開拓使附属「北海道土人教育所」
同化の象徴 土人教育所に
本当に〝強制連行〟はあったのか?
■夕張鉄五郎は東京に強制連行された!?
「北海道土人教育所」について、代表的なアイヌ史の入門書『いま学ぶアイヌ民族の歴史』では、こう紹介されています。
先住民族における「皇民化」政策が、教育においても進められた。1872(明治5)年、東京におかれた開拓使に仮学校が設置され、付属機関として「北海道土人教育所」が設けられたが、ここにはほぼ強制的なアイヌ民族の連行があった。寄宿舎での生活は、官憲の監視下におかれ、アイヌの風俗や言語が完全に禁止された。しかし、生活環境の大きな変化もあって、脱走者1名、死亡者4名、病気による帰郷者3名にのぼり、アイヌ教化、農業指導者の育成という目的は失敗に終わった。[1]
この学校に対する代表的な論文である広瀬健一郎氏の『開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究』では、「表1 連行者一覧』で、夕張から「連行」された者として次の2名が挙げられています。
夕張安次郎 アフンテル 38 官園 乙名
下夕張鉄五郎 テッピリア 34 官園 小使の子[2]
と確かに鉄五郎の名前が記されています。(実際には附属する「開柘使官園」で農業教育を受けたようです)
研究者の言うように「アイヌの世界観や生活スタイルを破壊するものであった[3]」のなら、このような場所に強制連行され、数々の辱めを受けたわけですから、和人に対してはさぞ恨み骨髄であったでしょう。鉄五郎も途中退学したようです。
■開拓に亡くてはならぬ人だった夕張鉄五郎
東京で自らの文化を否定されるという屈辱的体験をしたのに鉄五郎は、泉麟太郎の開拓を助けたほか、終生亡くなるまでこの地方の開拓者の面倒を見ています。栗山町『町史編さん室ニュース―第3号』は鉄五郎についてこう書いています。
明治21年5月、角田入地をめざす夕張開墾起業組合の一行を丸木舟で渡してくれたのが、夕張鉄五郎ことテッピリヤだ。5人の子どもあり、由仁古川の高所に住んでいたが移住者が増えるにつれ丸木舟利用も多く、夕張河畔に居を移した。テッピリヤは、渡し守だけでなく医者のいない時代、病人が出ると千歳の医師宅に走り薬をもらってくるなど、なくてはならぬ人であった。[4]
鉄五郎だけが特別だったのでしょうか。「北海道土人教育所」は実際にはどういうものだったか。詳しく見て見る必要がありそうです。
■根拠が示されていない「強制連行」
前述の広瀬健一郎氏の論文(以下「広瀬論文」という)は、[註]に「北海道土人教育所という施設の存在は殆ど知られていない。筆者が知る限り・・・」[5]とあるように、「北海道土人教育所」について書かれた初めての本格的な論考あり、現在もこの教育所について基本的な文献となっています。この論文によって教育所の様子を見ていきます。
まず、東京の同校への入学ははたして「強制連行」だったのでしょうか? 「広瀬論文」では、こう述べています。
北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学について、これを「東京留学」と把握する先行研究が多い。しかしながら、東京へアイヌを連れて行くことがアイヌの生活の破壊と不可分に行われたこと、また加藤が指摘するようにアイヌが東京行きを拒んだことを考えればこれを「留学」と把躍することはできない。
この施策を「東京留学」と把握する背景には、連行の実態に対する認識が欠如している。北海道土人教育所と開拓使官圏への強制就学が、アイヌのいかなる犠牲の上に成立したものであるかに注目しなければならない。[6]
と述べた上で、
1872年9月開校の開拓使仮学校附属女学校の場合、開拓使は「有志之者」を募集し「検査之上」入学させている。アイヌの場合は、札幌開拓使庁主任・岩村通俊が東京行きを拒むアイヌを「説諭」した。説諭の実際は不明だが、開拓使は嫌がるアイヌを連行したのである。[7]
と述べています。これが「広瀬論文」における「強制連行論」の論拠です。現著のスクリーンショットを示しますが、学術論文として確定的な事実を示すときは根拠を()で注釈として示すものですが、この論文では、論文の核心とも言うべき「嫌がるアイヌを連行した」という記述を裏付ける根拠は何も示されていません。
■行かない選択肢があるのに、なぜ「強制連行」なのか
岩村通俊はねばり強く説得はしたのでしょう。説得に苦労もしたようです。しかし、そのことイコール「連行」にはなりません。
辞書によれば「連行」とは
①つらなって行くこと。一緒に行くこと。
②本人の意志にかかわりなくつれて行くこと。特に、警察官が犯人・容疑者などを警察署につれて行くことをいう。[5]
行く・行かないの選択肢が与えられていないのが「連行」です。「アイヌが東京行きを拒んだ」のであれば「連行」にはあたらないし、「強制」にもあたらないはずです。
ことの起こりは1872年4月30日に黒田清隆長官が岩村通俊主任に命じた「土人百人計農業現術修行為致、出京申付候様御下命」であったといいます[6]。100人集めよ──という黒田長官の命令に対して、実際に上京したのは35人でした。65人に断られて「強制」と言っていいのでしょうか?
