北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 6 】 
第一章 明治天皇の北海道開拓 6

帝国の逆襲

ポサドニック号事件と文久遣欧使節

 

清国から広大な沿海州を奪った東シベリア総督ムラヴィヨフは、満を持して江戸に乗り込み、樺太の領有を迫りましたが、交渉は不成立に終わり、何一つ手にすることなくシベリアに帰りました。この後すぐムラヴィヨフは総督の職を降りますが、果たしてロシアは樺太をあきらめたのでしょうか? 二年後、ロシアは思わぬところに現れ、幕閣を震撼させます。
 

■ロシア海軍対馬占領

万延二(一八六一)年二月三日、申の刻、北海道よりはるか西方、九州と韓半島の間の対馬、尾崎浦にロシア艦ポサドニック号が突然姿を現しました。「船が破損したので修理したい」というのです。対応に当たった対馬藩の唐坊長之介が船を調べましたが、壊れた形跡は見あたりません。しかし、ポサドニック号は大砲を放ち、威嚇しながら今里村に乗り付けました。
 

ポサドニック号①

 
対馬藩は「簡単な修理なら許す」という決定を出し、ロシアに伝えました。ここに唐坊長之介が戻り、破損は虚偽であることを伝えます。対応を巡って府中にあった藩内は混乱に陥りました。
 
この間にポサドニック号は浅茅湾内に移動。二月二十九日には新たなロシア艦ナエセニック号が現れてポサドニック号に横に付けます。この船にはロシア東洋艦隊提督リハチョフその人が乗っていました。ポサドニック号を激励して30日に去りました。
 

リハチョフ提督②

 
提督の登場でポサドニック号の船長であるビリレフは張り切り、「対馬藩の対応が定まらないので自分たちでなんとかするのだ」と言って船員を降ろし、付近の樹木を切り倒しはじめました。更に警備に当たっていた人質として拉致してしまったのです。彼らの行動は樺太で見せた行動と全く同じでした。
 

ビリレフ船長③

 
慌てた藩は、ロシアの要求のとおり木材を調達して大工を派遣しました。この時、ビリレフは「イギリスが日本に対して対馬の借用を求めていると聞いたのである。そうなると向こう三年中に多数の軍隊を差し向けて島を奪ってしまうだろう。そうなる前に貴国を支援するようにとのロシア皇帝の命令である」と言いました。やはり船の修理は虚言だったのです。
 
突然現れてはおまえたちを護ってやるから港を寄こせ———なんとも身勝手な言い分ですが、当時の対馬藩にはこれを「身勝手」と判断できる状態にありません。というのも、安政元(一八五四)年四月にイギリス艦アクチオン号が同じ尾崎浦に来泊し、大砲を放つ、島内を徘徊するといった有様で領民をパニックに陥れたことがありました。その記憶も新しかったのです。
 

 
 

■大英帝国と大ロシア帝国

初代ロシア領事ゴシュケヴィッチの文書を調べた伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』によれば、一八六〇年二月十三日付けの本国宛の書簡で、ゴシュケヴッチは次のように報告したそうです。
 

中国に対する軍事的な示威行為がどのような結果で終わったとしても、英国は朝鮮海峡の対馬を占領するため、中国から日本に向かいます。噂によりますと、英国が日本領土をロシアの手から守ることを約束する見返りとして、日本政府に対馬を自発的に英国に譲り渡す提案をしたとされます。もしそれが受け入れられないなら、その島の大名独立させ、英国の特別の保護下に置くとしています。

 
これに対してロシア東洋艦隊司令官リハチョフが反応し、一八六〇年五月二十一日付で次の書信を海軍に送りました。
 

ロシアにとって最も望ましくないのは、これらの拠点(樺太・函館・対馬)が敵対する強国の手に落ちることであります。日本のような国家の中立は、政治的には何の重みもなく、尊重もされないでしょう。理論的な帰結として、我が国がヨーロッパに今被っているような望ましくない状況に陥ることを防ぐためには一つの方法しかありません。利益を自らのものとすることです。三拠点すべてとは言わないまでも、少なくとも最も重要な場所をわがものとすべきです。

 
ロシアにしてみれば対馬占領はイギリスからの防衛作戦だったというわけです。イギリスも北海道領有の野心を持っていたことは覚えておくべきです。
 

ゴシュケヴィッチ領事④

 

