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【連載:北海道民の歴史 13 】
岡本監輔の明治維新 ②
監輔の樺太・蝦夷地経営五献策
樺太は古来より日本領である
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岡本監輔①
慶応二(一八六六)年の恐らく五月、最後の箱館奉行となる杉浦兵庫守梅潭(ばいたん)に目通りした岡本監輔は、樺太全島制覇の顛末を報告するとともに、渾身の思いを込めて書き記した提言書を提出しました。
この書は、二月に起きたロシアによる九春内占領・邦人拘束事件を背景に、樺太並びに北海道の在り方について監輔の意見をまとめたものです。この後、監輔は京に上ってキーパーソンに北地開拓の必要性を説きますが、この意見書が下敷きになっています。
間もなく発足する明治新政府に大きな影響を与え、開拓使の成り立ちにもかかわることから、提言書の全文を『岡本氏自伝』から紹介します。和人として初めて全島を踏破した経験に裏打ちされた提言は貴重で、今の私たちも学ぶものがあります。内容は五部に分かれます。
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■第一 樺太は日本領である
第一に曰く、北蝦夷島一円に皇国の固有たるは、漢人も古より認知したるところにて、『山海経』に「北倭起干黒竜江口」と見え、朝鮮の由叔舟も皇国の彊域(国境)を「起干黒竜江口之北」といえり。
先年の御談判(=文久訪欧使節による国境交渉)により、西岸は幌小谷(ホロコタン)を限り、東岸は盤香(タラキカ)に止まり、五十度を持って経界を定め給わんとせしは、一時の権宜(その場限りの処置)なるべし。
北蝦夷地、すなわち樺太が日本固有の領土というのは、中国も昔から認識していたといい、『山海教』と由叔舟を挙げています。『山海教』は漢代の地利書で、そこには「北倭起干黒竜江口」、つまり「北倭は黒竜江の河口から起こる」とあるそうです。ほかに樺太を指すであろう「毛民国」という記述もあり、北倭はアイヌ人を指していると考えられています。
由叔舟は一五世紀の李氏朝鮮の外交官で、室町時代に日本を訪れています。多くの書物を残していますが、そのいずれかに「日本の国境は黒竜江の北にある」と書いているようです。監輔の博学に驚きます。
そして監輔は、福沢諭吉を通訳とした文久元(一八六一)年の遣欧使節がサンクトペテルブルクに赴き北緯五〇度で国境を画定しようとしたことは一時の方便に過ぎないと言います。
かの地を『樺太』と呼べるは、皇国よりの呼称にて、奥地夷民の歌謡にも唱われるほどなれば、露国に『サガレン』というは、土人かつて耳をかさざるところなり。樺太はあるいは唐人に作るものあり。
樺太はもとは土人の語にて、自ら一説あることなれども、唐人として字のごとく見るときは、唐津・唐崎・韓池・韓人池の類にて、満州夷民に構わず、住居せしめたるより、かかる名目もできたりというも至当の名称なるべし。
いわんや夷中には本邦の古語も存し、幣を「ヌサ」または「イナホ」などと称する類多きや。風俗も全く我が上世の遺風たり。これは紛れもなく祖宗の遺民たるなり。
そもそも樺太島を「樺太」と呼ぶのは日本の呼び方であって、「樺太」の呼び名は樺太アイヌ人のユーカラにも唱われていると言います。一方、ロシアは樺太島を「サガレン」と呼んでいますが、この呼び方を先住民も聞いたことがないそうです。
「樺太」という漢字は中国では多く見られる地名で、現住民族に構わず、移住した漢人の間から起こった名称であろうと監輔は推察しています。
されども内地危急なればとて、南島の警護も充分ならしめず。依然として前日のごとく過ごし給わば、いかでその地を保ことを得ん。箱館港一港によりて、北地を維持せんとするは実に覚束なきことなるべし。
このように日本古来の領土でありながら、同じく固有の領土である南島、すなわち今の北海道島の防衛も十分ではない。このままでは北海道も危ない。拠点が箱館港ただ一つで、樺太・北海道を維持することはできない、と警鐘を鳴らしています。
愚案に石狩あたりは天然都府の地形にて、近年永住の輩もすこぶる多く、すでに城市ともなるべき勢いあれば、なにとぞ存上の方々より率先して彼の地に移住し給い、江府京阪は言うまでもなく、闔国繁冗の頑民(全国から人々)を移し、衣食器用に内地の運送を仰がざるよう指揮したまわんは、一時に庶民雲集し、百万石の収実は目下に得られるべし。
