北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 3 】 
第1章 明治天皇の北海道開拓 3

 

《1855 日露和親条約の締結》

国運をかけて———川路聖謨とプチャーチンの舌戦

 

安政元(一八五五)年十二月二十一日、わが国はロシアと日露和親条約を結びました。今も日露両国に横たわる領土問題、領有権未定がわが国の公的立場となっている南樺太の位置付け、さらには樺太と北海道の両方に在住していたアイヌの人々との問題。それらの原点にこの条約があります。19世紀半ばの複雑な国際情勢を背景に幕臣川路聖謨とプチャーチンは、それぞれの国運をかけて激しい舌戦を繰り広げました。

 

 

■プチャーチンの長崎来航

嘉永六(一八五三)年六月三日(新暦七月八日)、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が江戸湾に来航し、日本に開国を迫りました。黒船来航です。このことに臍をかむ思いをしたのが古くから繰り返し日本に開国を求めてきたロシアであったでしょう。
 
アメリカが日本に通商を迫ると聞きつけたロシアは、アメリカに負けてはならぬと宰相ネッセルロードの国書を届けるべく、プチャーチン提督を特使として日本に派遣しました。
 
驚くのはプチャーチンが四隻の軍艦でバルト海のクロンシュタット軍港を出発したのは一八五二(嘉永五)年九月七日であること。ペリー艦隊がバージニア州のノーホーク港を出発した十一月二十四日より先でした。ペリーの日本航海は準備から大々的で、幕府にも六月にオランダより来航が予告されていましたから、この頃、ロシアも知ることになったのでしょう。
当時の欧米列強の情報戦の熾烈さ、そして封建時代にあった日本との情報の格差を感じてしまいます。
 
プチャーチンが日本に来航したのは、ペリーよりも遅れること約一カ月、嘉永六年七月十八日の長崎です。プチャーチンに交渉を迫られた長崎奉行・大沢豊後守は、ここで国書の受け取りを拒否するとロシア船が江戸に向かうと危惧し、幕府と相談の上、通商と国境画定を要求するロシアの親書を受け取ります。そこには、第一に日露の国境画定、第二に日本との通商樹立が要望として挙げられていました。六月二十二日に十二代将軍徳川家慶が逝去したばかりだったため、奉行はこのことを理由に「今すぐ返事はできない。時間がほしい」と答えました。
 

プチャーチン①

 

■露兵、久春古丹を占拠

一方八月三十一日、ロシアはこの交渉に圧力をかけるべく樺太の久春古丹に七三人の陸戦隊を上陸させて占拠するという強硬策に出ました。久春古丹には松前藩の番屋がありましたが、本土に引き揚げたばかりで、現地には三〇数人の越年番人とアイヌがいるだけでした。そこに突然のロシア兵上陸。呆然として事態を見守ることしかできません。ロシア兵はまたたく間に大砲八門を据え付けて強固な陣を築きまいた。
 
この事件が松前藩の届いたのは九月十六日。松前藩は藩兵を向かわせようとしましたが、海が荒く、宗谷海峡を渡れないうちに冬となってしまいました。一方、江戸の幕府中枢に届いたのは九月二十八日です。幕臣青ざめたに違いありません。十月八日、遅まきながら幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲、荒尾成允(あらおしげまさ)らを集めて対ロシア交渉団を組織します。
 
幕閣はプチャーチンが交渉のために江戸表に来ることを恐れ、交渉団に全権を与えて長崎で交渉をさせることとしました。川路は幕府の御家人で大阪奉行の吏員として大阪の行政に当たっていましたが、嘉永二(一八九四)年に『神武御陵考』を著すなど学者としても知られていました。嘉永(一八五三)年に海岸防禦御用掛に任じられています。
 

川路聖謨③

 
川路は、佐渡奉行だった時代に外国船来訪を警戒する立場から西洋事情に関心を高め、渡辺崋山・間宮林蔵とも交わって「嫌疑さへ受けさりにも拘わらず、狂人と称され、奇を好むものと呼ばれるのも厭わず、海外の事情を切に論究して怠らず」(『川路聖謨之生涯』1902)と言われるほど国際事情を研究。幕閣にもしばしば提言していました。
 

久春古丹③
北海道歴検図 (1871)

 

■クリミヤ戦争の勃発

世界情勢の変転は急です。十月にオスマントルコがロシアに宣戦。クリミヤ戦争が始まります。この報が遠く離れた極東のプチャーチンに届くと、彼は十月十八日に「戻ってくるまでに返答を考えておくように」と催促状を送りつけて長崎を出航しました。 
 
