北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 4 】 
第1章 明治天皇の北海道開拓 4

 

ムラヴィヨフの野望

安政年間の樺太・北海道はクリミア戦争の戦場だった

 

日露和親条約で樺太は日露の共有地となりました。一方、対岸の中国では同時期に愛琿(あいぐん)条約が結ばれ、沿海州がロシア領となります。この二つの条約は一対のものでした。クリミア戦争を戦った英露の地政学を背景に東シベリア総督ムラヴィヨフが演出したものです。安政六(一八五九)年五月、その黒幕ムラヴィヨフがついに函館に姿を現しました。

 

 


■ロシア兵、久春内に上陸

安政元(一八五四)年の「日露和親条約」により、樺太は日露の共有地になりました。境を分かたず、これまでの仕来りの通りたるべし――。しかし、日露でこの解釈は違いました。
 
日本はを交渉中に合意した「日本人並蝦夷アイヌ居住したる地は日本所領たるべし」を念頭におき、「これまでの仕来りの通り」和人と樺太アイヌの勢力範囲が日本領と理解しました。一方ロシアは「境を分かたず」であるからと日本の勢力範囲に土足で踏み込んでいくのです。
 
安政三(一八五六)年八月に幕吏が北部オッツシを巡回すると、石炭を採掘するロシア人を発見しました。多数のロシア兵がいて二門の大砲すら据え付けらえていました。ここはギリヤークの勢力範囲だったのでひとまず静観となりましたが、強い警戒に価する事案でした。
 
安政四(一八五六)年六月、一隻のロシア船が突然南方の名寄に現れ、十七人のロシア兵を下ろしました。ここは日本の領域でしたが、ロシア兵はテントを張って付近の材木を切り、陣地を築き始めます。
 
下役の竜崎雄次郎はすぐ抗議を行いましたが、ロシア兵の指揮官は「王命に従って来た。貴国と露国の交渉は自分の知るところではない」と答えて退去命令も聞かず、作業を続けました。ロシア人はさらに進んで久春内に小屋を建てました。
 

■ムラヴィヨフ函館来航

安政五(一八五八)年七月、プチャーチンが先に合意した日露和親条約の調印のために横浜に来港します。外国奉行の岩瀬肥後守忠震、水野筑後守忠徳、堀利熙らが対応して、樺太でのロシアの行動を条約違反と抗議しますが、プチャーチンは「樺太のことについて権限がない。もどって報告する」と言葉巧みに交わしました。
 
日露和親条約に従って九月にロシア領事館が箱館に設置されます。初代領事ゴシケヴィチが着任すると、箱館奉行の村垣淡路守と津田近江守はあらためて樺太の件を抗議しましたが、ゴシケヴィチも「自分にはその権限がない」と取り合いません。
 
日本の抗議が空を切るなか、安政六(一八五九)年五月二十三日、東シベリア総督ムラヴィヨフが国境画定のためと称して函館に入港しました。箱館奉行は抗議文を持って彼の元を訪れますが、ムラヴィヨフは「自分と同格の高官でなければ相手をしない」と言い放ちました。
 
このムラヴィヨフこそ、ロシア皇帝からこの地方に関わることの全権を委任された、プチャーチンの上官であり、嘉永年間から続いたロシアの樺太侵出の黒幕です。その彼がなぜ今ここに現れたのか―――。
 

ムラヴィヨフ・アムールスキー①

 


■38歳の東シベリヤ総督

ニコライ・ニコラヴィッチ・ムラヴィヨフは、一七八九年にタタール系貴族でノボゴロド県知事の息子として生まれました。早くから軍人を志し、中央陸軍士官学校の一期生となります。優秀な生徒で一八二五年のニコライ一世の戴冠式に参列を許されています。
 
一八二八年からの露土戦争、一九三〇年のポーランド反乱の鎮圧、一九三八年のコーカサス戦争と軍歴を重ねて少将に出世しますが、コーカサスで負傷してトゥーラ県の知事に転出しました。そして、着任早々の一八四七年九月六日、同県を訪れた皇帝ニコライ一世に呼び出されて、東シベリア総督に任命されるのです。
 
ロシアは、西と東にシベリア総督を置いていました。首都から遠い地方であり、提督には殺傷与奪の強大な権力が与えられていました。それだけに不正を働く提督も多く、行政は停滞していました。東シベリアは、長い国境を接する清国が一八四二年のアヘン戦争敗戦によって列強の侵出が進んだことで、ロシアにとっての重要性が増しました。
 
ニコライ一世は、若いムラヴィヨフを総督に任命することで、東シベリア行政の刷新を狙ったのです。この時、ムラヴィヨフは三八歳の若さ。帝都ではこの人事に驚きの声が上がったといいます。
 