天下の人心も大いに興起し、財貨の融通なども便なかるべければ、此辺はいわゆる其命維新(その命これ新た)といえる上国となり、ことに小樽内は良港なれば、大阪・兵庫などと同じく殷実の埠頭(豊かな港)となるべし。
石狩川は甚だ遠く流れ、水源にはおびただしく大木を生じ、大鑑を製造するなど自由なれば、ようやく内地の困弊を救いたてまつるも意の如くなるべく、ようやく外人の肝を破るに足りて、北島経界の談判なども何様にも届くべし。これは蝦夷島第一の急務と存じたてまつるなり。
近年有志の者ども競いてかの地を開拓せんことを願えども、勢いに任せて利導したまうことなきは、何のためしかるにや。一日も早く開拓したまはんことを祈るなりと。
ここで監輔は、北海道の開発論を述べます。石狩、すなわち現在の札幌圏に率先して住民を移せば、その豊かな資源から遠からず発展するだろうと述べています。発展ぶりを見れば、欧米列強も引き下がり、領土問題も解決に向かうと言います。そして、そのためにも一日も早い移住による開拓が急務であると訴えます。
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ウイルタ人の娘①
■第二 樺太は資源の宝庫
その二に曰く、露人の北蝦夷島に来たる者、年をおって多し。痛憤のいたりに堪えず。これは満清衰微したる由なるべし。露人は英仏を恐れると称すれども、全島を占有したき趣にて南端のみを経略するを見れば、名を英仏に托し、実は本邦の強弱を卜(ぼく)するに必ず、本日の急務はぜひとも大藩に割渡し便宜をもって警護せしめ、努めて多人数を徒し、勝手に事業を営ましめんに如かじ。
ロシアが樺太に進出するのは、英仏がアムール川を上ってシベリアを落とそうとするのを防ぐためだと、ロシアは主張していました。監輔は、そうであれば北側、アムール河口付近の守備を固めるはずなのに、久春内など南端地方ばかり狙うのは、英仏の名を借りて、本邦の出方をうかがっているに違いないと言います。ロシアのねらいが北海道島にあるに違いなく、それを防ぐために急いで大藩に命じて分割警備させよと主張しています。
北地を評して「漁業の他に国益なし」など言うは、国土の宝たるを夢にだも知らざる白痴漢たるのみならず、実に天下の罪魁(悪の親玉)と想われぬ。生が奥地を経歴たる節にも、本所にて露人が耕作し得たる麦、胡瓜(きゅうり)の類を見たることあり。麻枲(しま=麻のこと)はいずれの地方にもすこぶる多し。
夷中に(ハイ)と唱ふるものは枲(からむし)の類にて、極北なる鵞小門(差北端の地)のあたりまで著しく繁生せり。右の一種にて膨大な利益を起こすにいたらん。
いわんやいたるところに良材石炭なども多く、沿岸の鯨鯢(くじら)の出現するものいく万数えるを知らず。諸般の魚類海獣など枚挙すべからずにおいてをや。いずくんぞ軽々しく外人に附すべきものならんや。
一方で、北海道は資源の宝庫であると主張しています。監輔が中部樺太の拠点ともなっている落石(オッチシ)で、ロシアの採掘現場を偵察したときに、農耕の跡があったことをうけて農業の可能性を指摘し、樺太・北海道の可能性を否定する者を白痴か犯罪者とまで激しい言葉で非難しました。
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樺太アイヌ②
■第三 移民は決して難しくない
その三に曰く、久春内滞在の露人どもすでに二百余人に及び、奥地本所には三百人もあるべし。向後に渡来する者、日に多からんには、奥地も終いに彼らがための繁華の地となり。蝦夷ども望みを皇国に絶つにいたらん。国が十分なるも経略の名義を失わんとする。今日の急務は奥地を開拓するしくはなかるべし。
東岸なる小六子(オロッコ)なども、上地の前までは常に久春古丹に来たりて交易し、年ごとに目見と称して運上屋に来たり、謁見の礼を行いたりという。十年前に運上屋支配人が奥地に赴きしとなども、首長をはじめとして夷中婚姻の事までも出願したる由なり。
近年露人が真縫川に家屋を経営したるなどは、奥地の土夷まで不平を唱えたり。肉分夷(ニブフ)も鍋釜什器など、ことごとく本邦を仰ぎて、常に邦人が来たりて漁場を開かんことを望める状なり。
樺太におけるロシアの進出状況と在住少数民族の動向が語られています。監輔が箱館にもどった前年の冬に久春内に二百名ものロシアが突然と訪れて八人の幕府官憲を拘束しました。「奥地本所には三百人」は監輔自身が目撃した落石(オッチシ)の拠点のことです。
樺太の少数民族のうちウイルタ(オロッコ)人は、日本の拠点である久春古丹に来ては交易し、運上屋、すなわち幕府の出張所を訪れて謁見の礼をとり、首長の人選から婚姻まで幕府に届けたといいます。ウイルタ人が日本の支配権にしたがっていたという証言です。
