見えました。舟に向かって手招きする者が見え、ガイドのアイヌも手を振って答えましたが、監輔は遅れを取り戻すべく先を急ぎます。
 
やがて見えてきたのは、小さな岬。ここで一行は舟を止めて一泊することとにしました。
 
「海面に磯多く波静かにして舟を泊すべし。岬の北面に峻嶺の空に挿むるものあり。樹色嬋姸(せんけん=なまめかしいさま)として、その間に積雪の皚然(がいぜん=白く清らかなさま)たるあり。これを望むに近きが如く、遠きが如く。人をして超然と世を遣るるの想いあらしむ」
 
目的の樺太北端はまだまだ遠い先です。

【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
『うらたつ観光協会』ブログ/岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会1回〜34回 https://wra5.blog.fc2.com
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
①http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_sm.php?photo=sm01
②③https://ru.wikipedia.org/wiki/
④北海道大学北方資料データベースhttps://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/i
⑤http://wikimapia.org/4244943/ru/Озеро-Невское#google_vignette
⑥https://www.sakhalin.kp.ru/daily/27526.5/4790327/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。