ニコライ1世②

 

■アムールをイギリスから護れ

着任早々、ムラヴィヨフはアムール川河口地域に注目します。
 
「アムール河口にイギリスの要塞がつくられると、イギリス船がネルチンスクやチタまでさえ行くことになります。イギリス人がアムール河口を占拠するだろうという考えは理由のない考えではありません。東シベリアがイギリス人のものにならないためには、政治の力と援助がどうしても必要なのです」(山本俊郎1988)
 
これは一八四九年にムラヴィヨフが皇帝ニコライ1世に宛てた覚書の一節です。
 
十九世紀後半、七つの海を支配した大英帝国とユーラシア大陸の北半分を支配したロシアは対立関係にありました。イギリスが、一八四二年の南京条約で香港を奪ったように、当時清国の領土であったアムール川河口を奪えば、ロシアはシベリアの奥深くまでナイフを突き立てられたかたちになります。ムラヴィヨフは、このことを何よりも恐れたのです。
 
しかし、当時のロシアでは樺太は半島で、アムール川河口は砂浜に川筋が拡散してとても船が入れるような状況ではないと信じられていました。樺太が島であることは文化六(一八〇九)年の間宮林蔵の調査によって明らかになっていましたが、このことが欧米に伝わるには時間がかかりました。
 
若き海軍大尉ゲンナディ・イワノヴィッチ・ネヴェリスコイは、間宮林蔵の調査を報告したシーボルトの著作を読み、当時の通説に疑問をいだきました。河口地域調査の支援を求めて首都ペテルブルグに向かいました。
 
一方、東シベリア総督に任命されたムラヴィヨフは、任地の状況を詳しく知ろうと首都ペテルブルクで情報収集に当たっていました。ここでネヴェリスコイと出会います。ネヴェリスコイは、間宮林蔵調査を基にアムール川は船が遡上可能なこと、そしてイギリスに押えられる危険を語り、河口部の詳細な調査の必要を新総督に訴えました。
 
当時のアムール川河口は清国領であって外国です。ムラヴィヨフはネヴェリスコイの話に強く動かされましたが、提督として正規の許可を出すわけにはいきません。ネヴェリスコイは、私的な冒険として一八四九年七月に樺太から対岸にわたりアムール川の河口部を調査しました。
 
これにあわせてムラヴィヨフも妻とともにカムチャッカの視察に向かいます。カムチャッカに足を踏み入れた最初の提督となりました。
 
そして八月にアヤン港で二人は合流。ネヴェリスコイは樺太が島であること、河口は船が遡上可能であることを報告しました。すなわち、東シベリアの地政学的危険が現実のものとして確かめられたのです。
 
そして二人は首都ペテルブルグに上ってアムール川問題が国防の一大事であることを説き回ります。
 
この時、ロシア宮廷では事を荒立てたくない保守派が力を持っていました。ネヴェリスコイが無断で河口部に哨所を置いたことが問題視されましたが、ニコライ一世は「ひとたびロシアの旗が立てられたら、降ろすべきではない」と言いました。力によってアムール川河口を確保するという、ロシアの方針が確定しました。
 

ネヴェリスコイ③

 

■樺太「ムラヴィヨフ哨所」

アムール川河口の対岸は樺太です。最も狭いところで七㌔しかありません。アムール川を確保するためには対岸の樺太も確保しなければなりません。日本との関係が新たな問題となりました。
 
こうしているうちにアメリカが日本と国交を開くため大規模な交渉団を派遣するという情報がオランダよりもたらされます。ロシア皇帝は一八五二年九月にプチャーチンを急ぎ日本に向かわせます。
 
この頃、黒海を挟んで緊張の続くオスマントルコ関係が日に日に悪化していました。ロシアを封じ込めようとするイギリス・フランスがトルコに肩入れし、両国の関係も悪化して翌一八五三年のクリミヤ戦争につながります。イギリスによるアムール領有は現実的な脅威だったのです。
 
ムラヴィヨフは帝都ペテルブルグにあって保守派の説得に当たっていましたが、クリミヤ戦争がいつ勃発してもおかしくない情勢を受け、イギリスに先んじるべく、樺太に海兵を送ってここを占領するよう指示しました。これが前回に紹介したロシア陸戦隊の久春古丹上陸となります。
 
この時にロシア隊を指揮したのはネヴェリスコイその人であり、久春古丹に設けられたロシアの陣地は「ムラヴィヨフ哨所」と名付けられました。
 
この二十日前にロシアは、アムール川河口のインペラトルスカヤ湾に哨所を設けています。幕閣を震撼させたロシアによる久春古丹占拠は、イギリスに対するロシアのアムール川河口防衛作戦だったのです。
 