■五〇年ぶりの犠牲者

四月十二日、そのイギリス船レーベン号が補給のために浅茅湾に現れました。ロシアの言うとおりになったと対馬藩は大きく動揺。その間にロシアは端船を下ろし、大船越の仕切りを破って湾の奥に進入しようとしました。
 
憤慨した領民が石を投げて抗議するとロシア兵が発砲。百姓松村安五郎が死亡しました。更に二人を捕らえました。この中のひとり吉野数之助が後に自決します。翌日ロシア兵は番所に押し入り、藩士一三名を捕縛し、近隣から牛七頭を奪いました。
 
五四年前の択捉島
文化露寇」では、アイヌ民族の珍平が射殺され、戸田又太夫が責任を取って自決しましたが、まさにその再現でした。
 
捕らえられた者はすぐに釈放されましたが、対馬藩は不法を強く抗議。それに対してビリレフは、船舶の修理所建設のために土地の永久貸与と藩主への面会を要求しました。対馬藩は、幕府の許可が無ければ返答できないと時間を稼ぎます。
 
五月七日にようやく江戸表から外国奉行小栗忠順が到着しましたが、ロシア船を追い払うどころか、ビリレフの要求どうりに藩主との面会を認めてしまう有様です。そして五月二十五日、対馬国府中藩一五代藩主宗義和とビリレフとの面談が実現しました。ビリレフは「英国から護ってやるかわりに地を貸し与えよ」と要求しますが、宗義和は「土地は公儀からの預かりものである」として拒否しました。
 

小栗忠順⑤

 

■ロシア艦退去

江戸では幕府が箱館奉行村垣範正を通して箱館ロシア領事ゴシュケビッチに申し入れを行うとともに、横浜の英国領事オールコックにも仲介を依頼しました(勝海舟の仲介という説もあります)。幕府をイギリス側に引き寄せる好機とみたオールコックはすぐに行動に移り、東洋艦隊ホープ提督率いる軍艦二隻を対馬に向かわせました。提督はビリレフの行為を国際法上違法だと非難しました。
 
一方、ゴシュケビッチから連絡を受けたリハチョフ提督も潮時と見て退去を決めました。命令を携えたロシア艦が七月二十六日に対馬に入ります。こうして八月十五日になってロシア艦ポサドニック号は対馬を去りました。
 
バスコ・ダ・ガマから始まるヨーロッパ人の世界進出の物語の最後のページが日本でした。この近海では世界の七つの海を支配したイギリスとユーラシアの北半分を支配したロシアは激しいせめぎ合いを続けました。
 
イギリスは日本海の南の出口である対馬を押さえることでアムール川まで進出したロシアを封じ込めようとし、ロシアは対馬から北上してシベリアを伺うイギリスを恐れたのです。これがポサドニック号事件とも呼ばれるロシア軍艦対馬占領事件の背景でした。
 

■遣米使節がバタビアで見たもの

ポサドニック号事件の一年前、江戸幕府は初めての外交使節をアメリカに送りました。日米修好通商条約の批准書をアメリカ本国に届けるためです。正使に新見正興、副使に箱館奉行と外国奉行を兼務していた村垣範正が付き、勝海舟、福澤諭吉等七七名が随行しました。大規模な使節団を送ったのは、英露に狙われた日本として、アメリカと友好関係を築こうとしたからだと言われています。
 

万延遣米使節⑥

 
遣米使節は安政元(一八五四)年一月十八日に品川を発ち、三月二十七日にブキャナン大統領に批准書を渡して任務を終えてアメリカ国内を視察。五月十二日にニューヨーク港を発ってから大西洋を渡り、喜望峰を回って帰国します。
 
八月十七日、使節はオランダ領バタヴィア(現インドネシア共和国ジャカルタ)に到着し、ここでしばらく疲れを取ることにしました。そして八月二十三日に異様なものを目撃します。村垣範正の航海日記です。
 

八月二十三日、晴薄暮雷雨八六度、夕刻此処ネビヤートルへ行って所々見せしが、細工小屋五棟あり(略)。露西亜の船修復せしを見る。大砲あまた陸に揚げたり。ここは我が北地につづきしアンムル湾へ廻すという。

 
村垣はジャカルタで、樺太亜庭湾に差し向けるためロシアが軍船の準備をしている場面に遭遇したのです。村垣範正は箱舘奉行でしたから、この光景に青ざめたはずです。
 

■樺太国境の画定へ

九月二十七日に使節は地球を一周して品川に帰り着きました。そして九月二十九日に江戸城に参内して帰朝報告をします。村垣範正はこのことを報告して、幕閣に樺太への警戒を呼びかけました。
 