クリミヤ戦争はロシア対トルコ・イギリス・フランスの戦争でしたから、プチャーチンの突然の出航は極東に展開していたイギリス・フランスの戦艦の様子を探るためでした。
 

■日露交渉 第一ラウンド

十二月五日、プチャーチンが長崎に現れ、二十八日まで川路聖謨等の幕府交渉団との五回に渡る交渉が始まります。交渉は日露の国境画定に終始しました。プチャーチンは久春古丹占拠を弁明しつつ
 
「サハリンはもともと我が居住地ではないが、わが国の者が罷り越したところ、かの地の者がロシアに帰属したいと言うため、我が王の命により軍を遣わしたのである。日本所属の地には手を出さない。国境を定めないと外国のものの通航にも差し障りが出る。早々に国境を決めたい」
 
と、国境が決まれば久春古丹に置いた軍を引き揚げると言いました。対して川路は
 
「すでに領有の意思はないという書簡を貴国からもらっている。であれば、軍卒はそうそうに引き揚げてもらいたい。そのうえで国境線の取扱いかたもあるが、先の返書に記したように、樺太を守る大名に申し付け、取り調べを行った上でなければ、早急には決めがたい」
 
と、軍を引き揚げるのが先であると反論しました。
 
五回にわたる交渉で、日露おのおのの勢力圏で国境線を引くことは確かめられましたが、北緯五〇度を念頭に置いていた川路等と最南端の亜庭湾地域を除いた全域をロシア領としたいプチャーチンとでは話は噛み合いません。
 
樺太における日露の勢力範囲につい両国で調査し、その上で決定しようというはこびになりましたが、その時期についてプチャーチンは翌年春を主張しましたが、川路は断りました。
 
この間に、クリミヤ戦争は激化し、極東のイギリス・フランス艦隊がロシア極東艦隊の拠点を襲う構えを見せると、よく嘉永七(一八五四)年一月八日、プチャーチンは急ぎ長崎を去ります。シベリア方面の総司令官ムラヴィヨフに会って指示を受けるためです。
 
出航にプチャーチンは、日露条約の草案を含む覚書を残しますが、そこには「日本の分領は北は択捉島及び樺太南部アニワ湾とする」との文言がありました。
 
プチャーチンがいったん去った八日後、前年に叩きつけた開港要求の返答をもとめてペリーが来航。幕府の緊張は続きました。
 

モジャエスキー画「下田港」

 

■ロシア兵、久春古丹から撤退

樺太における日露の国境線は両国の勢力に応じて定める運びとなりましたが、このとき幕閣の誰も樺太のことを知りません。そこで目付の堀利照と勘定吟味役の村垣範正に樺太視察が命じられました。
 
二人は嘉永七(一八五四)年三月二十七日と二十八日に出発しますが、出発が三月になったのも幕閣がペリーとの日米和親条約の交渉に追われていたからでしょう。日米和親条約は三月三日に結ばれています。視察隊は総勢五〇人以上の大部隊でした。
 
一方、樺太では、冬の間足止めされていた松前藩兵が三月末になってようやく樺太上陸を果たしました。こちらは二二〇人を超える部隊でした。
 
四月一日、久春古丹のロシア陣地に到着した松前藩部隊の物頭三輪持・氏家丹右衛門はロシア陣地指揮官ブッセ陸軍少佐に「何用か?」と問い質します。両者とも言葉がわかりませんから、アイヌ語を介しての会話です。ブッセは詳しくはプチャーチンに聞いてくれと言うばかりです。
 
この時、クリミヤ戦争で敵対していたイギリス・フランス艦隊はロシアの極東基地を襲撃する計画を建てていました。ロシアの久春古丹占拠兵は総勢七〇人。近代兵器の力で松前藩士二〇〇名を押し返すことができたとしても、英仏艦隊に襲われればひとたまりもありません。守備隊長のブッセは終始友好的な態度で松前藩派遣隊に接しました。
 
プチャーチンもこのことを理解しており、長崎を出たあと樺太対岸のインペラルトスカヤ港に入ると、久春古丹占拠隊の撤去の準備に入り、四隻の帆船を亜庭湾に差し向けました。こうして五月一八日までに八門の大砲を含めて船積みし、ロシア兵は久春古丹を去りました。
 
幕府の樺太調査隊は、五月十一日にペリーの来航で揺れていた箱館を出発し、六月十二日に樺太に入りました。ロシア兵はすでに退去した後ですが、ロシア兵が築いた陣地をつぶさに見聞。随行した間宮鉄次郎、上川伝一郎らに島内をくまなく調査させました。
 

