民族共生象徴空間「ウポポイ」オープン記念
[白老]コタンのシュバイツアー 高橋房次
生涯を白老アイヌコタンの医療に捧げて
民族共生象徴空間「ウポポイ」が本日(令和2年7月12日)にオープンします。そこで、泉鱗太郎シリーズの連載中ではありますが、みなさまに是非知っていただきたい、白老町の拓植医・高橋房次先生のことをお伝えします。
民族の本当の共生は互いを否定しあうことではなく、互いに認め合うことです。残念ながら今、アイヌの歴史や文化を認めることは強く求められる一方で、北海道開拓の歴史は否定されるものとなっています。それは決して共生の道ではありません。本当の共生とは何かを高橋先生に教わりたいと思います。
■白老土人病院院長
高橋房次先生(①)
旧土人保護法によって、白老アイヌにも西洋医学が施されることになりました。大正11(1922)年3月、北海道庁立白老土人病院に院長として赴任したのが高橋房次先生です。
高橋先生は明治十五年、栃木県下都賀郡間々田村(現小山市内)に、父友四郎、母テイの間に、9人きょうだいの五男として生まれました。生家は農家ではありましたが、代々つづく旧家で母や村でただ一人の産婆でした。頼まれると報酬も求めることなく出産を引き受けていたと言います。
高橋先生は、この母より幼い頃から「房次よ、大きくなったら、金をもうける人より、貧乏でもよい、少しでも世のため人のためになるような人間になれ」と聞かされて育ったそうです。
長じて栃木中学から東京慈恵医学専門学校に進み、明治26(1893)年に医師となりました。そして日露戦争が勃発すると軍医として従軍しています。
高橋先生も、多くの北海道開拓者と同様に北海道への強いあこがれがあったのでしょう。戦争から戻ると、実兄を頼って小樽に渡り、医療に従事。その後、青森県田名部郡の町立病院に勤務して実務経験を積んで、再び北海道に渡ります。日高の新冠、恵庭の輪厚、札幌の篠路と拓植医を経験して、41歳で白老の土人病院院長に迎えられました。
その後、昭和37(1962)年に亡くなるまで生涯を地域医療、なかでもアイヌコタンの医療に捧げ「コタンのシュバイツアー」と呼ばれるようになりました。
■コタンの主治医として
昭和62(1987)年に、白老名誉町民浅利義一顕彰会によって出版された『根性─浅利義一伝─』は白老町民選初代町長浅利義一を顕彰するものですが、「浅利義市氏顕彰会発起人会の席上で誰ともなく、高橋先生の事も忘れてはいけないと言うことになり、この機会にぜひ『根性』のヘージをさいて先生の尊い生涯を後世に伝えてほしいと言う事になった」として高橋先生の評伝を載せています。
彼がコタンに赴任して、まず考えたことはアイヌ人の家庭分布状況と、その家族構成や健康状態の調べた。彼は着任早々一軒一軒アイヌ人の家庭を訪問し家族の況求、健康状態を調べ、病名を分類して統計表、台帳をつくりあげた。
その結果、いろいろなことがわかった。アイヌの人たちはカムイ(神)に祈ることで病気はなおるものと信じていたから、せいぜい草木の根や皮などを煮出して飲んだり、傷の手当なども塩水で洗ったりし、ころの樹皮の煮汁を使ったりしていたにすぎなかった。
当時、もっとも多かった病気は、梅毒、肺結核、トラコーマなどであった。ことに梅毒は、もともとアイヌ人にあったものではなく、和人の渡来によって持ちこまれたもので、この病気にかかってむしばまれる者が多く、かれらにとっては思いもよらぬ悲劇であった。高橋は、これを「当時、北海道にはいってきた内地人たちの絶対にまぬがれることのできない犯罪である」といきどおっていた。
彼は、これらの調査のあいだに、アイヌ人一人ひとりの人間性をつかむことも忘れなかった。それは、医業がたんに技術や薬品を売る仕事ではなく、人間性にひそむ内面的な苦悩をとり去ってやることこそが欠かせないものであるとの信念からであった。
かれは、往診料をまったくとらなかった。それでいて、午前中病院での診察で病状が重いと思われる患者の家へはたのまれなくても午後から往診をし、午後の往診で重態と考えられるところには、夜中になってからも再往診してやるのがふつうであった。
しかし、人間である以上、寒い夜中の往診依頼は決してうれしいことではなかったはずだが、彼はは決して断ることがなかった。四キロ以上もある農家から迎えにきたときなど迎えの人を自宅で休ませておいて、自分の迎えの馬に乗って吹雪の中を往診して帰り、待たせておいた人に薬を持たせて帰すなど、いたわり深い彼の行動はアイヌの人々を感動させた。
彼はひげをはやしていたが、往診から帰ったとき、そのひげは白く凍りつき、入り口に立つ彼の姿を見た妻が「雪だるまが歩いてきた」と冗談をいって迎えることがたびたびであったという。[1]
■開拓団の拓植医として
高橋先生が慈愛の手を差し伸べたのはアイヌコタンだけではなく、当時北海道一貧しい村と呼ばれた白老の開拓農民にも医療の恵みを届けました。昭和7(1932)年、現在の白老町森野地区に山形県から入植団が入った時、道から嘱託を受けて拓植医を兼務することになりました。
彼は週二回、当時まだ熊が出没した山道を、自転車で診療所と定められていた小学校へ出むいた。ここの人たちの生活は悲惨なものであった。彼は単に往診料や薬代を受けとらないのみでなく、貧しい家にはときには衣料や米、子どものいる家々には菓子などを持ってゆくことをあたり前のこととしていた。
患者を診ての帰りぎわになってから、持って帰るのが面倒だから使えるものなら使ってほしいといったさりげない様子で置いてくるのが、彼が貧しい人たちに物を贈るやり方だった。
