北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

拓植医

 

前回
「開拓地の医療」として、病院のない開拓地の医療事情を紹介しました。もちろん、開拓地であっても医師は必要です。無医村のまま戦後まで過ごしたのではありません。北海道の原野に分け入った入植者たちは大変な思いをして医師確保に努力しました。また地域の熱意に応えて開拓地に飛び込む志の高い医師もたくさんいたのです。開拓地の医療事情の続きとして「拓植医」と呼ばれた存在を紹介します。

 

常呂病院の新築海員

開拓地に医療の光が差した──常呂病院の新築開院・大正10年(出典①)

 

■医師を帯同させた開拓団

医療は開拓の成否を左右する重要な問題でした。英明なリーダーに率いられた開拓団には、あらかじめ医師を加える団体もありました。北竜町は千葉県埜原村の𠮷植庄一郎が率いる千葉団体38戸が明治26年に入植して開いたまち。𠮷植は大変有能な開拓指導者で、入植地の医療事情を見越し、医師を開拓団に加えました。
 
どこでも開拓地にはいって、最初に悩んだのは教育機関と医療機関であった。本町の場合もこの事情に変りはなかった。明治26年といえば、深川、滝川、沼田等の現在の都市が、まだできていなかったし、30キロメートル以内に医療機関は全然ないという状態だった。千葉団体の吉植団長は、このことを計算に入れて医師の免状を持っている鈴木完爾を団員に加えて移住したが、この土地に長くとめておくことはできなかった。鈴木医師は、間もなく新十津川の製麻会社に招へいされ、嘱託医として赴任したのである。(『北竜町史』[1])
 
開拓地の状況は吉植団長にも鈴木医師にも想像以上だったのでしょう。鈴木医師はすぐに入植地を出てしまいます。そこで𠮷植団長が苦労して見つけてきたのが阿蘇さんという怪しげな人物。
 
明治29年、恵岱別駅逓の取り扱い人として赴任した阿蘇元庵は、漢法医であったから、求められれば診療に応じた。その子達明は阿蘇農場を開いた人であるが、有名な酒豪で年中酒をにおわしているというらい落な人。東京の医学校を中退して免許を持っていないというウワサだったが、よく病人を扱って治療した。当時の人は「阿蘇先生の薬はよく利くが、一度あの先生の薬を飲むと、ほかの医者の薬が利かなくなる」と評判した。ある古老は「阿蘇先生は薬を標準量の2倍も用いる医者だったから」そういう結果になったのだと語っている。(『北竜町史』[2])
 

■地域限定仮免許

阿蘇先生が医師免許を持たないにもかかわらず、逮捕もされずに開業を続けられたのは、明治時代には地域限定の医師免許があったからです。
 
「医師免許規則」が制定されたのは、明治16年10月23日、太政官布告第35号によるものである.この規則の第5条に、次の条文がある。
「第5条医師二乏キ地二於テハ府知事県令ノ具状ニヨリ内務卿ハ医術開業試験ヲ経サル者ト雛トモ其履歴ニヨリ仮開業免状ヲ授与スルコトアルヘシ」というのである。即ちこれにより、仮開業免状を与える限地医の制度が設けられた。明治17年6月、この限地医についての運用通達があって、本道の山間僻地や孤島などの地域を限って開業が許可された。(『北海道医師会史』[3])
 
すなわち明治時代はへき地の特例として医師国家試験を通らなくても、医療に関わる経験があれば仮免許が与えられたのです。おそらく阿蘇先生はこの布告によって医療行為が認められたのでしょう。北海道だけに限った特例措置ではありませんが、北海道の開拓地で大いに活用されました。
 
最も遠隔な根室県では「明治七年、医療試験制度を廃し、漢洋の医術を問わず、多少の経験ある者は勝手に開業ができた。この年の三月、根室支庁から『勝手開業不苦』と言う布達が出された」(『遠軽町史』1060p)といいます。医師免許がなくとも苦しゅうない──。とはいえ明治の後半ともなれば医学も発達し、さすがに時代にそぐわなくなっていきます。地域限定の仮免許は明治39年に廃止されました。
 

