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【連載:北海道民の歴史 14 】
岡本監輔の明治維新 ③
監輔、京に上る
小出秀実のロシア派遣を阻止せよ
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岡本監輔①
慶応二(一八六六)年二月にロシアは樺太久春内に突如数百人の移民を上陸させて占拠するという挙に出ました。春を待って樺太から箱館に赴いた監輔は、この久春内で国境線を引こうと箱館を出た前箱館奉行小出秀実を止めようと、同志となった山東一郎とともに江戸から京へ上ります。秀実がロシア特使として出国するのが先か、監輔が待ったをかけるのが先か、南北蝦夷地の命運をかけたレースが始まります。
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■樺太全図の作製を命じられる
岡本監輔が、慶応二(一八六六)年に樺太から戻り、箱館で奉行の杉浦兵庫守梅潭(ばいたん)に必死に訴えたのは、ロシアの狙いは北海道(南蝦夷地)にあり、このまま樺太での支配拡大を認めてしまえば、北海道が危なく、ひいては日本全土も危険にさらされるという危機感でした。
そうした状況にもかかわらず、小出大和守秀実はこれからロシアに渡り、久春内を国境として領土交渉をしようとしているのです。久春内は、北緯四八度の位置にあり、福沢諭吉ら文久遣欧使節がロシアで日露国境に定めたいと交渉した北緯五〇度ラインよりも南で、監輔が樺太から出発する直前にロシアに不法占拠されていました。小出の国境交渉は、久春内を占拠したロシアの不当行為を日本が容認することでもありました。
久春内は、嘉永六(一八五三)年にもムラビヨフにより占拠されたところで、ロシアは樺太全島支配の拠点として久春内を捉えていたようです。それだけに小出秀実の妥協案は、ロシアに樺太全島支配の道、さらには南蝦夷地、すなわち北海道島侵略の足がかりにもなりかねないものでした。その向こうには日本本土があるのです。
余はこの説もて露人に抗し、五〇度の説あるに至らば一歩譲りて盟約を定むべくも、然らざる以上は露人の南するままに我は北して全国の力を尽くし地利海産を網羅しながら、北門鎖鑰を厳にし、国人をしてほか顧あるに暇あらざらしめんとものと切に妄意したるなり。
樺太全島踏破の経験から得たこのような想いを伝えようと、監輔は小出秀実に会うため箱館に入りましたが、すでに小出は上京していました。そこでやむなく監輔は、樺太から箱館に向かう道中の苫前で会った幕吏酒井弥治衛門の「留守宅を使っても良い」との言葉を思い出し、酒井家に入りました。この家には客分として「山東一郎、関貞吉などいえる者あり。いずれもともに談するに足りるなり。よろしく交親すべし」とのことでした。
酒井に教えられた家を訪ねると、山東一郎、関貞吉のほか、十時三郎という浪士がおりました。一同はすぐに意気投合し、「従来の経歴を断ずるに往々旧友に面会した心地なり」。この時期に箱館に居住する浪士は、多かれ少なかれ同じような経緯を持っていたのです。
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幕末から明治に入る頃の箱館①
こんなこともありました。ある日、水戸藩が編集した『大日本史』を取り上げて「同書に蝦夷を外国伝に列したるは、水府(水戸藩)の不覚なるが如し」と話題になり、「露人が問はるる事あらば先生は何とこたえらるるか」と求められると、監輔は「これは恐らく粗なる見識なり。本史に外国というものは我が大八州の外にあり。神明の子孫に非ざるものにていわゆる蕃別の類なれば、古より我に属し、往来交際せし諸国を謂うなるべし。我に関係なき度外の国に非ざるべし」と答えました。
水戸藩の『大日本史』は蝦夷地を外国に位置付けているが、これをロシアが言ってきたらどう答えるか、と問われたのです。監輔は、『大日本史』の「外国」は大雑把な言い方で、単に大八州(古事記や日本書紀に書かれている島々)以外を「外国」と称したに過ぎず、同書の「外国」とは、太古から日本に属して往来交際してきた「蕃別(ばんべつ=もろもろのえびす)」を指すのであって、日本の歴史に全く関わりのない欧米諸国のような国々を指すものではないと答えました。監輔の世界観を示すものとして紹介します。
さて、監輔としては一刻も早く小出秀実を追いかけたい気持ちでしたが、監輔の身分は箱館奉行の配下にある幕府の吏員です。箱館奉行の杉浦兵梅潭は、樺太在住経験のある成瀬潤八郎の配下で、樺太全島の地図を製作するように監輔に命じました。この成瀬は「寸毫の間違いも許さざる人物にて余を拘留しあえて放たず」という人物で、地図製作のために六〇日も足止めを食らってしまいます。
■志士・山東一郎
