拝み小屋
明治33年の『北海道開拓案内』を読みながら開拓の概要を学んで来ましたが、今年からは個別のテーマごとに開拓生活を学んでいきたいと思います。まずは「拝み小屋」です。入植者が最初に暮らす住居として建てられましたが、どんなものだったのでしょうか。各地の町村史から学びます。
拝み小屋(出典①)
【呼び名】
入植者が最初に暮らす住居には「拝み小屋」「開拓小屋」「着手小屋」「掘立小屋」などさまざまな名前があります。
土地が定まれば──自分の土地の中で、地形や水の良さそうな場所を選んで早速小屋がけにかかった。小屋といってももちろん、ほんの申しわけの雨露を凌ぐ程度の粗末な掘っ立の着手小屋である。(風連町史)[1]
開拓者は入殖と同時にそまつな掘立て式の仮の住居をつくった。はじめはただ寝るためのものといった1部屋だけのもので「ササ小屋」といったり、「拝み小屋(合掌小屋)」ともいった。もっとも原始的なものである。(北村村史)[2]
開墾生活は、拝み小屋(三角小屋とも、着手小屋ともいう)を建てることから始まった。(足寄町史)[3]
「拝み小屋」は姿形から名付けられた名称で「三角小屋」「合掌小屋」とも。全体をササで覆われていたから「ササ小屋」、入植後最初に住むことから「着手小屋」などとも呼ばれていましたが、これらは同じものです。
しかし、『北村村史』は
こうして(拝み小屋)に1~2年すごしてみて、入殖地として定住の計画もたつと、こんどは拝み小屋より少し手のいい「開拓小屋」「掘立て小屋」をこしらえた。[4]
と、「拝み小屋」が「掘立小屋」に建て替えられたと書いています。『豊頃町史』も、
入植者がそれぞれの郷里を捨て厳寒の蝦夷地に足を踏み入れたとき、衣・食はとにかくありあわせの物でまかなわれたとしても、生活の場を持つ第一の条件は風雨をしのぐ住宅建築であった。住宅は川舟の往来に近く、沢水や湧水を飲料水として容易に利用できる地点がえらばれたが、それは面白くもアイヌや先住民族の居住した所に同じであった。入植当時はまず三角小屋で風雨をしのいだとしても、やがて来る厳しい冬の用意に秋は掘立小屋の建築に短い1日を追われたものである。(豊頃町史)[5]
と、「三角小屋」=「拝み小屋」に住みながら「掘立小屋」を建築した書いています。すなわち入植者の家は、開墾の進展に応じて
① 拝み小屋 (着手小屋・三角小屋=簡素な仮小屋)
② 掘立小屋A(開拓小屋=小さいながらも土台付きの家)
③ 掘立小屋B(掘立てながら本式の間取りの家屋)
『風連町史』掲載の「拝み小屋」のイラスト
名前のいわれの別説として「厳寒時にはわずかな火種に手を合わせてふるえていなければ、越冬できなかった処から拝み小屋と名付けられたという説もある」とキャプションで紹介している。(出典②)
と建て替えられていきました。もちろん、入植者それぞれの事情によって最初に②をつくって次ぎに③に住む人。資金が豊富で最初から③の人、長く①に住み続けた人──それぞれです。
①の「拝み小屋」はあくまでも暫定的なもので冬が来る前に掘立小屋に移り住むことが良しとされていましたが、開墾の進捗、入植者の資金力によっては長く住み続ける場合もありました。
『下川町史』(1968)の「柵瑠部落座談会」で古老の林杉太郎さんは「掘立て小屋さ、始めは拝み小屋。笹屋、屋根も囲いも笹、そいつが5年~10年くらい続いた」(1413p)と10年近く「拝み小屋」生活を続けたと証言しています。
①「拝み小屋」に長く住む場合でも、絶えず補強を行い、頑強なものにしていきました。
『丸瀬布町史』は入植者の代表的なパターンとして
丸瀬布における開拓期の住居は、必ずしも一様ではない。大別すると、まず「拝み小屋」をつくって数年をすごし、数年経ってから小さいながらも土台付きの家を建てる。最初から永住性を考え、掘立てながら本式の間取りの家屋をたてる。先発がベースキャンプ的な共同入殖小屋を建て、移住者は1ないし2年をここですごし、その間に堀立てあるいは土台付きの家屋を建てる。という3つの方法があったといえる。(丸瀬布町史)[6]
と①→②と進む人、最初から③の人、共同入植小屋を建てて開墾する間に③を建てる、という3つが代表的だったといいます。
【構造】
「拝み小屋」も「掘立小屋」も、今の目から見ると粗末な住み家ですが、構造が違いました。
おがみ小屋はもっとも原始的な家で、左右から木を立て合わせた屋根だけの家である。堀立小屋は笹小屋ともいわれ、屋根も四囲の壁もササやイタドリで造ったもので、ササは腐らず、しかも雨の走りがよいうえ、内部で火を焚いても煙が自然とへ出るので都合がよかった。(音威子府村史)[7]