日露雑居の地になってロシア人が真縫川に拠点を構えると、樺太北方の少数民族はこぞって不平を漏らし、日本を待望し、日本が来て漁場を開くことを待ち望んでいたといいます。
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ウイルタの少女①
某が廻線浦の節も、皇国人と承知したる者は、乾魚草実など種々につらね来り贈られども、露人は毎々暴行ありて、夷ども申し合せ、殺害したることなどあり。露人と認めては戸を閉ざし、避匿するにいたり。彼は我が種類に非ずとの説を主張し、一心に皇国に依頼せる実情なるは、度外視し難きものと存じ奉るなり。
ロシア人は、原住民族に対して横暴で、多くの暴行を加えたために、原住民たちが共謀してロシア人を殺害する事件があった。ロシア人だと認めると戸を閉ざして隠れてしまう、とは監輔が樺太踏破で得たことです。一方で、日本の者が訪れたときには贈り物を贈って歓迎ました。彼らの日本に寄せる気持ちは決して無駄にはできないと主張しています。
天時について言わんにも、昔時は寒気凝固すること甚だしく、地震雷電など覚えざりしに、近年は時々雷震を覚え、久春内など厳寒にして凌ぎがたき風評あり。かつて燕雀類を見ざりしも、四五年来は乳燕も見え、雀もようやく夥しという。
鵜城(ウショロ)は久春内の北三十里余りにあれども、年中の気候は松前等しとて同処に越年せし者の話あり。皇国人の競いて彼地に赴かんとする勢いなるに、これを利導したまうにいたらざるは、窃に解せざるところなり。
樺太の気候に話は移ります。樺太は極寒の地との風評がありました。確かに昔はシバレが激しく、雷なども聞くことは無かったようですが、温暖化なのか、近年は雷雲をみることもあるそうです。なかでも鵜城(ウショロ)は、大陸に近いためか、気候は松前と変わらないそうです。内地人が争うように松前に行こうとしているのに、これを樺太まで誘導しないのは解せないことだと言っています。
皇国も三十年前までは茫洋に属し、江府も三百年前までは広漠の原野と承る。大地球は幾万年を経過すべきもの知るべからず。いずくんぞ一時の小労を憚りて、万世の大計を遣るべけんや。
日本もペリーによって開国させられる前は、世界的にはつかみどころのない国であっただろうし、江戸も徳川家康が幕府を開くまで原野でした。そう思えば、地球の歴史は無限です。今樺太が未開発の僻地であったとしても、そこに力を注ぐことは将来きっと実を結ぶであろうと、述べています。
北地の事は英仏等も懸念せらるる所なりと承りぬ。経界の説は万国公論に従ふも可ならん。いやしくも土人仰慕の情実を問わず。土地要害のいかんを顧みず。にわかに経界を定むるにいたれば、南島もあるいは名義を失ふにいたらん。南北同一種の遺民なればなり。
そして北海道・樺太のことは、英仏の懸念になっており、国境は国際法にしたがって確定するとしても、ここまで日本を慕っている樺太の少数民族のことを思わず、樺太の価値を顧みず、急いで国境を引いてしまえば、南野北海道島も失いかねないと、ロシアに赴いて久春内に国境を引こうとしている小出秀実を批判しました。
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幌内川を渡るニブフ人①
■その四 ロシア進出の現状
その四に曰く、北蝦夷島一円に皇国の領分たるは、オランダ人の地図にて既に分明なり。先儒の説に半島これを北に支那に属すと解かれたるは、何の考えもなく一節あるままに書したるなれど、実は島国第一の罪民にて、その書は一切焼却したく存ずるなり。今日露人に接する名義はいくらもあるべし。
千年前に越国守阿倍比羅夫が蝦夷を征伐し、都府を後方羊蹄に置きて五十余島を管轄せられたりといえるは、東北はカムチャツカにいたり、西北は山丹に至れる諸島にて、この島もその中にあること疑うなかるべし。
監輔は再び樺太の日本領有の正当性を述べます。すでにオランダ人の地図に記されているというのは、一六八二年のフリースの報告でしょうか。樺太は長く半島と思われていました。
先学の書には、中国に属するとするものがあったようですが、監輔はその書は国防上の脅威であって、そうした本はすぐ焼却すべきだと主張します。もし、ロシアの目に触れれば、領有の名分になりかねないからです。
土人風俗の奥羽と同一なるは言うまでもなく、言語も奥羽地方には今に至るまで夷語の存するもの多し。今日夷中にコンル、トマリ、ムカシ、チャチャ、バッコ、メノコ、ボウ、サランバ、アンチキネハなど言えるは全く皇国の言葉にて誰も知悉くせるところたり。