イルクーツクの提督府④

 

■クリミア戦争勃発

一八五三年十月四日、オスマントルコ軍による先制攻撃によってクリミヤ戦争が勃発。日本と交渉中であったプチャーチンは、いったん交渉を打ち切って、英仏艦隊の状況把握のために長崎を出ました。
 
ペテルブルグでは外務省が独自に清国と国境交渉を行う動きがありましたが、ムラヴィヨフはこれに介入して止めさせ、皇帝から国境策定の全権を獲得します。そしてすぐにシベリアに向かいました。
 
一八五四年三月二十八日、イギリス・フランスはロシアに宣戦布告。アムール河口を確実に押えなければなりません。しかし、ここは一六八九年のネルチンスク条約以降、清国の領土です。ロシアは広大な領地を清国から奪わなければならないのです。ムラヴィヨフはどうしたか———
 
二月にイルクーツクに戻ったムラヴィヨフは、英仏連合艦隊への対抗を理由に艦隊を整えて、アムール川を遡上するデモンストレーションを行います。
 
総員一〇〇〇人、五〇隻の伝馬船という大部隊が、四月十九日にイルクーツクを出発し、アムール川を溯り六月十二日にキジ湖畔に到着しました。驚いた清国政府は使者を差し向けますが、ムラビヨフは、現在戦争中で、来春再び黒竜江を下るのでその時に清国委員を寄こすように告げました。
 
この後、ムラビヨフはいったん海に出て六月二十四日に、日本と条約交渉中のプチャーチンと会います。イギリスも着々と交渉を進める中、日本とイギリスが同盟を組むようなことがあってはいけないと話し合ったのでしょう。
 
一八五四年八月二十八日、クリミヤ戦争の戦火は極東に及びました。ロシアのカムチャッカ地域の拠点・ペトロパブロフスクが英仏艦隊に襲撃されるのです。一〇〇〇人あまりのロシア守備隊は勇猛さを発揮してこれを撃退。ムラヴィヨフは再び襲ってきたら保持できないと考えて、守備隊をアムール河口守備に移動させました。
 
この守備隊は間宮海峡を北上してインペラトルスカヤ湾の哨所に向かいましたが、途中で三隻のイギリス戦艦の追撃を受けました。当時、イギリスは樺太が島であることを知らず、行き詰まって戻ってくるだろうと構えたため、ロシア守備隊を取り逃してしまいました。
 
嘉永六(一八五三)年、幕府は関知していませんでしたが、北海道北部から樺太にかけての地域は、クリミヤ戦争の戦場だったのです。
 

ペトロパブロフスク湾の海戦⑤

 

■アムール遠征

安政元(一八五四)年十二月二十一日、日露和親条約は樺太の領有権を明確にしないでの合意となりました。
 
クリミア戦争のさなか、日本がイギリス側につく恐れもありましたが、本意ではないにしろ、この条約で樺太側は決着を見たかたちです。残るは対岸。河口をなんとしてでも清国から奪わなければなりません。
 
一八五五年五月、ムラヴィヨフは第二回アムール川遠征を行います。総員三〇〇〇人が第一軍二六隻、第二軍五二隻、第三軍三五隻に分乗して川を溯るという一大デモンストレーションです。
 
ムラヴィヨフは、ニコラーエフスクで清国使節と会談し、英仏の攻撃に備えるためにアムール川河口防衛の必要性を論じ、すでに占領した①河口部と海岸地域一帯の割譲、②アムール川流域開発のための植民地設置を要求しました。
 
清国は拒否しましたが、一八五五年二月十八日に皇帝ニコライ一世が亡くなったため、ムラヴィヨフもそれ以上追及せずに分かれました。
 
この後、ムラヴィヨフはペテルブルグに上り、新皇帝アレクサンドル二世に謁見して、あらためて対清条約交渉の全権を受けます。翌年の初頭に任地であるイルクーツクに戻り、すぐに第三回アムール遠征の準備にかかります。
 
一八五六年五月には、大小一一〇隻、総勢一六六〇人の遠征隊がアムール川を上って清国を威圧しました。さらに要所要所に守備隊を置き、一〇〇〇人もの流刑囚を釈放して下流域に住まわせることもしています。このようにしてムラヴィヨフは着々と既成事実を積み上げていきました。
 

アレクサンドル二世⑥

 

■ムラヴィヨフとプチャーチン

一八五六年十一月に清国では第二次アヘン戦争とも言われる「アロー号事件」が起こります。英米仏は清国政府に対して過大な要求を突きつけますが、ロシア外務省もこれに乗じ、日露和親条約で功績のあったプチャーチンを全権大使としてこれに参加させました。
 