「拝み小屋」には柱らしい柱はなく、木材を左右から立て合わせた三角テントのようなかたちでした。余談ですが筆者は本年88歳、石狩入植者の子である母に聞いたとき、「お祖父さんはねぇ、最初、こんな小屋に入って苦労したらしいよ」と手で三角形をつくりました。母親は住んだことないはずなので、こうしたハンドサインが入植地に伝えられていたのでしょう。「拝み小屋」の由来です。
「北海道開拓の村」に「開拓小屋」として
再現された掘立小屋(出典③)
これに対して「掘立小屋」は穴を掘って四つ隅に柱を立てるものです。粗末ではありましたが、屋根と壁のある〝家〟でした。とはいえ簡易住宅の総称として「拝み小屋」を「掘立小屋」と呼ぶことやその逆もあり、書き手が二つの違いを意識していない場合が多いので、文書を読むときには混乱します。
開拓に希望をかけて入地した人々の最初の仕事は、住居を建てることであった。柱は割木で床は乾草を敷き、戸口もむしろを用いた。このむしろは、移住の際荷造りに使用したものである。尾根は笹ぶき、水割板壁のすき間にも笹を用いた。この外に開拓当初は「天地根元造り」いわゆる拝み小屋が多かった。(雨竜町史)[8]
と拝み小屋には「天地根元造り」といういささか分不相応な呼び方もあったようです。
【大きさ】
「拝み小屋」は、当面の雨風をしのぐだけの簡易住居です。大きさは決まったものではありませんが、
開墾生活は、拝み小屋(三角小屋とも、着手小屋ともいう)を建てることから始まった。拝み小屋は、2間に3間の四隅から丸太の柱を斜めに立てて結び合せ、カヤかヨシで屋根兼用の壁とし、出入口を開いて莚を下げただけのもので、いわば固定した天幕のような形をしていた。(足寄町史)[9]
と、おおむね幅2間奥行き3間の大きさだったようです。1間は約1.8mですから、3.6×7.2m、江戸間の約16畳。ちょうど軽自動車を4台並べた大きさと同じです。テントのようなものをイメージしていましたが、意外に広いですね。とはいえ入植者の大半は家族連れですから、これが最低限の大きさだったのでしょう。
拝み小屋は、小作人の場合には親方が用意してくれることがあったが、普通は、地形を選んで自分で建てた。明治30(1897)年代の足寄には、拝み小屋を1棟50銭で請負う人夫がいた。2人がかりで、その日のうちに建て終ったという。通常、開拓者は拝み小屋で秋まで悪らし、そのあいだに家を建てた。家といっても、きわめて粗末なもので、開拓のための小屋であることには変わりがなかった。(足寄町史)[10]
多くは入植者が自ら建てましたが、拝み小屋建設を請け負う業者さんもいたようです。
『倶知安町史』に開拓期の住宅として紹介されたイラスト
上が拝み小屋、下が掘立小屋(出典④)
【つくり】
拝み小屋の材料は付近の立木(アカダモ・ヤチダモ・シコロ)を三角に組み立てるが、釘がないそこで「ネソ」(原註:細いアカダモ・ヤチダモ・桑を焚火で殺ししめつけ皮で止める)を使ったのである。屋根は茅(6尺)笹の葉でこうばいを強く、壁は茅で、床板はなく、野草を乾燥させて敷物にした。(中札内村史)[11](中札内村史)
屋根は草葺きで、笹を刈って葺いたり、ヤチダモの皮や樺の皮で葺いたりした。壁は、熊笹や葦草で、その上にガンビで囲ったりした。(風連町史)[12]
共通しているとみられるのは、「拝み小屋」は笹ぶき笹囲い、あるいは茅ぶき茅囲いであったこと、丸瀬布に製材工場ができた1918年(大正7年)ごろまでは、堀立て、土台付きにかかわらず、柱、垂木、小舞にいたるまで手削りであり、屋根、壁は手割り柾であったことである。(丸瀬布町史)[13]
これらによると「拝み小屋」は、付近にあるタモなど伐って「入」の字の形に組み合わせて並べた骨格に、ヤチダモやカバの木の皮を剥いで載せ、さらにその上に笹の葉を重ねていったようです。これら組み付けるのに釘などは使われず、「ネソ」という木の皮を編んだ紐が使われていました。
【床】
部屋の床は丸太を割った割り板をならべ、その上に熊ザサやエンバク(入地後数年後)イナキビのからをぶあつく敬き、さいごにムシロ、のちにはゴザなどをしいていた。(倶知安町史)[14]
拝小屋のなかは、居間と寝間の部分のみは、小枝を敷きつめ、次に枯草をしいておいて藁をのせたが、すぐ腐ったりするので、小枝のかわりに割板を並べ、その上にむしろをしいた。お客でも来るとむしろのかわりに少しいいコザを敷いて迎えたという。(北村村史)[15]
「拝み小屋」には床板などなく地面に熊笹などを厚く敷いたようですが、こようなものは腐りやすいため、だんだんと板を並べるかたちになっていったようです。今の私たちには「むしろ」も「ござ」も似たようなものですが、当時は「ござ」は来客用の高級品だったようです。