彼は当時、こんなことをもらしていた。
「道路に行き倒れがあったとする。その場合、自分は医者だから、すぐ病気だと考えがちになるが、しかしほんとうに苦労をしている開拓部落の人たちなら、飢えのために倒れたのではないかと、まずは胃袋にさわってみた。そこまでの思いやりがなければ、ほんとうの医者ではないと自分に言いきかせていた……」 [2]
先生は戦後に実現した日本が世界に誇る国民皆保険制度を早くから見通していました。
彼の医療に対する考え方は、ひたすらにヒーマニズムに立脚していた。そして、彼は若いときからその死に至るまで医療国費論をつねに主張していた。尊い人命をあずかる医療が、一個人の営業であっては絶対にいけない。当然国費として貧富の差別はなく、平等に医療を受けられるようにすべきあると主張し続けていた。しかも、それは彼が白老に赴任した大正年間から一貫して口ぐせに誰彼となく熱っぽく説きつづけていたのだった。[3]
■北海道文化賞授与
戦後、白老町に町立病院が開設されることになりました。町民はこぞって町立病院の初代医院長になるように高橋先生に求めましたが、高橋先生はかたかくなに固辞し、当時白老町の市街地にあったアイヌコタンの中央にあった古びた病院で黙々と治療を続けました。
昭和30(1955)年、白老町は名誉町民条例を制定し、満場一致で高橋先生を第1号に推しました。しかし、先生は自分はそのような大それたものではないと固辞するばかりです。名誉町民条例は高橋先生を顕彰するために設けられたようなものでしたから、浅利町長は懸命の説得を続け、ようやく承認いただけといいます。
高橋先生の長年にわたるアイヌコタンでの医療はやがて「コタンのシュバイツアー」としてマスコミに取り上げられるようになります。昭和37(1962)年には、北海道文化賞が贈られることになりました。先生は授賞式の席上でこんな挨拶をしました。
「私は医者になってこのかたただの一日も聴診器を手放したことはなかった。その私が、今日、はじめて聴診器を持たずにここにやってきた」[4]
白老のアイヌと地域医療に生涯を捧げた高橋先生が亡くなったのは文化賞受賞の翌年、昭和35(1960)年6月29日のことでした。翌日の白老町町葬には、別れを惜しむ人々の行列が数百メートルにわたって続いたといいます。
往時の高橋病院(②)
■後日談
晩年の高橋先生は
彼の病院は、土人病院時代そのままの木造平屋で、内部に何の飾りとてない殺風景なものでいかに名医といっても患者の減るのは当然のなりゆきだった。現在とはちがって、当時の旧アイヌ部落は、いかにもうらぶれた感じの火山灰地といった印象で、その真ん中にポッンと高橋医院が建っていた。彼は閑散な診療室で一日十人ぐらいの患者を診る日々を送っていた。
彼の白衣はほころびていたし、おそらく軍医時代から愛用のズボンであろうか、ラシャのズボンはボタンがとれていたが、気にかけるふうもなく、旧知の故宮本酋長ら部落のエカシ(古老)たちが来ると、楽し気に昔話に興じていた。めったに喜怒哀楽の情を出さぬ彼だったが、エカシたちと語ったり、孫の相手をするときだけは、いかにもうれしそうに童顔をほころばせていた。[5]
という生活を送っていました。そんな先生ですから一切の財産を残しませんでした。同書「高橋房次先生を偲ぶ座談会」には、国連総会で演説したことで知られる北海道ウタリ協会理事長、野村義一氏が奔走し、道の名義であった土地建物を息子であり歯科医師として白老町で活躍していた高橋昭氏の名義にしたエピソードが紹介されています。
国連総会で演説する野村義一北海道ウタリ協会理事長(③)
野村 私は病院のあったすぐ近くで育ったので家中でお世話になった。特に妹はとても可愛がっ
てもらい後にはお手伝いをしていた。何しろ近くなので風邪などひくと、飛んで行って注射をして貰った。
山丸 野村さん病院の土地の話をしてほしい。
野村 先生が病院をやめるころ「ここの土地や建物がどうなっているの」と聞いたら先生は「知らない」と答えた。それで道庁に行った時に調べると、国の土地になっていた。
そこで当時新聞や雑誌に先生のことが種々出いたのを切り抜いて、財務局に持って行って、話したところ、白老にそんな立派な先生が居たのかと、感激して早速払い下げをして呉れる事になった。価格は当時のお金で坪三○○円で九○○坪あったので二七万円だった。
早速先生に「お金ありますか」と聞くと「金はない」と言われた。困って役場の助役をしていた河井海之助さんに相談をした。結局河井さんがこのお金を払って呉れたらしい。この土地の名義は息子さんの昭さんにしたと思う。建物は道の方で登記をしていなかったので、無償で先生にと言うことだった。
病院は閉鎖したあと子供がいたずらをするので、こわしてしまったが、今考えると惜しいことをした。あれを手入れして先生の記念館にすれば良かったよ。[7]
私はまだ見ていませんが「ウポポイ」では、アイヌ医療に生涯を捧げた高橋房次先生が大きく紹介されていることを期待します。
【引用参照文献】
[1]白老名誉町民浅利義一顕彰会編『根性─浅利義一伝─』1987・235-236p
[2]同上237-238p
[3]239p
[4]241p
[5]242p
[6]246-237p
[7]247-251pより関係発言を集約
① 同上248p
② 同上249p
③北海道ウタリ協会『先駆者の集い第58号』1993/3/29・表紙