■開拓地医療の自助努力

『浜中町史』185p

いかに開拓地の住民が医師を渇望したか。表は『浜中町史』にある霧多布総代人会の「明治27年町村協議費予算」です。総代人会は浜中がまだ村なる前に霧多布の住民によってつくられた自治組織です。支出のほとんどが学校と医療に充てられています。
 
また収入が村の共有財産(海産干し場)の運用益と住民の拠出によって賄われており、公費補助がないことにも注目してください。こういう例を見ると、北海道の開拓は官依存──という世評が見当違いであることがわかります。
戦後、霧多布診療所の道下俊一医師が「北海道の赤ひげ先生」と呼ばれて有名になりますが、その背景にはこうした住民の歴史がありました。
 

■「町村医制度」

もちろん、道がまったく助成制度を設けていなかった分けではなく、明治21年に「町村医制度」という制度を設けます。これによって赴任した医師は「拓植医」とも呼ばれました。
 
明治十五年、開拓使の廃止と共に官医制度が廃止きれ、十九年からは公立病院もまた閉鎖きれたので、医師は自然に札幌・函館などの市街に集中して町村では医師が少なくなり、開業しても人口が少ないため、自立困難なところから二十一年四月に町村医設置規則を公布し、補助月額一○円以上、年一、○○○円以内を給与して町村での医師の開業を促した(『遠軽町史』)[4]
 
このあたり、都市部に医師が集中し町村部が医療過疎になる現代をほうふつとさせるものがあります。この村医・拓植医は、今の公立病院の勤務医とは違います。
 
村医といっても、一般には公営の診療所を設けるというのではなく、民間の開業医を嘱託任命して手当てを支給するという仕組みだった。しかし、はじめのころは辺地の地方には開業医がいなかったから、開拓使や三県、そのあとの道庁も専門の医師を雇って辺地に派遣するという方法もとった。(『天塩町史』)[5]
 
立場としては独立した開業医であり、そこに町村が手当を支給するというものでした。
 
村医の嘱託は、明治時代から昭和27年頃まで続いた。明治末では村医1人月俸40円を支給、これに対し地方費補助が2割交付されていた。一般衛生費は種痘に要する薬品代とこれの医師手当、伝染病が発生した場合に使用する薬品代と器具代程度であった。(『幌延町史』)[6]
 
この毎月の手当40円に加えて患者が支払う治療費も収入になります。薬代や器具代は村の負担ですから、固定給が補償され、経費もかからず、患者が増えれば増えるほど所得が増えました。
 

■医療の自助・共助

どんなに好待遇を用意しても開拓地に長く留まる医師は少なく、赴任してもすぐに居なくなり、すぐに苦労して医者を探さなければならなくなります。好待遇を用意するため、村の財政だけでは賄えず、村民が負担する例もありました。
 
折角の医師を失なった住民は、それからまた不安な日を続けねばならなかった。
その当時医療施設のあるのは、遠隔の夕張炭山か岩見沢(明治21年設置)だけで、これを利用するよりほかなかった。この不便に絶えかねた村では、早速協識の結果村医の設置を要請することになった。その内容は医師の月給を約20円として、全額官費に依りたいところではあるが、止むを得ない場合半額村民が負担し、なお建物、医療施設は村民や有志寄附で建てた。
 
当初角田・由仁両村医として考慮されたが、この悲願は由仁村では概算1戸当42銭8厘の負担金に堪えがたき旨もあって、角田村の負担で設置することで明治26年5月に承認することになり、直ちに医師を選定のうえ重ねて上申するように指示された。しかし医師不足の折柄。僻地に赴任する者は少なく、その誘致に3カ年を費している。(『栗山町史』)[7]
 
この栗山町の例では役場が手当の半額を負担し、残りを村民が戸割で負担しています。その負担が重く、由仁は辞退しています。
先に紹介した霧多布の例の延長です。今医療は公助の代表ですが、開拓時代の北海道では自助・共助が原則だったのです。
 

