北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 5 】 
第1章 明治天皇の北海道開拓 5

 

国境に譲歩無し

幕府全権、ロシアの強欲を拒否

 

愛琿条約で清国から広大な沿海州を奪ったムラヴィヨフは、その勢いのまま日本に現れました。日露共有地となった樺太を領有するためです。江戸芝の天徳寺で交渉が始まりますが、途中でロシア交渉団随行の将兵が攘夷派浪士に斬り殺されるという事件が起こります。日露国境交渉はどうなるのでしょうか?

 
 

■ムラヴィヨフ艦隊上陸

安政六(一八五九)年五月二十三日、東シベリア総督ムラヴィヨフは、旗艦アスコリド号に乗船し、ルインダ号、グリデン号、プラスツン号、アメリカ号を率いて函館に上陸しました。函館奉行村垣範正・津田正路らが対応しましたが、「同格の者でなければ相手せず」と言い放ち、「ロシア皇帝の命令により、樺太境界を協定するため江戸に出向く」との老中宛の書面を手渡しただけでした。
 
ムラヴィヨフは、函館でさらに二隻のロシア艦の集結を待ち、七月三日に七隻の大艦隊を率いて江戸に向かいます。ペリー艦隊を上回る陣容で、大艦隊を率いてアムール川を遡上して清国を屈服させた愛琿交渉の再現を狙ったものに違いありません。
 
七月十八日に品川沖に停泊すると、幕府は若年寄の遠藤胤統(たねのり)と酒井忠毗(ただます)を全権に、外国奉行の堀利煕、函館からきた村垣範正が外国奉行となり応接係に命じられました。
 
七月二十三日、ムラヴィヨフは幕府使節を自艦アスコリド号に招いて饗応。二十四日に士官四〇人、武装儀仗兵三〇〇人と軍楽隊を従えて三田の大中寺に入りました。アムール川で見せたような国威を示すデモンストレーションでしょう。
 
翌二十日から天徳寺(東京都港区)で本格的な交渉が始まります。

※以下の交渉記録は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書ー幕末外国関係文書之二五」の関連資料を掲載した行政資料調査会北方領土返還促進部 編『北方領土関係資料総覧』(1977)を参照しています。

 
ムラヴィヨフは「先の結んだ和親条約には取り残しがある。樺太は一一七年(延享二(一七四五)年)前はロシア領だったが、この年以来、清国の所領となった。清国との条約でアムールはロシア領となったが、この間、安政元(一八五四)年に亜庭湾に陣屋を置いたが、出張の人数が少なく、警備ができないためにプチャーチンが陣屋を取り払い、その後御国の取り扱いとなった。この度、あらためて人数を亜庭湾に置いたものである。
 
我が国皇帝からは、清国並びに御国との境界を取り決め、そのうえで人数を配置するように命じられている。イギリス・フランスもこの地を望んでいるので、(樺太に)境を設けないでいては、甚だしく不都合であるから、今回早急に決めたい」と切り出して交渉が始まります。
 

左が村垣範正①

 

■樺太全有を主張

遠藤・酒井の両幕府全権は「北蝦夷地(樺太)は、往古より我が国の所領であり、仕置きしてきたところである。国書にもそう相見える。先年のプチャーチンとの商議で、樺太は境を設けず、これまでとおりにあるべしと取り決めたもので、これ以上言うことは無い」と取り合いません。
 
ムラヴィヨフは「プチャーチンには樺太のことを決める権限はなかった。それゆえ『これまでのとおりにあるべし』となったのである」と和親条約を反故にする構えを見せました。
 
遠藤・酒井、「プチャーチンはロシア政府からの委任状を示した。そのような言い分は通じない」
 
ムラヴィヨフは「いや、その書状における『境』に樺太は含まれていなかった」と言い張ります。
 
ここでプチャーチンとの対応に当たった村垣範正が「拙者も下田におり、詳細を心得ている。プチャーチンに権限がないというのは遺憾である。一言を申し入れたい」と進み出て証言しました。
 