【暮らし】
「拝み小屋」の入口は「むしろ」を垂らしただけのものが多かったようです。当然、雨風、冬には雪が容赦なく入ってきます。
拝み小屋からみてもすき間も多かったためか、スガ漏りや雪の吹き込みが強く、冬は1晩中火を燃やさなければならず、また幾重にもえん麦ガラや小麦ガラを家の回りに立てかけ防雪にそなえたという。(北村村史)[16]
当時の家屋について、明治39(1906)年、咲来に入植した鈴木利平は、「入植したときは、すでに駅逓をしていた塚田さんに、たいへんお世話になった。たしか明治42(1909)年だったと思うが、3月としては珍らしく大吹雪となり、柾でふいた着手小屋の隙間から雪が吹き込んで、ねているうちに布団の上に5,6寸もの雪が積り、起きるに起きられぬことがあった」と語っているが、入植してまず最初に建てる家は、多くおがみ小屋や堀立小屋であった。(音威子府村史)[17]
「こんな荒(あばら)屋だから冬越しはひどかった。あるときなどは朝、眼をさますと肩のあたりに雪がどっしりと積って、外で寝ているのと同じようであった。今考えると、よく生きておれたものだと驚くほどである」と、ある古老は語っている。(風連町史)[18]
この「拝み小屋」で北海道の冬を越すは大変だったでしょう。薪は豊富にありましたから、囲炉裏で盛んに木を燃やして暖をとることになりますが、そこにもこんな苦労がありました。
家の中の炉は丸太で大きく三方を囲ってあいた一方から丸太をくべて暖をとり、炊事をしたが、燃えの悪い時にはけむって火をあげておれないほどであった。(栗沢町史)[19]
生木はいぶって完全燃焼をしないので、人々は眼を真っ赤にはらして難渋した。夜はたき火と「ことぼし」と称するカンテラのかぼそい光で、やっと家族の顔が判別できた。窓ガラスは1枚もなく、天井もない粗末な小屋であったから、屋根裏はたき火のすすで暗黒になった。まして冬の生活はきびしく、雪は容赦なく隙間から吹きこみ、朝の寝床は粉雪で真白になった。(雨竜町史)[20]
筆者は、この拝み小屋に実際に暮らした方からお話を伺ったことがあります。その方も「目がやられる」と話していました。実際に開拓地では眼病が多く発生していたようです。
そして土の上に乾草を広げ、その上に乾草をしきひろげ、そのうえに筵をひいて入口には戸のかわりに筵を吊した。この筵は移住の際に荷造りに使用したものだ。
こうしてこの小さな拝み小屋でも炊飯や暖をとるためには焚火をしなければならない。棟の上方に小穴をあけて煙突しとした。しかし焚火の薪は生木のため、なかなか燃えないでジュージューと音を立て、煙が多く出て当時の人たちはみんな眼を赤くはらして悪くしたのである。
夜になるとその焚火のあかりと、カンテラをとぼしたが、このカンテラのことを「ことぼし」とも言い、家族の顔がやっとわかるくらいの明るさで、これに使う石油は1年に2升くらいしか要らなかった。
暗い灯の下で、互いにこれからの付く先々のあれこれや郷里の想い出を物語り、また元気に走りまわる子供たちの姿に慰められて団らんの一時を過ごし、やがてせんべい布団にもぐり込んで明日への労働力を蓄える入地当時の毎日であった。(沼田町史)[21]
このようにして、私たちの父祖は私たちの北海道を拓いていきました。
【引用出典】
[1]『風連町史』1967・65p
[2]『北村村史 上』1985・449p
[3]『足寄町史』1973・789p)
[4]『北村村史 上』1985・449p
[5]「豊頃町史』1971・1111p
[6]『丸瀬布町史』1974・1287p
[7]『音威子府村史』1976・41p
[8]『雨竜町史』1969・528p
[9]『足寄町史』1973・789p
[10]『足寄町史』1973・789p
[11]『中札内村史』1968・332p
[12]『風連町史』1967・65p
[13]『丸瀬布町史』1974・1284p
[14]『倶知安町史』1961・83p
[15]『北村 上』1985・449p
[16]『北村 上』1985・449p
[17]『音威子府村史』1976・41p
[18]『風連町史』1967・65p
[19]『栗沢町史』1964・274p
[20]『雨竜町史』1969・528p
[21]『沼田町史』1970・109p
【図版出典】
①高倉新一郎・関秀志『北海道の歴史と風土』1977・山川出版
②『栗沢町史』1964・274p
③北海道開拓の村公式サイトhttp://www.kaitaku.or.jp/guide/tatemono/49.htm
④『倶知安町史』1961・83p