村垣はこの後も江戸に滞在していましたが、翌年二月二十八日に箱舘から上京したゴシュケビッチの訪問を受けます。この時ゴシュケビッチは「イギリスが対馬を奪う計画をしている」と警告した上で「先にロシアは清国と条約を結んで国境を定めたが、樺太で同様の取り決めをいたせば、英仏も容易に手が出せないではないか」と持ちかけました。
 
村垣はすぐに登城してこの話を伝えた上で「今が好機ではないか。領事と交渉して北緯五〇度で国境を定めるべきだ。五〇度以南にもロシアの移住者や砲台もあるが借地名目なので不都合はないはずだ。もし領事と交渉ができなければ、本国政府と交渉するか江戸で交渉するか、ともかく機をとらえて談判を試みたい」と述べました。世界一周した自信でしょう。
 
この後すぐに前述の対馬占領事件が起こり、幕閣は事件解決までその対応に追われますが、対馬からロシア船が去ると、樺太問題の解決は急務となりました。
 
ちょうど幕府では、安政年間に結んだ欧米との条約で約束した新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を延期してほしいと交渉団を送ることを考えていました。この頃は攘夷運動が最も激しい頃で、とても外国人を受け入れる状況になかったからです。万延元(一八六〇)年遣米使節の成果が大きかったことから、ヨーロッパも見ておくべきだとも考えたのでしょう。
 

■文久遣欧使節

村垣の進言を受け入れた幕府は、この文久遣欧使節にロシアでの樺太での日露国境交渉を命じました。正使に竹内保徳、副使に松平康直。そして通訳にはアメリカに続いて福沢諭吉が起用されます。総勢は三八名は文久元(一八六一)年十二月二十二日にイギリス海軍の蒸気船オーディン号で品川港を出港しました。
 

文久遣欧使節⑦
左端松平康直・2人目竹内保徳

 
文久遣欧使節は、香港、シンガポール、セイロンとイギリス世界帝国の威勢を見せつけるように同国植民地を回り、エジプトのスエズから陸路フランスに入りました。その後、イギリス、オランダ、ドイツ(プロイセン)と進み、七月十五日にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに入ります。
 
樺太国境交渉は七月二十六日から八月十五日まで六回に渡りました。ロシア側で対応に当たったのは、首相兼外務大臣のゴルチャコフ、外務省アジア局長のイグナチェフでした。この交渉について議事録を取っていなかったようで個々の発言記録は残っていません。通訳を務めた福沢諭吉の『福翁自伝』を開いてみましょう。
 

ゴルチャコフ⑧

 

 
ちなみに『福翁自伝』で文久遣欧使節は「ヨーロッパ各国に行く」という章に当たりますが、全体の半分近くがロシアとの国境交渉に当てられています。文久遣欧使節の主目的は開港延長交渉とする歴史書は多いですが、ロシアとの国境交渉こそがこの使節団の主目的だったと見る私たちの見方を裏付けるものです。
 

■子ども扱いの日本

『福翁自伝』でサンクトペテルブルクでの樺太国境交渉について諭吉はこう記しています。
 

1861年のサンクトペテルブルク⑨

 
それからその逗留中にまことに情なく感じたことがあると申すは、わたしどもの出立前からして日本国中次第次第に攘夷論が盛んになって、外交は次第次第に不始末だらけ。
 
今度の使節がロシアに行ったときに、こっちから樺太の境論を持ち出して、その談判の席にはわたしも出ていたので、日本の使節がソレを言い出すと。先方は少しも取り合わない。あるいは地図などを持ち出して、地図の色はこうこういう色ではないか。おのずからここが境だと言うと、ロシア人の言うには、地図の色で境がきまれば、この地図を皆赤くすれば世界中ロシアの領分になってしまうだろう。またこれを青くすれば世界中日本領になるだろう、というような調子で、漫語放縦、とても寄りつかれない。
 
マアとにもかくにもお互いに実地を調べたその上のことにしようというので、樺太の境はきめずにいいかげんにして談判はやめになりましたが、ソレをわたしがそばから聞いていて、これはとても仕様がない。いっさい万事たよるところなし。日本の不文不明のやつらが、からいばりして攘夷論が盛んになればなるほど、日本の国力はだんだん弱くなるだけの話で、しまいにはどういうようになり果てるだろうかと思って、実に情なくなりました。
 