さすがのムラヴィヨフも「シベリヤ・樺太は私の所管であり、ロシア政府がプチャーチンに任せたことはないが、そうであっても一度御国と取り決めたことゆえ、やり直そうというのではない。ただ国境の定めがないのは甚だ不都合なので、私が取り決めに来たのである」と一歩引きました。
 
しかし、ムラビヨフはおもむろに書面を取りだし、新たに三箇条の協定を提起するのです。
 
第一条 樺太と蝦夷地の間の海を国境とする
第二条 日本の樺太の漁業については、これまでのとおり操業を認める
第三条 日本人の樺太、アムール、満洲の往来、居住は自由である
 
日露和親条約を引っくり返して、樺太をロシアに寄こせというのです。さらに
 
ムラビヨフは「こうした便宜を外国に示したことはない。日本だけである」と恩着せがましく述べた上で「アイヌは日本臣民ではない。たとえ樺太に境を定めずとも、日本に属したアイヌは困苦してロシアに属して安逸したいと願うだろう」と言い放ちました。
 
遠藤・酒井は「海を境にすることは受け入れられないが、いったん引き取って協議したい」と返答。
 
ムラビヨフは「樺太の地を少しでも残せば、それすなわち外国の付け込むこととなりますぞ」と英仏を念頭においた言葉を二人の背中に送りました。
 

交渉の舞台となった天徳寺②

 

■ロシア将兵殺傷事件

こうして初日の協議は終わりました。しかし、交渉団が江戸城で対応を協議している七月二十七日、大事件が起こりました。ムラヴィヨフ艦隊の乗員が横浜で攘夷派浪士に襲われたのです。
 
平野雅英『日露交渉史話』(一九三四)には、ロシア艦隊「プラスツン号」の乗員が帰国後にロシアの雑誌に発表した見聞記が紹介されています。次のような事件でした。
 

我が少尉モフェットは、軍艦の必需品を買い入れるために、二人の水兵を伴って上陸し、夕刻商店を出て散歩していた時、数名の日本人が現れ、突然背後から少尉の顎、肩、背中等を斬りつけ、ついにその場に倒れしめた。一人の水兵は一刀の下に切り倒され、一人は近くの店に難を逃れたが、既に左手に傷を受けていた。
 
店の主人はようよう凶徒を遮って戸を閉め、これを救った。椿事を聞いて人々の集まったときには、もう凶徒は逃げ去っていた。少尉はアメリカ人の居留地に運んで治療を加えたが、四時間苦痛を叫び続けた後、ついに死亡した。およそ他郷において同胞の非命の最期を遂げたほど哀れなものはない。

 
この事件はこの後に続く攘夷志士による外国人襲撃事件の最初で、開港したての横浜に居留していた列強外国人を震撼させました。イギリスの初代領事ラザフォード・オールコックが代表して幕府に生命保護を求めました。
 
ムラヴィヨフは「甚だ不快なり」と述べて、犯人を捕らえられない幕府を非難して「自分にて手立てすべきことかと考えている次第」と、幕府の代わりに艦隊に乗船しているロシア官兵を街に放って犯人を捕らえる構えを見せました。
 
幕府は、ロシアの要求した①しかるべく官職のものがロシア旗艦にて謝罪せよ、②事件発生地の奉行を罷免せよ、③犯人は露国将兵の目の前で死刑にせよ、との要求を受け入れます。犯人の一人は水戸天狗党の小林幸八で、六年後の慶応元(一八六五)年に自ら名乗り出ましたが、約束にしたがって横浜で極刑に処されました。
 

■幕府全権、一歩も引かず

交渉は八月二日に再開されます。ただでさえ威圧的なムラビヨフに対してロシア将兵殺傷という重大な負い目を抱えての交渉となりました。しかし、
 
遠藤・酒井は「本蝦夷地と北地(樺太)の間に境界を取り決めたいとのこと。これは先般長崎において、双方応接談判し、樺太の儀は境を分かたず、これまでとおりと取り決めし、条約も結んだものである。この度の申し出では全くロシアの所有となり、先の条約とも違い、甚だ不都合である」ときっぱり拒否しました。
 
