北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 12 】  

 

岡本監輔の明治維新 ①

箱館に行く監輔、函館を出る秀実

 

岡本監輔①

 

慶応元(一八六五)年に初めて樺太全島踏査を成し遂げた岡本監輔は、その後どのように行動したのでしょうか? 彼の冒険の成果はどう活かされたのでしょう? 監輔を通して蝦夷地から北海道に移り変わった歴史を振り返るシリーズを再開します。踏査の翌年、宗谷海峡の海明けをまって監輔は島を出ますが、彼の背中では大事件が起こっていました。

 

■監輔、南蝦夷地に渡る

慶応二(一八六六)年四月下旬、岡本監輔は九春古丹で一冬かけて樺太半島全周走破の記録をまとめ、宗谷海峡の解氷が消えるのを待って白主から南蝦夷地、すなわち今の北海道に渡りました。
 
北海道に出航する途中、白主の近くで監輔は、樺太アイヌの首長里吉(サトルキ)の家に呼ばれて惜別の宴を受けます。里吉は、横暴なロシア人と戦った経歴の持ち主です。監輔は「左小刀を使い、膳椀などに種々の文様を彫刻するに長じ、余が後に開拓管たる時まで存生し、余が膳椀及び小刀の鞘など贈られたることありき。夷地は往々にかかる彫刻に巧みなる輩を見ることあり」と書いています。アイヌの木彫文化を伝えるエピソードです。
 
宗谷に着いた監輔は陸路で北海道の日本海岸を南下。苫前でこれから樺太に渡るという旧知の酒井弥治衛門らの一行に会いました。後述する樺太での大事件に対応するため急遽派遣とになったといいます。
 
監輔が樺太踏破を成し遂げたことを知ると酒井は喜び、自分の留守宅を自由に使ってよいと言いました。そして留守宅に「山東一郎、関貞吉などいえる者あり。いずれも共に談するに足りるなり。よろしく交親すべし」と言い残します。監輔は大いに喜びました。
 
酒井と別れて監輔はさらに南下。増毛・石狩・札幌を通過して室蘭に入りました。当時、静狩峠は通行不能の難所で、箱館へは室蘭から船で噴火湾を横断するのがルートでした。幕府の室蘭御用所があり、ここで監輔は在勤の荒井金助を訪ねると、「(函館奉行)小出大和守は既に箱館を去りぬ」と告げられました。
 
もともと監輔の冒険は、箱館奉行の小出秀実の公認を受けて始まったものです。樺太を出た監輔の目的は第一に小出奉行を訪ねて現地情勢を伝えることにありました。急いで南下する目的が消えてしまったのです。
 

小出秀実②

 

■箱館奉行を悩ますもの

樺太の不安定さは、国境の定めがなく、日露雑居の地になっていたことにあります。箱館奉行として小出秀実は、幕閣に何度も国境確定を求めていました。
 
樺太でのロシアの進出は遠く江戸表にも聞こえ、文久四(元治元年(一八六四))年二月になって、幕府は小出秀実に対して樺太を巡察し、その足で極東ロシアの拠点であるニコラエフスクに赴き、同地で樺太の国境を画定するように命じたのです。
 
五稜郭への奉行所の引っ越しを挟み、九月になって小出は、箱館のロシア領事のゴシュケビッチにこのことの仲介を依頼しますが、「決裁権がないので行っても無駄である。そのことならば帝都に行くべし」との答えでした。
 
この年は、三月の天狗党の乱を皮切りに、六月の池田屋事件、七月の禁門の変から第一次長州征伐と動乱が続きます。攘夷を貫いていた長州藩に四カ国連合艦隊は攻撃を行いました(下関事件)。どうしたらよいのか?———との小出の訴えは放置されました。
 
一方、箱館ではロシアに対抗するイギリスの活動が活発になっていきます。函館湾内でイギリス船だけ特別な場所に係留させろと要求したり、元治元(一八六四)年一月にイギリス領事館が全焼してしまうのですが、その再建にあたって地代の免除を要求したり、と小出を悩ませます。
 
そして慶応元(一八六五)年九月、イギリス領事館の二人と植物学者のホワイトレーが森村と落部(八雲町)でアイヌの墳墓を盗掘したことが住民から知らされました。かってに墓を暴くという非礼はもちろんですが、外国人居留区をかって抜け出したことも問題でした。
 
小出は、この強い態度でねばり強く交渉し、英国領事に盗んだ人骨の返却と賠償金の支払いを認めさせました。交渉相手は幕末史に名前を残すパークスです。
 

ハリー・パークス③

 

■樺太幕吏捕縛事件

慶応元(一八六五)四月九日には、アメリカの捕鯨船の水夫約一〇名が、函館市街で暴行を働くという事件も起こりました。このような雑事も重なってロシアとの国境交渉をなかなか前に進められないでいた中、小出秀実が最も恐れていた事態が樺太で起こりました。どのようなことが起こったのか、明治四十四(一九一二)年に樺太庁によって編集された『樺太施政沿革』から紹介します。
 

慶応元(一八六五)年に入りて、露国の樺太植民隊は百尺竿頭一歩を推進するのをもって男女混合する百余名の植民団は、突然我が勢力の中心地たる九春内に乱入し、その枝隊は湾の両岬端に及び、一つは遠淵を策源地とし、ムラビオーフの地名を附し、一帯は得髙・白主に固着せんとせり。
 
