北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

開拓地の医療

 

新型コロナウイルスが猛威を振るい、道民は今、健康の尊さ、医療のありがたさをかみしめています。さて、明治の開拓時代、医療はどのように行われていたのでしょうか。健康自慢の開拓者も人の子、ケガをすることも病気にかかることもある。開拓は体一つが資本、ちょっとした体のトラブルが脱落につながります。それだけに健康への願いは強いものがありました。原生林に開拓の鍬が入ったばかりの開拓初期、入植地の医療体制(と呼べるものかは疑問ですが)を各地の町村史から拾い上げます。
 

知床の原生林(管理人撮影)

 

■開拓者は健康だった?

開拓の厳しい生活はたびたび紹介してきましたが、それでも入植者は健康であったと『丸瀬布町史』は言います。
 
掘立小屋と割柾で囲い、松葉やムシロを畳代わりにし、炉の焚火が暖房、炊飯兼灯火という環境で、隙間風は容赦なく吹きつけ、冬は枕元に15厘もの雪がたまることもあったという。
ただ、丸瀬布は小盆地状をなしているので、オホーツク海の寒波も、寒暖差のはげしい内的気候の影響も少なく、比較的温暖であること、市街地区を除いては水がきわめて清涼であることもあって、特筆されるような伝染病ないし風土病についての言い伝えはない。
 
健康は自衛第一主義であり、屋内のすき間風はむしろ皮膚の健康に役立ったかも知れない。主食は麦や稲黍、粉食であったが、栄養に富んだ野草は豊富であり、また動物蛋白源としては、いつでも手軽に釣れる川魚があった。すなわち、好むと好まざるとにかかわらず、現在改めて見直されつつある自然食に頼らざるを得なかったのである。そして、そのことが大きな体力の支えになったことはいなめない」(『丸瀬布町史』)[1]
 
 
入植者は比較的健康だった。病気が少なかった──という記述は他の町史でも見かけました。身体に自信のある者だけが北海道に渡ったので、実際に入植者には壮健な者は多かったでしょう。しかし、そこには劣悪な環境に悪戦苦闘する入植者の強がりもあったようです。
 

■失われた助かるはずの命

『和寒町史』は「先に述べたような悪條件下で、開墾という重労働に従事しながらも一般に健康だったらしいと言うより『病気にかかる暇』がなかったという方が適切かもしれない」[2]といい、言葉になってない開拓の実際をお寺の過去帳から次のように推測しています。
 
日露戦争後、わが国では近視、結核、神経衰弱など疾病増大が問題として取り上げられたが、当時の本町も例外ではなかったと思われる。ただ、医師の診察を受ける機会もなく、開拓を急ぐ気力にささえられて、表面化しなかったに過ぎないのではないか。お寺の古い「過去帳」を見ると、乳幼児の死亡が多く、また家族が相次いで死亡している例が多数見られるが、インフルエンザなどの伝染病や体力のない乳幼児の栄養不足による死亡が多かったことを示しているように思われる」[3]
 
実際、医師に診てもらえないために亡くなった命は数え切れないほどありました。
 
若山政市談(札幌市)「父が病気で倒れたが、誉平に医者がいないため天塩へつれていくことになった。12月20日で雪があり、馬そりに乗せて行ったんだが、付き添いは歩かないと寒くて乗っておれない。交代で父に声をかけ、水を飲ませていたが、天塩の街の灯がようやく見えるところまで来たとき、父はもう死んでいた。それからまた引き返してきたが、残念でならなかうた」(『中川町史』)[4]
 
本町の開拓の当初は衛生施設に乏しく、医療機関は皆無という状態で、一度病気にかかると、深川村まで、架で数人がかついで連れてゆくという始末で誠に不安な状態にあった。旭川迄鉄道開通は明治31(1898)年7月であるが、同31年正月、白山官治妻キンは1子亀太郎を伴い郷里香川県に赴き、帰路空知太(現在滝川市)まで長女コウが馬ソリで迎いに出たのであるが、長途の旅で亀太郎は発熱し、馬ソリから転落することもあり、帰宅後3月30日、数え歳4歳で死亡した。これが診せる医師があれば助かる命であった。これはほんの1例である。(『多度志町史』)[5]
 

■山道の向こうに医者を求めて

開拓当初、もちろん周辺に医療機関などありません。重い病気になれば遠く離れた病院に患者を搬送することになりますが、その道中も命がけでした。
 
野安部部落には明治25(1892)年に、小坂伊次郎、石坂宗次郎、大坪由太郎、山口義人等10戸が開墾に入地した。たまたま体格も頑丈な村上市太郎が腰に腫物ができて、たいそう苦しみ、草の根などをつけて手当を施していたが、痛みが止らす遂に堪えられなくなって、病院に入れることになった。
 
当時は医師も病院も苫小牧まで行かなければならないので、止むを得ず、ムシロで担架を造り、大きな体を乗せて、近所のもの5、6人が、夜のしらける頃、うっそうと茂る棚木の間を縫いながら、けわしい山道や谷地原を苫小牧めざして担いで行った。行けども行けども山また谷地で、やっとのこと苫小牧に着いたのはその日の夕方だった。その時は乗っている病人も、担いだ者も、何れも半死半生の状態であったといわれている。(『厚真町史』)[6]
 