そのうえで、プチャーチンとの下田交渉で取り交わした覚書を取りだし、「これを見られるかな」と写しを示しました。
 
ムラビヨフは「条約の儀は心得ているが、そのような書面は知らない。条約のことはもういい。先に渡した書面(三箇条)に従い交渉したい」と主張。
 
遠藤・酒井、「左様ならば腹蔵なく談判に及ぼう。樺太全島を領有したいとの申し出だが、こちらでも全島領有が望みだ。古来よりの心得あり。しかし時勢の沿革もあるので、もし境を取り決めるのならば、北緯五〇度をもって境となしたい」
 
二人は妥協線として樺太の北緯五〇度のラインに国境線を置く提案をしました。しかし、
 
ムラビヨフは「そちらがそこまで言うならば、松前付属の蝦夷地もロシア領とすることもできる。まずは海(宗谷海峡)を境にすることにせよ」と恫喝します。これに対して
 
遠藤・酒井は「もとより五〇度に国境を置くことにこだわっているわけではない。条約で『分かたず』となっているのに海を境にすることは、こちらの所領を奪うことだ」と反論。
 
ムラビヨフ、「条約の『分かたず』はもう分かった。分かった上で、改めて国境を引きたいと言っているのだ」
 
遠藤・酒井、「どうしても国境を引きたいというのであれば、北緯五〇度に取り決めれば、和親を失うことはない」
 
ムラビヨフ、「それは、蝦夷地全部(北海道・千島も含む)をロシア領にすることと同じだぞ」
 
ついに北海道全島侵略をほのめかします。
 

蝦夷闔境輿地全図(1853)③

 

■交渉破談

遠藤・酒井、「そう強情されるのならば、和親は破れたことになりますな」 
 
二人は脅しに屈しません。ムラビヨフは作戦を変えて、どこかで仕入れてきた地図を取り出します。
 
ムラビヨフ、「髙橋作左衛門が携えてきた地図では、(北海道を除いた日本)は残らず(ロシアと同じ)黄色となっている。やはり蝦夷地はロシアの所領となる」
 
遠藤・酒井、「その地図は鎖国時分のものである。西洋各国のあることも知らないでつくったもので、市店の品(一般大衆向け)ゆえに、この場で用いるものではない」
 
ムラビヨフ、「何度も言っているように、日本漁民の立ち退きは不要で、今のまま日本人も樺太にいられるのだぞ」
 
遠藤・酒井、「そのことは 承知している。ただ国境の件は、条約を取り決めたときに将軍にも言上し、諸侯にも通達しているものであって、特に和親を結んでいる他国に対して不都合である」
 
ムラビヨフ、「ロシア総督としていったん口外したものを引っ込めるわけにいかない」
 
遠藤・酒井、「では談判は終わりですな」
 
このようにして交渉は物別れに終わりました。
 

■ヨーロッパ外交と日本外交

大国の圧力で清国を屈服させたムラヴィヨフが同じことを日本でも行おうとしましたが、遠藤・酒井両全権は一歩も引きませんでした。途中で随行の将兵の殺傷事件という不祥事があったにもかかわらずです。
 
ムラヴィヨフは、アムール川が凍る前に総督府のあるイルクーツクに戻らなければなりません。八月二十七日に、殺傷事件の処理をウンコフスキー大佐に任せて横浜を発ちました。
 
清国を屈服させたムラヴィヨフの強圧を幕府全権が撥ね除けたのは、ロシアに樺太を譲ってはならないという英仏の助言があったからと言われています。一方で横浜でのロシア士卒殺傷事件の影響もあったようです。
 
在留外交人の取りまとめ役として幕府と折衝した駐日領事オールコックは、『大君の都―幕末日本滞在記』で事件を振り返っています。
 
事件を担当した神奈川奉行水野築後守忠徳は「彼は全事件を一種の無情な浮薄さで扱い、そしてかかる権威から当然受けるべき応答の希望はほとんど無かった」と言います。殺傷事件から数日後、ロシア人の首を切ってやると日本刀を振り回す侍が現れましたが、武器を取り上げられただけで、もとの職場に送り返されたそうです。
 