しかして我が官憲が極力宥解して事ならしめんとするにかかわらず、強いて各所に陣営を築き、大砲を据付け、我が関係に廃義的凌辱を加えることを頻繁にして、地方巡視の道程中にある吏員の彼らのために面縛の恥ずかしめを受け取るもの少なからず。ここにおいて駐在員は血書して断然たる命令の交付せられるを函館奉行小出秀実に請う(樺太庁編『樺太施政沿革前編・下』1912)

 
慶応元(一八六五)年七月一日、突然、男女の移民を引き連れた一〇〇名を超えるロシア隊が突然久春内を襲うのです。衆寡敵せず――幕府側はただ見ていることしかできませんでした。
 
翌慶応二(一八六六)年二月二十三日、ロシア陣地を偵察しようと水上重太夫以下八名がソリで現地に向かいました。ところがロシア人居住地付近に近づいたところで、ロシア人数名が現れて道を遮り、棍棒で撃ち掛かってきたのです。幕府の役人も防いでいましたが、あらかじめ計画された行動とみえ、すぐに五~六〇名のロシア人が現れて八人は捕えられてしまうのです。
 
この事件は、岡本監輔が樺太の久春内で航路再開を待っている間に起こったものです。監輔は「人心恟恟(きょうきょう)として静まらず」と島内の様子を記した後、「余が一身の全島警護するに大益あるべきに非ざれば、愚見の節を鎮台以下に献じて、万が一の参考に供せん」と述べ、守備隊の一員となって島に残るよりも、見聞してきたことを要路に伝えることが大切だと出航を急ぎました。
 
電話の無い時代ですから、樺太からの連絡は宗谷海峡の解氷が解けるのを待つしかありません。監輔は苫前で事件への対応のため樺太に向かうために北上する酒井弥治衛門一行に会っています。
 

ロシア陸軍士卒④

 

■遣露大使に任命

樺太の事件を知った箱館奉行小出秀実は、五月十四日には、事件の報告のために箱館を出て江戸表に向かいました。そして慶応二(一八六六)年八月十八日、幕府は改めて小出秀実を正使、目付石川謙三郎を副使に命じて、ロシアで樺太の国境を定めるように命じます。
 
実はこの一カ月前の七月二十日に将軍徳川家茂は病没しています。一五代将軍徳川慶喜が征夷大将軍に就くのは、小出に国境交渉の辞令が下された三日後でした。この間、一四代将軍の死は隠されていましたから、小出は徳川家茂の名前で辞令を受け取ったことでしょう。
 
このような混乱から遣露使節が横浜を出発したのは、秋も深まった十一月十二日でした。明治維新まであと四十八日、果たして幕臣小出秀実の対露国境交渉は維新の回天に間に合うのでしょうか?
 

■荒井金助と岡本監輔

『岡本氏自伝』は樺太から箱館までの日付を記していませんが、監輔が室蘭に着いたのは、小出が箱館を離れたすぐ後です。このことを監輔に知らせた室蘭御用所の荒井金助は
 
「彼(小出秀実)が意は命を奉じて露国に使し、露と談判して国界を久春内に定め、前代未聞の大功を建てんとす。ことに露人が意は久春内に止まるものに非ざるを知らざるなり」と言いました。対して監輔も
 
「信に然り。北島のために測るには幕吏が慣手なる因循姑息の四字に如くはなし。この節を唱えたらんにはあるいは小出の策を阻するに足らんとす」と言いました。
 
二人は、久春内に国境線を置くという小出の方針に不満であったです。奉行は樺太の実情を知らない。どこに国境を敷いてもロシアは南下を止めない。国境が定まっても奉行の名前を挙げる以外に意味は無い。二人は、樺太の実情を詳しく幕閣に届ければ、幕府の考えは変わるかもしれないと話し合います。
 
荒井金助は樺太経営策をまとめた書をつくり、十両もの旅費とともに監輔に託しました。さらに「一橋中納言の執事黒河喜兵衛が中納言にしたがって京都にいるので訪ねるとよい」と助言します。一橋中納言は最後の将軍徳川慶喜です。
 
なおこの荒井金助は、『室蘭市史』(1981)は旧市史を引用して「名は直盈、幕府旗下の士にして安政四(一八五七)年調役並をもって石狩に在勤し、尋で調役に任ず。資性豪爽にして経諭の才ありと称せらる」と紹介しています。
 
荒井金助は、安政五(一八五八)年に石狩調役を命じられ、現在の篠路の基礎を築くなど大きな功績を上げました。監輔と別れた後、奉行所からの命で箱館に戻りますが、この年の十一月に五稜郭の堀に落ちて亡くなったそうです。
 
室蘭を出た監輔は箱館で小出秀実の代わりに箱館奉行に就いた杉浦兵庫守梅潭(ばいたん)に目通りして、樺太探索の様子を伝えるとともに、渾身の力をこめた一書を奉行に渡しました。
 
 
 

【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
『新北海道史 第2巻通説1』1970
『新撰北海道史 第2巻 通説』1937
『館市史 通説編 第1巻』1980
『館市史 通説編 第2巻』1990
『函館市史年表』2007
『新室蘭市史 第1巻』1981
樺太庁編『樺太沿革史』1925
全国樺太連盟編『樺太沿革行政史』1978
全国樺太連盟編『樺太年表』1995
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』1994筑摩書房
①岩村武勇 編著『徳島県歴史写真集』1968.
②『幕末名家寫眞集』国立国会図書館デジタルコレクション
③https://ja.wikipedia.org/wiki/ 
④北海道大学ロシア・スラブ研究センター『極東ロシア・シベリア所蔵資料ライブラリー』http://srcmaterials-hokudai.jp/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。