ムラヴィヨフは顔を潰されたかたちです。しかし、すぐに巻き返して対清国境交渉の全権は自分であることを認めさせ、プチャーチンから最恵国待遇交渉を除いて権能を奪い返しました。
 
この後すぐに冒頭で紹介した樺太の名寄へのロシア兵の上陸が起こります。日露和親条約でプチャーチンの主導した共同管理をムラヴィヨフは認めていませんでした。この事件は樺太をめぐるムラヴィヨフとプチャーチンの主導権争いで、ムラヴィヨフが勝利したことを示すものでもありました。
 

■愛琿会渉

一八五八年五月二十三日、ムラヴィヨフは満を持して清国との国境交渉に臨みます。事前に清国に対してはロシア政府より愛琿において交渉を行いたい旨の申し入れを行っていました。
 
ムラヴィヨフは、この時までにコサック一万二〇〇〇人のアムール川流域への移住計画を準備していました。コサック移住計画に恐れをなした清国政府は、黒竜江将軍奕山(えきさん)を全権として交渉に臨むことに賛同します。
 
ロシア側は、清国がアヘン戦争、アロー号戦争でイギリスに苦しめられていることを念頭に、イギリスの侵略から護るためにはロシアの力が必要であると主張して、アムール川左岸とウスリー川右岸の地をロシアに割譲するよう求めました。しかし、奕山将軍もネルチンスク条約を盾に譲りません。
 
この時、ムラヴィヨフは自分が出ない方がよいと考え、体調不良を理由に交渉を外務省役人のペロフスキーに任せていました。そして交渉四日目にムラヴィヨフは勲章を飾り付けた陸軍中将の制服で現れ、これまでの清国の態度を「国交断絶ものだ」と責め、開戦をちらかせて用意した条約文への調印を迫りました。さらに交渉の途中で突然怒り出し、席を立って幕舎に引き上げてしまうのです。
 
この夜、アムールに浮かんだロシア艦七隻の大砲はひっきりなしに火を噴き、清国人を戦慄させました。たまらず清国吏員はムラヴィヨフの機嫌を伺いに幕舎に赴きます。
 
「我らがいるからイギリス人はあえて来襲しないのだ。左岸の地はすでに掌握して久しい。明日、わが通訳をして条約文を携えて将軍の下に送るので調印してほしい。嫌となれば左岸の兵を戻して駆逐しようぞ」とムラビヨフは脅すのです。
 
ムラヴィヨフの交渉団に付き従った兵員は約三〇〇〇名。清国代表団は止むことのない艦砲にすっかり怖じづいています。江奕山将軍に無理を押し返す力は残っていませんでした。
 
こうして一八五八年五月二十八日、清国とロシアの間に愛琿条約が結ばれました。そして樺太はロシア帝国と間宮海峡を挟んで対面することになります。
 

■アムールスキーの称号

条約交渉を成し遂げたムラヴィヨフは、アムール川を下りながら、要所にコサック移民を入れて集落をつくり、アムール川とウスリー川の合流点にハバロフスクを築きました。
 
皇帝アレクサンドル二世は、戦争によることなく広大な領土を手に入れたムラヴィヨフを高く評価して、一八五八年八月、大将昇格と伯爵授与のほか、「アムールスキー」と称することを許しました。
 
このようにしてアムール川河口地域を手に入れたロシアにとって残されたのは樺太です。愛琿条約締結の翌年、ムラヴィヨフはさっそく行動に移し、安政六(一八五九)年五月の函館来港となるのです。
 
樺太は、そして北海道は、愛琿条約を結んだ清国と同じ運命を辿るのでしょうか?
 

ハバロフスクのムラヴィヨフ像⑦

 
 

 



【主要参考文献】
南満州鉄道鉄調査課『近代露支関係の研究』南満鉄調査課(1922)
加藤九祚『ロシアの日本進出とムラヴィヨフ=アムールスキー』(1995・「白山史学第31号」東洋大学白山史学会)
山本俊郎『スペランスキーとムラヴィヨフ・アムールスキー』(1988・「文学研究科紀要第34号」早稲田大学文学部)
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』(1994)筑摩書房
安村仁志編『ロシアのシベリア侵出史』(2011)中京大学社会科学研究所
全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』全国樺太連盟(1978)全国樺太連盟
『稚内市史』(1968)稚内市
『新北海道史 第2巻 通説 1』(1970)北海道
『函館市史 通説編 第1巻』(1980)函館市
①②③④⑤⑥⑦https://ru.wikipedia.org/wiki/
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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