当時は攘夷の空気が江戸市中に満ちあふれ、横浜から江戸に向かったムラヴィヨフの交渉団には、盛んに石が投げつけられたそうです。ムラヴィヨフも、力を見せれば簡単に屈服したこれまでの相手、シベリアの少数民族や清国との違いを感じたはずです。
 
また、オールコックは一八五九年六月に中国大陸で進んでいたアロー号戦争のは大沽砲台の戦いで清軍が英仏軍を破ったことが日本に伝わり、日本を強気にさせていたと推測しています。
 
更に「恐らくは大君としての権力を手綱に握ろうと、その混乱を望みつつ、外国との衝突に導き込む方法を探っていると思われた」と、この殺傷事件の背後には攘夷派として知られ、井伊直弼に追い落とされたばかりの水戸侯・徳川斉昭がいるとも考えていました。
 
殺傷事件の処理に当たってオールコックとムラヴィヨフは連絡を取り合っていますが、こうした感触も伝えたことでしょう。
 
ムラヴィヨフにしても、配下が惨殺されましたから、それを理由に連れてきた兵に命じて報復を行うこともできたでしょう。開港したばかりの横浜を火の海にする戦力はありました。
 
しかし、ムラヴィヨフは賠償金を取ることもせず、特にこの事件を理由に要求を押し通すこともしていません。強気に出て日本からの手強い反撃が予期できたことに加え、クリミヤ戦争で敵方だった英仏列強を巻き込んだ複雑な情勢から、いったん引き揚げて態勢を立て直すことを選んだようです。
 
オールコックは、この事件を評してこう述べています。
 
「条約と近代戦の武器を背景に有するヨーロッパ外交と日本外交との闘争が始められたのである。その日本外交は、国家主義的狂信といっさいの革新への敵意によって励まされ、暗殺者の刃および東洋的な狂信と残酷な冷酷さという武器によって後援されていた」
 

オールコック④

 

■ムラヴィヨフその後

いずれにせよ、かつて四度に渡るデモンストレーションで清国を屈服させたように、ムラヴィヨフは態勢を立て直して樺太の領有を幕府に求めるつもりであったでしょう。しかし、幸運なことにその機会は訪れませんでした。一八六〇年二月十九日、日本から帰ったムラヴィヨフは突然、東シベリア総督の辞任を申し出るのです。
 
辞任を申し入れた後、副官として長年仕えてきたコルサコフを副官に推薦してシベリアを去り、夫人の故郷であるパリに移りました。ロシア国家顧問という名誉職を与えられましたが、一八八一年に亡くなるまでパリから離れませんでした。
 
このことに突然の辞任のヒントがあるように思います。ムラヴィヨフは敵の多い人物であったようです。帝政時代のロシアは宮中で激しく権力闘争が行われていました。ムラヴィヨフにはロシアに留まり続けることに命の危険を感じるようなことがあったのかもしれません。
 

ムラヴィヨフと夫人⑥

 

 


 
【主要参考文献】
加藤九祚『ロシアの日本進出とムラヴィヨフ=アムールスキー』(1995・「白山史学第31号」東洋大学白山史学会)
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』(1994)筑摩書房
行政資料調査会北方領土返還促進部 編『北方領土関係資料総覧』(1977)
真鍋重忠『日露関係史』(1978)吉川弘文館
平岡雅英『日露交渉史話』(1982)原書房
オールコック『大君の都―幕末日本滞在記』(1962)岩波書店
外務省政務局編『日露交渉史』(1944)外務省
全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』全国樺太連盟(1978)全国樺太連盟
『稚内市史』(1968)稚内市
『新北海道史 第2巻 通説 1』(1970)北海道
『函館市史 通説編 第1巻』(1980)函館市
①②④⑤https://ru.wikipedia.org/wiki/
③北海道立図書館デジタルライブライー
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。