すなわち、日本使節団がさまざまな資料を広げて談判しても、ロシアはまるで子ども扱い。まともに取り扱わなかったというのです。
 
そもそも樺太全島を領有しようと考えているロシアが日本の北緯五〇度分割案を真剣に検討するはずもありませんが、それ以上に諭吉が悔しかったのは、学校の先生が小学生を諭すようにロシアが日本をあしらったことでした。
 

福沢諭吉⑩

 

■ホスピタリティの裏側

それでもロシアは日本使節団に極上の持てなしをあたえ、宮殿の秘伝の間をはじめ様々な場所に使節団を案内しました。国力の差を見せつける思惑があったようです。『福翁自伝』は滞在中のこんなエピソードを書き残しています。
 

使節団が通されたサンクトペテルブルクの冬宮殿(1866)⑪

 
いろいろ饗応するその饗応のしかたというのは、すこぶる手厚く、何ひとつ遺憾はないというありさま。ソレで、ご用がないときは、名所旧跡をはじめ諸所の工場というような所に案内して見せてくれる。そのうちにだんだん接待員の人々と懇意になって、隙々さまざまな話らしたが、その節ロシアに日本人がひとりいるといううわさを聞いた。そのうわさは、どうもまちがいない事実であろうと思われる。
 
ロシア応接スタッフの中に日本人がいるというのです。『福翁自伝』校閲解説者の富田政文の注によれば、遠州掛川藩を脱藩し、各地を放浪しているうちにロシアに流れ着いた立花粂蔵(きゅうぞう)であったようです。
 
立花の采配で、和食の提供を含む日本風の応接もありました。一八六二年のサンクトペテルブルクで日本料理が出たことに使節団はさぞ驚いたことでしょう。大臣の子ども扱いとホスピタリティの手厚さの落差に不気味なものを感じます。なお立花は明治六(一八七三)年に訪露使節として訪れた岩倉具視に説得されて日本に帰国したそうです。
 
ある日のこと、接待員のひとりが私の所に来て、「おまえはロシア人になってしまいなさい。ぜひここに止まれ、いよいよ止まると決すれば、その後はどんな仕事でもしようと思えば、おむしろい軽快な仕事はたくさんある。衣食住の安心はもちろん、ずいぶん金持ちになることもできるから止まれ」とねんごろに説いたのは、けっして尋常の戯れではない。
 
諭吉は使節団から抜けてロシアに留まるように説得されたというのです。前年のアメリカ訪問も入れて初めての体験でした。福沢諭吉は「けっしてこれは商売上の話ではない、どうしても政治上また国交際上の意味を含んでいるに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ」とロシアに対する警戒心をあらわにしています。
 
良くも悪くも、多数の国を訪れた遣欧使節のなかでロシアは特に強い印象を諭吉に与えたようです。福沢諭吉とその慶應義塾の門下生は、後の北海道開拓で重要な役割を担いますが、その原点はこのサンクトペテルブルクにあったように思われます。
 

 


【主要参考文献】
上垣外 憲一『勝海舟と幕末外交』(二〇一四)中公新書
伊藤 一哉『ロシア人の見た幕末日本』(二〇〇九)吉川弘文館
秋月俊幸『日露関係とサハリン島』(一九九四)筑摩書房
行政資料調査会北方領土返還促進部 編『北方領土関係資料総覧』(一九七七)
オールコック『大君の都―幕末日本滞在記』(一九六二)岩波書店
外務省政務局編『日露交渉史』(一九四四)外務省
全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』全国樺太連盟(一九七八)全国樺太連盟
福沢諭吉『新版 福翁自伝』(一九九四)慶應通信
慶應義塾編『福沢諭吉全集 第一九巻』(一九六二)岩波書店
村垣範正「副史村垣範正記述航海日誌」(『万延元(一八六〇)年第一遣米使節日記』一九一八・日米協会)
『長崎県史 藩政編』(一九七三)吉川弘文館
『稚内市史』(一九六八)稚内市
『新北海道史 第二巻 通説 一』(一九七〇)北海道
『函館市史 通説編 第一巻』(一九八〇)函館市
①②③④⑤⑦⑧⑨⑩⑪https://ru.wikipedia.org/wiki/
⑥『日本大紀念写真帖』秋好善太郎・1912
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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