■東京行きを断ってもペナルティはなかった
アイヌが就学要請を断ったことに対するペナルティがあったとはどこにも書かれていません。
「東京へアイヌを連れて行くことがアイヌの生活の破壊と不可分に行われたこと[7]」が「連行」の論拠に上げられていますが、これも〝家長がいなくなれば残された家族は困るであろう〟という筆者の推測であり、生活が破壊されたという根拠も示されていません。それどころか
松本は札幌村のアイヌ2人を再度連行しようとしていた。この2人は夫婦である。男の兄は5月に開拓使官園で亡くなっている。彼の家族は72歳になる母、43歳になる姉、3歳の姪、34歳の弟である。
このような家庭で2人の青年を東京へ連行するならば、家族の困窮は必至である。アイヌが東京行きを拒むのは当然であった。そこでこの2人は、北海道を出発するにあたって扶助米を要求した。これによって松本十部は再連行を保留にし、扶助米の貸し付けを東京在勤の西村少判官に申請している。[8]
として、家長が不在になることに対する配慮──充分かどうかは別にして──があったことが示されています。
100人の計画で実際に就学要請に応えた者は35名だったということは、家を離れることで不利になる者は要請を辞退したと考える方が自然でしょう。「広瀬論文」が示した事実のみをトレースすると、アイヌには「行く」「行かない」の選択肢が与えられ、「行く」ことを選んだ者だけが上京し、「行かない」ことを選んだ者には特にペナルティは与えられていなかった──と理解する方が自然です。これに「強制」や「連行」という言葉を用いるのは不当というべきでしょう。
■学校はアイヌを手厚く保護したのではないか
たしかに罹患者が発生し、4名もの方が亡くなったようですが、寄宿舎には医官が当直していましたし、病気になった2名に対しては、函館病院への移送と入院が行われています[9]。明治5年という時代を考えると、むしろ手厚い保護のように思えます。
「従来慢性脚気痕ヲ患」とある。「従来」とあるが、東京に連行する際,健康状態の優れないものを選抜するとは考え難いので、この生徒が脚気になったのは東京に連行してからである。脚気はビタミンB1の欠乏によって罹患するものだから連行したアイヌの栄養状態は極めて劣悪だった[10]。
とありますが、脚気は外見からは病気をうかがいにくい病気です。開拓使からの要請に応えようと脚気であることを隠したとも考えられます。脚気は長年の生活習慣から来る病気で、長期のビタミンB1不足がなければなりません[11]。
当時、脚気は「江戸わずらい」と呼ばれた原因不明の病で、広く流行し、皇族すら脚気にかかっていました[12]。
そもそもこの学校では生徒に対して
開拓使はアイヌに和食・洋食を提供した[13]
とあります。1872年、すなわち明治5年の段階で「洋食」が提供されたという事実と「栄養状態は極めて劣悪」ということのあいだに整合性があるようには思われません。脚気があったから「アイヌの栄養状態は極めて劣悪だった」と断言するのは言いすぎではないでしょうか。
■「連行」という単語が107回も登場──その意図は?
このように「広瀬論文」は、東京の「北海道土人教育所」へのアイヌの就学が強制的な連行によるものだったと述べていますが、その実、具体的な根拠は何一つ示されていないのです。
「北海道土人教育所」の生徒だった夕張鉄五郎が栗山開拓の協力者になったという謎は少し解けた気がします。夕張鉄五郎は強制連行ではなく、自ら望んで上京し、在学中も和人に対して悪感情を持たなかった──ということではなかったのではないでしょうか。
この「広瀬論文」には「連行」という単語が実に107回も登場します。筆者は「連行」というイメージをよほど読者に植え付けたかったようです。
この論文以降、北海道土人教育所へのアイヌの方々の就学は「強制連行」というイメージがすっかり定着してしまいます。
関連ページ
【註】
[1]加藤博文・若園雄志郎(編著)『いま学ぶアイヌ民族の歴史』2018・山川出版
[2][3]広瀬健一郎『開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究』(1996-12・北海道大學教育學部紀要)北海道大学学術成果コレクション
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/29521
[4]栗山町『町史編さん室ニュース 第3号・2016/10・栗山町史編さん室 http://www.town.kuriyama.hokkaido.jp/docs/2016110800025/files/news3.pdf
[5]広瀬健一郎『開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究』1992/12・北海道大學教育學部紀要・北海道大学学術成果コレクション https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/29521 同92p
[6]同91p
[7]同92p
[5]精選版日本国語大辞典・2006
[6]前掲96p
[7]同91p
[8]同114p
[9]同110p
[10]同110p
[11]「タケダ健康サイト」ホーム>症状・疾患ナビ>脚気(かっけ) https://takeda-kenko.jp/navi/navi.php?key=kakke 等
[12]農林水産省ホーム > 基本政策 > 明治期の農林水産業発展の歩み > 明治日本の栄養改善と食品産業 > 脚気の発生 http://www.maff.go.jp/j/meiji150/eiyo/01.html では
明治3(1870)年以降、東京などの都市部や陸軍があった港町から「脚気」が流行り始めました。「人口動態統計」や「死因統計」から、乳児まで含めると毎年1~3万人の人が亡くなったと推測されます。明治10(1877)年の西南戦争でも、「脚気」患者が多発。その原因や治療法を探るため、翌年には、府立脚気病院が設立されました。しかし、この病院ははっきりとした成果を出すことなく、すぐに幕を閉じることになりました。当時、経験的に「脚気」が食事で改善することは一部で知られており、皇族も脚気にかかりましたが、漢方医の提唱する麦飯を食事に取り入れ、克服したと言われています。
[13]前掲110p