一方この頃、酒井弥治衛門邸に同居していた山東一郎は、関貞吉とともにロシア正教会宣教師のニコライについてロシア語の勉強をしていました。もともと関貞吉がニコライに頼まれて日本語を教えていましたが、そこに山東も加わる様になったようです。
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着任時のニコライ②
監輔も彼らについてニコライと会いました。監輔が樺太踏破の話をするとニコライも感服。明治になってニコライが東京に移ると、家を訪ねて交流する仲となりましたが、「もとより彼が説法には感服せぜる所なれば、深く交わることを欲せず」。時代が変わっても監輔はニコライに対する警戒心を緩めませんでした。
樺太地図の作製が終わると、監輔はようやく上京が許されます。山東一郎が従者として従うことになりました。ここで幕末の北方史で岡本監輔と並ぶ活躍をする山東一郎について『北海道史人名辞典』(S30・橘文七編・北海道庁資料編集所)から来歴を紹介します。
山東一郎、後の山東直砥は、天保十一(一八四〇)年二月に和歌山の木材商山東儀兵衛の長男に生まれました。恐らく家業が傾いたのでしょう。貧苦から高野山高台院に出されます。しかし、思春期になった山東は、密教の地獄極楽の教えに疑問を抱き、行状も僧侶にあるまじきものがあったために師の怒りに触れ、阿波国(徳島県)の明王院に移されました。
徳島で寺僧を務めながら山東は、四宮金谷について儒教を学びます。そして四宮の勧めで還俗して播州(播磨=兵庫)の儒学者・河野鉄兜(てつと)の門「新塾」に入りました。ここで松本奎堂らと交わり、攘夷派の志士として活動します。松本奎堂は文久三(一八六三)年八月の「天誅組の変」の指導者の一人で、幕府軍の攻撃で討たれます。
山東も松本ら天誅組と呼応して越後で義旗を揚げようとしますが、奎堂の死によって事はなりませんでした。この後、航海術者伴鉄太郞について航海術を習おうとしますが、これも挫折。そしてロシア語を習得しようと考えて、伴鉄太郞の添え状を手に箱館に渡ってきたのでした。
箱館からロシアに渡り、本場で言語を習得しようと考えたのですが、条約により許されていないとロシア領事館に断られました。八方塞がりの中で監輔と出会い、行動をともにすることとなったのです。
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山東一郎③
■監輔、江戸に入る
二人は箱館から青森の大間に渡り、盛岡、仙台、白川を経て江戸に入りますが、途中の岩手では、「村役人ども上下の礼服を着し、下おば股までも褰(まくりあ)げ、村端五六町の外に送迎し、下に下にと警蹕(けいひつ=先払い)の声を発し、路夫を止め、路傍に俯状せしめたるを見て、甚だ安からぬ心地したりし」であったそうです。この時の監輔が箱館奉行の特使の待遇であったため、このような儀礼で迎えられたわけですが、江戸時代の幕府の威勢をしばせるエピソードです。
『岡本氏自伝』は監輔の江戸入りの日付を記していませんが、四月に樺太から箱館に入り、地図作製のために六〇日間留め置かれたことを考えれば七月と考えられます。「江戸に入り、相識の人を訪う。薩長征伐の沙汰ありて羽倉綱三郎を始め二~三の知己も多くは西上して家に在らず」。第一次長州征伐は七月二十三日からですから、その直前で江戸も騒然としていた頃でしょう。それでも山東の紹介で儒学者で幕臣の林靏梁に会い、樺太のことや小出秀実の渡航を止めたい旨を話すと、二円の路銀を支援してくれました。
江戸で小出秀実の動静を探ると、翌年に将軍となる一橋慶喜に会って全権大使としての裁可を得るため、すでに江戸を出発して、京都に向かったばかりのようです。小出がまだ国内にいることを知ると、監輔は奮い立ちました。
余は小出に先たらんと欲し、同じく東海道を行きたりしが、ゆえに小出を避くるようにし、あえて余が京に入ることを知らしめず。山東も江戸には相識の依托(いたく=たよる)すべきものなくして免状をえるに由なければ、さらにまた余と同じく京に入れり。
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第一次長州征伐④
■京都での活動
京に入った監輔は、山東と別れて羽倉綱三郎を訪ねます。羽倉は著名な儒学者で旗本の羽倉簡堂の養嗣子です。旧知の仲で監輔を見ると大いに喜んで「今日にして足下に面会することを得たるは何よりも幸なり。しばらくここに住せらるべし」と言います。監輔は羽倉家を拠点として京で活動を始めました。
事は急ぎます。この翌日に羽倉の紹介で一橋慶喜の執事である黒川喜平と会うことができました。監輔は、室蘭で託された荒井金助の書を取り出して渡すとともに、自分の経験、ロシアの樺太での活動状況とその狙いを切々と説いて、小出秀実の渡航を考え直すように求めました。
対して黒川も「いかにもしかる事なり。国家緊急の勢いにて北地の事など苦慮するに暇あらざるこそ遺憾なし」と答えました。監輔が念を押すと「何れにも其筋に問い、公にも上申し、余(黒川)が力の及ばん限りは尽力すべし」と言います。