蝦夷は皇国に入貢せること、最も古く、樺太も同じく蝦夷たり。漢土に樺太を呼びて島鬼国(ウキコク)、毛人国と言える蝦夷人種のみあるがためなるべし。
樺太の土人、恐らくは樺太アイヌ人が指すと思いますが、「土人風俗の奥羽と同一なるは言うまでもなく」は、東北地方に暮らしていたアイヌ人民族を指しているのかもしれません。そして東北地方には多くのアイヌ人語由来の言葉が残っていると言います。ひるがえって樺太の少数民族に聞かれる言葉には多くの日本語由来の言葉があることは誰でも知っていると言って、代表例を挙げました。
北海道のアイヌ人は大和政権に古くから朝貢をしていました。樺太も同じくアイヌ人が暮らす島です。中国の古い文献に樺太の住民として「島鬼国」「毛人国」とあるのは、樺太の住民がアイヌであった証しであると監輔が述べています。すなわち、①樺太はアイヌが住んでいる→②アイヌは日本に属している→③ゆえに樺太は日本に属している、という樺太の帰属証明です。
方今肉分(ニブフ)寿女連が村落に蝦夷の地名と人種と多く、蝦夷が部落に肉分(ニブフ)小六子(オロッコ)の地名も人種もなきによれば、ニブフ寿女連が後に来れるものたるは疑うべきに非ず。これらも確固たる名義と存じ奉べるなり。
一方で、樺太の大陸側に居住し、ロシアにかなり染まっているニブフ(ギリヤーク)人とアイヌ人が混血した寿女連については、アイヌ人よりも後になって樺太に渡ってきたことは疑いない。このことからも樺太が日本領である証拠だと断じています。
五十度経界の節は、国中に不服の者多きとところなれば、国人あずかりせざる説をもって露人に談判し、敵国外患あるを幸いとし、国中の人心を鼓舞し、国勢の回復するに至るまでは、しばらく因循(いんじゅん=ぐずぐずすること)に附するも可ならん。
努めて多人数を移して地利を起こし、露人の我に害を加ふるを見れば、赤手もて捍察し、大義を万国に貫徹せしるむようあらまほしきことなり。
プチャーチンとの日露和親条約交渉のおりに川路聖謨が主張した北緯五〇度を国境とする案については、不服に思う者も多いだろうが、今ロシアがイギリス・フランスと強く対立していることを幸いとして、日本が樺太に於ける勢力を回復するまで、この案でずるずると交渉を引き延ばし、その間に大人数を樺太に移住させて、ロシアが諦めさせるようにするのが国際法にもかなった遣り方だと説いています。
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ニブフの少女①
■第五 一刻も早く樺太に移民を
その五には、露人が常に垂涎するところは九春古丹にあり。九春古丹は全島第一の良港にて、彼の地に割拠するときは、南方に向かいて侵略するの基本も立つべきがため、鵜城・敷香は全島胸腹の地たるにも構わず、専ら南方を経略と見えたり。
しかれば久春古丹も多数の守衛なくば、あるべかざるはもちろんなりと言えとも、鵜城は我において最第一の要害なればことに手厚く処置したもうようにあらまほし。
「彼の地は、越前大野藩の漁場にて一〇年以来は地も大いに開け、人心も最も安堵しけるも越年するもの僅か三〜四〇人に過ぎず。警備も整頓すべきはずあらず。なにぶんにも露人に信ずべき人数を移し、ついに拓地の実効を奏したきことに存ずるなりと。
最後は当面の方策です。慶応元(一八六五)年の冬に突如ロシアは二〇〇人の移民を久春内に送り込みましたが、これは北海道に野心があるからだと断じます。樺太だけを考えれば、鵜城・敷香を抑えるべきだからです。
もっとも樺太のへそに当たる鵜城が日本に残されたのは幸運でした。ここには日本の拠点がありますから、いち早く多数の移民を送って拠点を強化すべき氏と監輔は提言します。
監輔の思いは、久春内で国境を引こうとロシアに赴いた小出秀実の交渉を止めて、ロシアとの歴史的に日本領で疑いのない樺太がロシアの手に落ちることがないようにいち早く移民を移して開拓を実現すべきとの思いです。
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ウイルタ人の墓①
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ニブフの墓①
【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
樺太庁編『樺太沿革史』1925
全国樺太連盟編『樺太沿革行政史』1978
全国樺太連盟編『樺太年表』1995
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』1994筑摩書房
①『日本地理体系10・北海道樺太編」1930・改造社