■プチャーチン再訪

こうしている間にもプチャーチンの恐れは現実になります。イギリス・フランスの連合艦隊は、極東におけるロシアの拠点・カムチャッカのパヴロフスク軍港を包囲。一八五四年八月末から九月初にかけて激しい戦闘が最北の海で展開されます。英仏軍はパヴロフスクに上陸しようと試みますが、兵力で劣るもののロシア軍はからくもこれを撃退しました。
 
プチャーチンはインペラルトスカヤ港で後方支援に当たっていましたが、嘉永七(一八五四)年五月二十五日にアメリカが日本と下田条約を結んだと聞き、開港地となった箱館へ八月三〇日に来港しました。
 
ここでプチャーチンは、大阪で交渉を行いたいとの箱館奉行に書状を渡しました。当時の政治の中心であった京都に近い場所で圧力を掛けようとしたと考えられます。しかし、交渉場所は伊豆の下田に指定され、プチャーチンは十月十五日に到着。日露交渉の第二ラウンドは、十一月三日から下田の福泉寺で始まります。
 
初日の交渉でプチャーチンは、日露の通好条約が結ばれた暁には、択捉島以南の日本の領有を認め、さらに樺太の国境線についても譲歩の余地のあることを示唆しました。日本はアメリカに続いて八月二十三日にイギリスと和親条約を締結しています。クリミヤ戦争で日本がはっきりと英仏側に立つことを恐れたのでしょう。
 

■安政の大地震

十一月五日予定の第二回から本格的な交渉が行われることになりますが、四日の午前九時頃に「安政東海地震」が発生、さらにその約三十一時間後の五日の午後四時頃に「安政南海地震」が起こります。あわせて「安政の大地震」と呼ばれるこの地震は、交渉が行われていた下田沖を震源としたため、八六六戸の家屋のうち全壊八一三戸、溺死者等百二十二人という壊滅的災害をもたらしました。『幕末下田開港史』(1925)に引用された川路聖謨の日誌から紹介します。
 

四日、晴れ、食事中、五つ時過ぎ、大地震これあり。壁破れ候間、表の広場に出候。かかる地震は生まれて初めての事なり。寺の石塔その他燈篭等皆倒れたり。しばらくして津波あり。市中大騒ぎなり。中村為彌来たり早く立ち退き事しかるべしと申す。よりて書物を携え、近習小姓一同にて六十七町逃げて大安寺へ四分通り上がり見るや、はや田畑に潮押し来たり。間もなく市中騒ぎあり。火事かと思い見るに、大荒波田畑に推し来たり。人家は崩れ、大船は帆柱を立てながら飛ぶが如く田畑へドット来たりたるも、体恐ろしとも何とも申すべき様なし。

 
百七十年近く昔の記述ですが、東日本大震災、能登半島地震を体験した私たちは情景が目に浮かぶようです。この天変地異と黒船来航の凶事を嫌って十一月二十七日に元号は「安政」に改元されました。
 

モジャエスキー画「津波に襲われる下田港」④

 

■ディアナ号喪失

「安政の大地震」でプチャーチンの乗船「ディアナ号」は錨を失い大波に翻弄されて大破。乗員一人が死亡しました。
 
翌日、プチャーチンは「船を修復にしたい。下田ではできないから、大阪、兵庫、横浜のうちの何れかを与えてもらいたい」と要求してきました。開港地を拡張しかねない要求だけに老中・阿部正弘を巻き込んでの難しい交渉が続き、伊豆西海岸の戸田港が修理港に指定されます。
 
しかし、十一月17日、損傷著しいディアナ号は戸田港に向かう途中で座礁し、プチャーチン以下四百余名の乗員は冬の海に飛び込んで脱出。これを下田奉行が手厚く救助しました。乗船は失われましたが、日本の造船技術を評価したプチャーチンは、配下に造船技術に通じた者もいるため、日本の船大工の力を借りてこの場所で新たに船を建造することを決め、配下を残して造船に当たらせました。
 
プチャーチンが下田に戻ってきたのは十二月十三日。このとき下田港には日米和親条約批准書交換のために来港したアメリカ使節アダムスの船と、津波に流された漂流者を救助して届けにきたフランス船が泊まっていました。
 
プチャーチンは、この船を奪おうと考え、戸田港にいた配下のロシア兵に至急下田に向かうに使いを送りました。しかし、フランス船は漂流者を届けるとすぐに出港して、ロシア兵に機会を与えませんでした。幕臣の誰かがプチャーチンがいることをランス船に知らせたようです。あやう日本がくクリミヤ戦争が戦場となるところでした。
 