■開拓医、東西奔走

開拓地に赴任する医者も大変でした。これは『倶知安町氏』に載っていた明治36年に倶知安町に拓植医として赴任した横尾弘氏三郎氏夫人ミチヨさんのお話です。
 
明治三十六年には横尾弘三郎が伊達からきて旧市街二条通一丁目に開業した。横尾弘三郎夫人ミチョ(岩内町在住)は当時のもようをつぎのように語っている
 
病院といっても、普通の民家で私たちは二軒の民家を借り、一軒は住宅に一軒は診療所にした。二年位へて、今の保健所のところに病院を新築、大正のはじめに一度改築した。村にきたころは佐久間さんは白い馬、横尾はアオ毛の馬を持って、往診の時は馬に乗ってでかけた。冬は馬そりを付けて、先生は湯たんぽにぬくもりながら部落に走った。
 
往診の範囲が広く六郷はほんのお隣り、硫黄を出している岩尾登に行くのは大変だった。夏は硫黄を運ぶバケットに乗って山本まで行ったが、冬は馬でなければゆけず、あるときに馬が谷底に落ちて一頭ダメになった。私の家は外科が主だったので、鍬やクワでケガをした農家や、トラホームの患者が多かった。一度峠に熊が出て、それに襲われた農夫が病院に担ぎ込まれたが、病院で間もなく死んだ。
 
伊達から出てくるときは、木の車の馬車に荷物と一緒に乗り、伊達から壮瞥までは馬車、壮瞥で船に乗り換え洞爺湖を船で渡って、先回りしていた馬車に乗り換え留寿都の三の原に一泊、三の原から狩太を経て倶知安にきた。(『倶知安町史』)[8]
 

■医は仁術なり

多くの拓植医は良い条件を求めて頻繁に移動しましたが、腰を落ち着けて診療にあたる医師には優れた人物が多く、町民に慕われました。まちづくりの指導者として活躍した人も多かったのです。
 
初代医師は寺田駒吉であったが、あまりに辺地であったためか、短期間で転出、そのあと大島某が着任したがこの人もすぐ転出、三人目に木幡忠雄が就任した。その木幡医師は一年ほどで石狩地方に去り、ついで安田某が一、二カ月勤務して北見地方に転出、再び木幡医師が来任して、こんどは永住。娘のイトは拓殖産婆として働いた。往診は、この人もほとんど乗馬であった。ろうそくの明りで調薬している姿を記憶している住民も多い。昭和十四年七月、八十余歳で死亡。世話になった住民たちは部落葬をもって故人を弔った。(『士幌村史』)[9]
 
 
問庭医師は「医は仁術なり」との諺通り、貧者に対しても差別なく医療を行ない、冷害凶作に当り治療代も満足に払わぬ者の多い中でも平気で診療を行なった。同時に村の発展に寝食を忘れ村民の生活安定のために尽し、その間大正十二年より昭和八年まで三期にわたり村会談員となり、巡んで私財を投げうつて福祉の増進を図り、一面村財産たる四百九十六町歩と二百六十町少との二ケ所の村牧場地払下げについても自費運動十数回に及び、これが資金源となつて学校校舎や役場庁舎等の建築費を生むに至った。
医院の方では既に未収薬代金二万余円に上ったが意に介せず自らは極めて質素な生活に甘んじて終始一貫よく郷土の発展に尽した典型的な良医であり、有力者でもあった。(『小清水を拓いた人びと』)[10]
 


【引用出典】
[1]『北竜町史』1969・622p
[2]『北竜町史』1969・622p
[3]『北海道医師会史』1979・61p
[4]『遠軽町史』1977・1060p
[5]『天塩町史』1971・578p
[6]『幌延町史』1974・832p
[7]『栗山町史』1974・612-613p
[8]『倶知安町史』1961・121p
[9]『士幌村史』1962・231-232p
[10]『小清水を拓いた人びと』1968・91p
【写真出典】
①北方資料デジタルライブラリー 
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/lsearch.php?libno=11

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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