今、病に倒れた町内の人を担いで雪の中を10㎞歩いてくれ──と頼まれて引き受ける人がいるでしょうか? みんなで助け合う、それが私たち北海道の開拓者精神です。
 
ケガや病に倒れるのは日々の生活費を稼ぐための「山仕事」の現場が多かったようです。
 
そうした苦難の生活ではあったが、来年の豊作に期待をつなぎながら、土地開墾成功の夢を見続けたのである。それは開拓戦場における死闘でもあった。現にこの冬仕事によって負傷したり病気になったりしたことがよくあった。例えば馬草切り(おし切り)で指を落したり、丸太で足をつぶしたり、過労がもとで肺結核を患ったり、木の下敷きになって一命を落したりした者もいた。これも開拓者の冬仕事にまつわる悲劇であり、まことに聞くにしのびないものがある(『鹿追町史』)[7]
 
屈強な開拓者といえ入植の現場は健康に害を為すリスクに満ちていました。医者さえいれば──医療を求める入植者の切実な気持ちを『鶴居村史』はこう記しています。
 
現在、各部落に赴いて古老の集を求め、入地してから今までの長い年月の間、絶対に忘れられない想い出は何かと問うと、10人のうち9人までが「医者がいないため、妻を、子供を、兄弟をみすみす失なったことある」と訴えることから見ても、いかに当時の住民が医師と医療設備に満たされぬものがあったかが推察される。(『鶴居村史』)[8]
 

■マラリアが流行

開拓地にはどんな病気が多かったのでしょうか?
 
わが町は湿地帯が多く、水は「かなけ水」であり、開拓当時は笹や雑草、大木が繁茂していたので日当りも悪かった。従って、ネズミや蚊・ハエが多く、和寒駅の近くでも手が真黒になるほどハエがつくので、昼間でも蚊帳を吊って食事をしたという。
 
住居は板敷きの拝み小屋で、なま乾きの薪を炉で燃やすので家の中は煙だらけで、眼はただれ、眼やにを出している人が多かった。もちろん、ふろなどはなく、しかも野良着のまま炉ばたでゴロ寝するような状態で、洗濯も満足にしないので、ノミやシラミが多く、皮ふ病の人がたくさんいた。(『和寒町』)[9]
 
「拝み小屋」で紹介したように換気の悪い小屋は煙で充満し、目を患う人が多かった。冒頭で入植者の健康生活を自慢した『丸瀬布町史』もこっそりとこうもらしています。
 
ただ、室内は焚火の煙が充満するため、慢性的眼疾におかされる場合が多く、50歳の声をきくと針に糸を通せなくなるのが普通であった。それに、生産活動はすべて肉体が頼りであったから、病気は少なかったかわりに老化の訪れは早く、還暦を迎えれることができればおめでたいとされていた。(『丸瀬布町史』)[10]
 
皮膚病や眼病のほか、開拓地特有の病気としてはマラリヤがありました。当時「おこり」と呼ばれ、特に湿地帯で発生しました。
 
その上、当時は「おこり」という風土病があり、高熱が出て着物を何枚も重ねて着た上にふとんをいくら掛けても震えが止らなかったというから、マラリヤのような熱病であったらしい。(『和寒町史』)[11]
 
当時、湿地の関係か、ハマダラ蚊の繁殖が多く、マラリア(おこり)病患者が多く発生し、この病気に1回も罹らない者は1人もないという状態であった。(『多度志町史』[12]
 

■病気の治し方をアイヌに教わる

熱帯の病気という印象の強いマラリアですが、かつては北海道全域で流行していました。今新型コロナウイルスが猛威を振るっており、感染が疑われ、セキや熱が出ても病院に行かずに家で寝て治せと政府は指導しています。医者のいない開拓地の医療も「寝て治せ」が基本で、
 
開拓初期は近くに医療機関がないので、病気になると薬草や雑貨店に低いてある薬が頼みの無医時代綱で、やがて富山からの行商人が背負ってくる薬で治療した。
明治33(1900)年、中足寄に入殖した阿部富吉によると、シコロ(キハダ)の実と皮・ゲンノショゥコ・オオバコなどを利用したものだという。越中富山からの薬行商人は日露戦争の頃から姿を見せはじめ、馬印の薬袋を置いていった。また、祈祷師に依頼する人も多かったという。(『足寄町史』)[13]
 
と自然の薬草や「富山の置き薬」がたいそう重宝されました。
 
和人が入地する頃はもちろん売薬などを用意して来たのであろうが、大正の初期に幌呂地区に入地した頃、富山の売薬がすでに入って来たということで、その商標もマルイチ・マルホン・カネダイなどであったという。(『鶴居村』)[14]
 
富山の薬売りたちは原生林に分け入って入植者に薬を届け、多くの命を救いました。今も北海道の人、特に昔の人は「置き薬」に強い信頼があると聞きます。それにはこんな歴史があるからなんですね。
 
古老の話によると、病気をしているひまがなかったといいますが、このことは、医者がいないので開墾のために、ただがまんして働いていたのでしょう。切り傷、風邪による熱さましなどは、アイヌに教えられて野草や木の皮などを使用していたのです。(『中川町史』)[15]
 
上の「足寄町史」の証言にある野草を利用した治療法は、アイヌから教わることが多かったようです。開拓時代に和人とアイヌは加害と迫害の関係ばかりが強調されますが、事実として北の大地に生きる方法を入植者に教えたのはアイヌの人たちでした。
 


【引用出典】
[1]『丸瀬布町史』1965・1258p
[2]『和寒町史』1975・605p
[3]『和寒町史』1975・605p
[4]『中川町史』1975・336p
[5]『多度志町史』1965・686p
[6]『厚真町』1956・44p
[7]『鹿追町史』1977・347p
[8]『鶴居村』1966・256p
[9]『和寒町』1975・605p
[10]『丸瀬布町史』1965・1258p
[11]『和寒町』1975・605p
[12]『多度志町史』1965・686p
[13]『足寄町史』1973・1109p
[14]『鶴居村』1966・256
[15]『中川町史』1975・336

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。