続いて外国奉行の平山敬忠を訪ねました。平山は「余(監輔)の説はもっともなりと評せられしかども、応接に失策を極めたれば、小出が使事は中止すべからざる勢いなり」と言います。幕府の樺太におけるロシア対応は失敗を重ねてきただけに、ここで小出の派遣を中止することはできない、との返答でした。
引き続き羽倉の紹介で監輔は、大監察岩田半太郎、監察川村順一郎などとも面会し、小出のロシア派遣の再考を求めます。「いずれも余(監輔)が志を感じたる様子にて感心の事なり」との態度を示しましたが、派遣を止めようとの言葉は聞かれませんでした。
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文久3年発行の京都地図(1863)⑤
■小出秀実と対面
そして監輔はついに小出秀実その人と面会します。監輔はこう述べました。
閣下が国家のために万里の波涛を凌がせられたまうは生等が異論を容るるところに非ずといえども、今日衰弊の勢いをもって大敵に応接せんは尊意の貫徹しがたからんことを恐るるなり。今しばらく大勢の回復するを待ちたまわんも晩きに非ざるべし。従来露人の実情も常に我が勢力のいかんを窺いて進退するの始末と存ずるなり。労して功なきは智士の取らざるところなり。閣下が徒労せざるを信ずといえども、愚見はかく存するにより、あえてはばかることなく上申するにて候。
監輔にとって小出秀実は、前箱館奉行として一介の浪人であった監輔を幕臣に取り立て、樺太全島踏破の志を壮挙として許した恩義ある人物です。その秀実に対して監輔は、ロシア行きを思いとどまるよう婉曲的に、しかしはっきりと上申したのです。
これに対して、平山敬忠などから知らされていたのでしょう、小出秀実は監輔の用向きを把握しており、次の様子であったそうです。
小出も既に余が異論あるを識られたるにや、「岡本文平が(樺太)全島を維持するに相違なしとせば、余において何ぞ露国に向かうことを要せん。勢いのやむべからずをいかんせん。傍観の論は実際に迂遠にあるものなり」とて、さらに顧みざる様子なりゆける。
岡本監輔の言うとおりであれば、確かに自分がロシアにいく必要はない。だが、ここまで準備が進んでしまったことをいまさらどうしようというのか。責任のない外野の声は全く役に立たない———と言って取りつく島もありませんでした。
函誰奉行であったとはいえ、一介の旗本が日本国を代表してロシア帝国に乗り込み、国境交渉を行うことには、幕閣はもとより、この時分であれば朝廷の了解も要したことでしょう。そうした準備が全て整い、あとは出発を待つだけとなったのです。
小出秀実としても、監輔が無事に樺太踏破を成し遂げたことは嬉しかったでしょうが、だからといってその進言を受け入れることは不可能でした。今さら何を、という気持ちであったでしょう。秀実の態度に監輔は「海上無事に帰航したまえ。某(監輔)はしばらく帰省せん。閣下の帰国を待て再候し、大功を賀すべきなり」と答えるのが精一杯でした。
■失意のまま故郷へ
慶応二(一八六六)年十月十二日、小出秀実は、江戸に移ってロシアに向け出発しました。一方の監輔は故郷である徳島に戻ります。
兵馬倥偬(こうそう=ゴタゴタしているさま)の際に在りて、北地のため尽力するの益あるを得ず。諸藩も右往左往に奔走する最中なれば、毫も北地の事を談ずる事を得ず。よりて志を転じ、しばらく父の阿波に帰省することに決したり。この歳の十一月のことなるべし。
北地防衛こそ日本が傾注しなければならない大事であるとして苦労して樺太に渡り、そこで得た知見を幕閣に届けようとした監輔でしたが、時代は幕末動乱の最中、北方に目を向ける者はいません。失意のまま監輔は故郷に戻りました。和人として、いや、世界で初めて樺太全島制覇を成し遂げた監輔の志は、このまま歴史の中に埋もれてしまうのでしょうか。
【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
樺太庁編『樺太沿革史』1925
全国樺太連盟編『樺太沿革行政史』1978
全国樺太連盟編『樺太年表』1995
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』1994筑摩書房
橘 文七編『北海道史人名辞典 第2巻 き-そ』1955・北海道文化資料保存協会。
①函館中央図書https://archives.c.fun.ac.jp/documents/1810234508/0001
②『函館ハリストス正教会史』2011・函館ハリストス正教会史
③みなみ北海道 最後の武士達の物語 https://boshin150-minamihokkaido.com/mononofu/santo_ichiro/
④ジャパンアーカイブス https://jaa2100.org/entry/detail/030246.html
⑤国立国会図書館デジタルライブラリー https://dl.ndl.go.jp