■日露交渉 第二ラウンド

このような波乱を含みながらも、安政元(一八五五)年十二月十三日より中断した日露交渉が再開されます。
 
第二回会談は長楽寺に移して開かれました。ロシアが申し出た千島列島の択捉島以南は日本領とすることはこの日中に合意されました。問題は樺太です。『幕末下田開港史』に引用された「対話書」から交渉の様子を見てみましょう。
 
これまでの交渉では受け身一方だった川路は一変して「樺太においてアイヌは日本に属する。アイヌが居住する地域は日本としたい」と強く主張しました。樺太に派遣されていた堀利照と村垣範正が十月末に戻り、二人の報告により樺太の全島に渡ってアイヌの活動があることを知ったのです。
 
これに対してプチャーチンは「アイヌと言っても種族があり、こちらも蝦夷アイヌ、あちらも蝦夷アイヌと言っては、後日論争の種になりかねないため認めがたい」と抵抗します。
 
しかし川路は「アイヌの種族については明確で、後日争いが起きる余地はない。このようなことを申されるのは使節(プチャーチン)らしくない。樺太のことは松本十郎兵衛・稲垣與三郎らが現地を取り調べをしている」と言って樺太調査隊の村垣範正に現地の状況を説明させます。
 
村垣範正は前に進み出てて「アイヌ人、松前家の撫育を受け、産業をなし、貢を収め服従致し候間、白主(樺太島最南端)よりおよそ百三十里余りの所、蝦夷アイヌの居住致候地は日本所領に疑い無し」と現地の状況を詳細に証言しました。
 
とうとうプチャーチンも「日本人とアイヌの住居致居候地は、是迄の通り日本所領と認め可申候」と降参。そして
 
「樺太島の儀は嘉永五(一八五二)年まで、日本人並蝦夷アイヌ住居したる地は日本所領たるべし」
 
との文言を覚書として交わします。ここで重要なのはプチャーチンが樺太アイヌを日本国民として承認したことです。
 

樺太風俗図⑤
(江戸時代作者不詳)

 

■日露親和条約の締結

十二月十五日、最後となる三回目の交渉です。
 
プチャーチンは樺太全土がほとんど日本領となってしまう覚書を残したことを後悔しました。この日は、覚書の「蝦夷アイヌ」を「蝦夷地アイヌ」に改めるように執拗に要求。蝦夷地アイヌは北海道アイヌのことですから、この要求を呑めば、樺太における領有権は全く失われてしまいます。
 
厳しい交渉が続きますが、もともと幕府には、世界の大国であるロシアの要求に対して樺太を放棄することも念頭にあり、日露雑居の現状が維持できれば成功と考えていました。
 
一方、プチャーチンは樺太全島領有の目論見をもって交渉に臨みましたが、クリミヤ戦争が起こったこと、安政東海地震によって乗船が失われ、日本の支援がなければ帰国も覚束ないことなどの事情が重なり、国境をさだめずにこれまで通りに「日露雑居」の地とすることで妥協しました。
 
安政元年十二月二十一日に交わされた「日露和親条約」の第二条は次のようになりました。
 

今より後、日本国とロシア国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ島は日本に属し、ウルップ全島、これより北の方クリル諸島はロシアに属す。カラフト島に至りては、日本国とロシア国の間において、境を分かたず、これまでの仕来りの通りたるべし。

 
このようにして樺太の日露雑居時代が始まります。
 

日露和親条約写⑦

 

なお川路聖謨は、慶応四(一八六八)年に六八歳でピストルで自決しました。この日は官軍の総司令織仁親王が「十五日をもって江戸に攻め上がる」と最後通牒を発した日でした。体が不自由で切腹ができずにピストルを用いたものと見られています。
 

 


【主要参考文献】
川上淳『千島通史の研究』(2020) 北海道出版企画センター
秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』(2014)北海道大学出版会
全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』全国樺太連盟(1978)全国樺太連盟
川路寛堂『川路聖謨之生涯』(1903)吉川弘文館
石井信一『幕末下田開港史』(1925)静岡県賀茂郡教育会
『稚内市史』(1968)稚内市
『新北海道史 第2巻 通説 1』(1970)北海道
『函館市史 通説編 第1巻』(1980)函館市
①③https://ja.wikipedia.org/
②北海道大学北方資料デジタルライブラリー明治4年 (1871) 北海道歴検図 729
④⑤「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/
⑥文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/
⑦国立国会図書館

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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