最後の開拓者のメッセージ
開拓者は、原生林に一歩を踏み出すと、雨露をしのげる小屋を最初に建てる。「着手小屋」「拝み小屋」とも言われる。筆者は、この拝み小屋を建てて実際に暮らした開拓者を取材したことがある。2002年にお話を伺った、標茶町虹別の酪農家、後藤鶴吉さん当時103歳。1900(明治33)年に宮城県に生まれ、1929(昭和4)年に30歳で虹別に開拓に入った。おそらく北海道で最後の開拓第1世代だ。
「最初に拝み小屋さ。入って、雨しのぎ、風しのぎ。(宮城から持ってきた)荷物は夜具だけさ。
──寒くなかったですか
寒いさね。吹雪で雪が降って大変なことになったことは何度もあるよ。それでも薪は一杯あるからね。一日中、ゴンゴン、すね毛が赤くなるまでくべたよ。内地よりも暖かいぐらいさ。でも、煙がひどくてねぇ。目を悪くした人は一杯いたよ。あったかいから、ヘビの巣になるんだよ。天井からヘビが落ちてきて、家内がこんなところにいられないと泣き出したわ。おなごは大変だったな。
──開墾ではどんなことを
はじめの年は、(立木を)切って、切って、切って、片づけるぐらいなもので、ほか、どうしようないもの。木はたいした燃やした。内地からみたら、燃料が豊富でしょう。寒さといっても堪えないわけさ。真っ赤になるまで焚くから。これが一番の贅沢だったな。
2年目からは共同して、馬を使うようになった。やっぱり馬だな。(切り株を)伐根で起こしていくんだ。こんな長い鎖を馬に巻いて、おう、行くぞ、三回ぐらい煽って、ズズ~ン。大きなのは根を張って、腐らないと掘れないんだよ。全部起こすのに30年かかったよ。
──大変なご苦労ですね
いやぁ、(根釧地方は)気候が悪いとよく言われたもんだよ。それでも、草が生え、水があれば、人間は生きられるんだよ」[1]
後藤鶴吉さんの最後の言葉、開拓を経験した者でなければ語れない。今も心の支えとなっている。
さて、鶴吉さんの証言にあるように、開拓の初年度は伐採で精一杯だった。自給自足が可能になるのは順調にいって開拓2年目の秋以降だ。この間、開拓者はどうやって命を支えたのか。周囲には商店一つないのだ。さらに北海道の厳しい冬をどう越したのか。
北国の暮らしをアイヌから教わった
網走のモヨロ貝塚の発見でオホーツク文化の存在を明らかにした網走の在野考古学者米村喜男衛は、考古遺跡の発掘の傍ら、開拓第1世代の貴重な聞き取り記録を『北方郷土・民族誌』(北海道出版企画センター)に残している。網走の最初の移住者、瀬川惣之介の談話である。
「網走で初めて越年したのは明治十二年の秋からであった。その時は和人で又十の番屋以外に越年する人はなく、アイヌ小屋に宿ることになったものの米を求めることが出来ない。又十に行って願ったところ越年する者には米を売ることが出来ないといわれ、当時では又十の店の者以外は和人で越年する人を喜ばぬ状態であったのでこれには実際弱りました。ようやくアイヌの人達から三四升分けて貰って、それを基にして多くは狩捕った熊や鹿の肉を食ってアイヌ人と同じような生活を続けてその年を越しました。毎日アイヌとばかり話し合っているのでアイヌと同じようなものでした」[2]
1年の半分を雪で閉ざされる世界でもまれな極寒豪雪の地で、鍬と鋸だけをもった開拓者が生き延びるのに家柄、学歴……、出身地から引きずってきた和人としてのプライドは何一つ役に立たず、長年この地で暮らしてきた先駆者に教えを請う謙虚さのある者だけが生き延びることを許される。瀬川惣之介はアイヌの人たちと冬すごす中で北海道での生き方を学び、開拓を成功させた。初期の開拓者に食糧の取り方、草木の利用法、家屋の作り方……。極寒豪雪の地で生きる方法を教えたのは他でもないアイヌの人たちだったのだ。リンク参照
北海道の開拓は、決してアイヌの人たちを奴隷のように使役して、開墾作業に従事させたわけではない。入植者は北海道の先駆者であるアイヌの人々をリスペクトし、鉞を振るい、鍬を持ち、自らの血肉をすり減らして原野に挑んだのだ。
世界の先住少数民族の迫害史には目を覆いたくなるものがたくさんある。中でもアングロサクソンが進出したアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどで白人入植者は、先住民を「人」と認めず、狩猟の対象、興味本位で殺戮の対象にしたという。決して許してはならない人類史上の犯罪だ。ひるがえって、われらの祖父はそんなことをしたか? 原生林の中で苦しみ、むしろ先住民族から施しを受けていたのだ。白豪主義と呼ばれるキリスト一神教の白人社会の悪業を背負ったアングロサクソンの開拓は、われわれとは似て非なるものだ。
本当に助け合いの精神があっての社会
「北海道150年」の内容を検討する「道民検討会議」に委員として出席したアイヌ協会の加藤忠理事長はこんな発言をしている。
「アイヌの人は漁業をする人が多かったのです。ですから、その漁業で獲れた魚をですね、開拓者に無料で運んで、開拓者の人もね、生活するのに大変だと。冬のこの寒い時期にどういうふうにして生活するか。家を建てるのに板もない、何もない。そんな状況の中ですから、本当に助け合いの精神があっての社会だったと私は思っております。中には生活が困って、自分の子どもを育てられなくて、本州に帰るためにアイヌに子どもを預けて帰る人を、私としては多々見ておりました。私たちアイヌ協会は、過去を忘れることはないけれども、違いを水に流すこともなく、理解し認め合う社会だと思っております。共生の社会建設と思っておりますので、どうか今日集まっている皆さんも今後ともよろしくお願いしたいと思います」[3]
本当に助け合いの精神があっての社会──。それが開拓期の北海道だった。
最後に1954年「津別町の開村35周年」につくられた「津別町行進曲」の3・4番[4]を紹介する(『津別町史』1954年)。これが北海道開拓の精神なのだ。
[1]①② 標茶町『湿原を守り、酪農に生きる─標茶町(北海道ふるさと新書)』2002・北海道新聞社・82−85pに筆者の取材メモより加筆
[2]米村喜男衛『北方郷土・民族誌2』1981・北海道出版企画センター・185−186p
[3]『第1回北海道150 年道民検討会議 議事録』(2016/6/10)8p http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/sum/sho/douminkentoukaigi.htm
[4]『津別町史』1964・津別町役場・660p
③高倉新一郎・関秀志「北海道の風土と歴史』1977・山川出版・174p